妖精と赤い羽脈
慌ててはいけない。判断を間違ったら死なせてしまう。
ルイは頼られる存在だ。ルミーナもエレノアも、自分の指示に従った結果こうなってしまった。今この手にある彼女だけは死なせない。今度は間違ってはいけない。――どんな状況でも。
ぐったりとする身体を抱き上げたルイは、まず彼女の耳元で意識の確認を行う。
「エレノア、聞こえますか? エレノア」
「……ん」
意外にも早く反応があって、ルイは安堵する。思わず強く抱きしめてしまった。彼女が呻くから、慌てて力を緩めた。
エレノアを横抱きにしたまま自分の寝室に連れて行き、ベッドに寝かせる。
「どこか痛いところは?」
「……ない。だるいだけ」
「呼吸は?」
「ちょっと、しにくい。でも大丈夫。風邪、ひいたみたいな感じ」
「妖精の病気に心当たりは?」
「……ごめん」
優しく丁寧に。内心の焦りを感じさせないよう、静かに問う。
「今まで僕がいない間に、こういったことがありましたか?」
「倒れるのは、初めて」
「なるほど、立ち眩みのようなものですか? しばしばあったと?」
「……うん。……怒った?」
「ええ」
――怒らないわけがないでしょう?
ルイが本心を言えば、彼女は寝具を目元まで持ち上げて顔半分を隠した。
そこまで感情を顕にしたつもりはないルイだけれど、彼女はこういった機微に敏感だ。
「どうせ君のことですから、気のせいとか、僕に言う必要はないとか、楽観的に考えていたのでしょうね」
「……お仕事も忙しいじゃん」
「そうですね。お気遣いはありがたいですが、こういうことは言っていただきたかったです」
「……ごめん」
しょげる彼女に、ルイは怒りを収める。
「お腹は空いていますか?」
「すいてない。あ、ルイのご飯、キッチンのやつもうできてるんだ。あっためて食べて」
「はい。そうしますので、君はもう寝なさい。明日はとにかくお休みです。食事の支度も掃除も洗濯も、一切、手をつけないこと」
「え、でもそれじゃルイが大変だよ」
「君が来る前には、あの子の分も合わせてやっていたことです。自分のことは自分でできますし、気にせず一日寝ているように。お腹がすいたり、欲しいものがあったら言ってくださいね」
一方的に会話を打ち切り寝室から出ると、彼はそのまま書斎へ入った。
妖精についての本や資料を探した。妖精が罹る病気、弱体化する原因、症状、そういったものの記述を求めてページを捲る。
目ぼしい情報は見つからなかったけれど、書斎にあったとある資料のとある文章の中に気になる文を見つけた。これまでも何度となく見てきた言葉だった。
『羽は命』
何の捻りもない、その字面が引っかかる。
妖精の羽が魔力の通り道であるなら、それをなくした彼女は魔力の流れを塞がれたも同然だ。それは明らかに命に関わることで、――だけれども。
そういった知識を取り払い、この文章をそのまま受け取ってしまったら?
――ああ。
嘆息する。ルイは髪をくしゃりと掻いて、じわじわ主張してくる頭痛をごまかした。
彼女の肌の冷たさが思い出された。
*
彼女の髪と羽を繋ぎとした、あの判断を間違ったとは思わない。
あれをしなければ、彼女はぼろぼろの状態で死んでいただろう。
幾重もの魔術を用いて、彼女がこうして生きていることが奇跡と言っても良い。しかしルイは素直に喜べなかった。
羽がないという、妖精にとって致命的と言える歪みは、彼女を少しずつ蝕んでいる。
まずは魔力の回路を直さなければいけない。
しかし人間でもそのような事例はなく、その上、妖精とでは勝手が違う。
全てが手探り状態の中、ルイは湧き上がる不安を押さえ付けて仕事を続けながら、羽を取り戻す方法を探した。
同じランクの妖精の羽を高額で入手した。以前に書き写しておいたエレノアの羽の絵を見比べると、羽脈の形が違っていた。個体によって様々ということらしい。形、大きさなどを調べ、最後にエレノアの背の傷口に触れさせれば、羽の方が黒く溶け落ちた。そう簡単に癒着してくれることはないらしい。
ルイが寝食を惜しまず作った、人間にはよく効くと高価な魔法薬も、無駄だった。
治癒師として最高度の技術を持つアルスも黙って首を横に振るレベルらしい。人間とは根本的に違うのだから、それも仕方のないことだ。
エレノアに聞いても、何も知らないと言う。
己に無頓着な妖精をこれほど憎いを思ったことはない。
「はあ……。よくそんな無知で生きてられますね」
「無知ってことは否定しないけど、人間が逆に考えすぎなんだと思うな。妖精は羽に触られちゃだめとか、すごい魔力はおいしいとか、そういう常識だけで十分だったからね。基本的にみんな本能で生きてるから、それだけで幸せなもんだよ?」
「……妖精の中に、知識を持つ者はいないのですか」
「ランクSSの、妖精の長って呼ばれてるのがいたと思うけど、どこにいるとか聞いたことないし」
調査は難航している。
その間、エレノアは足のふらつきが酷くなり、ベッドから一歩も出られなくなった。体温はさらに下がって、氷のように冷たくなった。
魔物の襲撃からしばらく。
街はほぼ元の姿を取り戻していた。あとは細かい備品などの修復だけというところまできている。
仕事から帰って真っ先に、ルイは寝室に向かって彼女の姿を確かめる。
おかえり、とルイを労ったエレノアは、手にしていた本を閉じた。頭を撫でて「いい子にしてましたか?」とあてつけのように子供扱いをするルイに、ふにゃりと笑った。
ルイは「今日一日考えたんですけど」と前置きしてから、
「君の中に僕の血を入れようと思うんです」
「……はい?」
ぽかんとするエレノアに苦笑する。
「血を、ね。いつものように飲んでいただきたいんです。僕が自分の血の中の魔力にお願いして、羽の形成を促してみようかと」
「凄腕の魔術師様はなんでもありなの」
「なんでもというわけではありませんよ。僕の魔力だからコントロールできるだけです。本当は君自身の血液を使えたら良いのでしょうけれど、やはり他者の魔力は好きにはいじれないものです。契約しても、さすがにそこまで細かい操作は無謀です。ですから自分の力を外部から操作して、ね」
「ふうん?」
まあしょうがないね、と頷いたエレノアも、ルイが何か仰々しい詠唱をしながら指先の皮膚をぷつりと切る場面を見て、徐々に緊張してくる。
初の試みだ。それによって自分の身体に変化が起きるかもしれないと思うと、恐ろしい気がする。
けれど羽が欲しいという妖精らしい欲求に突き動かされて、彼の指を口に含んだ。
変化はすぐに起きた。
二人が望んだ通りに。
けれど悪い方向に。
「あ、ああぁあぁ……ッ」
彼の手を弾いて拒否し、エレノアは頭を抱え込んだ。
喉と胸を抑えて、びくん、びくんと跳ねた。目は大きく見開かれていて、けれど何も映していない。何度も何度も嘔吐いて、両目からぼろりと大粒の涙が流れた。
途端。
「ああああああああああああああああああぁあああああああああああああああああああああああああああアアっ!」
「エレノアッ!?」
思わぬ変化と、彼女の聞いたこともない悲鳴に、ルイは突き動かされる。
それまでの平穏を嘘だと切り裂くような、高い高い、鼓膜が破けてしまいそうな騒音。
唄を得意とする妖精には、こんな特殊能力があるのだろうか。わからない。わからない、けれど、彼女だって何もわかっていない。得体の知れない何か、痛みか恐怖かに怯えて嘆いている。
ルイが彼女の両肩に手をかけて声をかけたけれど、彼女はただただ苦しんだ。
「たすけて、やだ、やだ、やだ……これ……痛い、いたい……っ!」
彼女の背中から生えたのは、血のように赤い羽。
きりきりきり。
真紅の細い線がエレノアの背中の傷口から伸び、重なった。
ぶち。
羽脈の形だけが、根元から繊細に織られていく。
血の羽。
右羽と左羽がゆらりゆらりと、低速で開閉されて――なんとおぞましい。その稼働に彼女の意思は反映されない。ただルイの前で見せつけるように、存在感だけを強調していた。
きい、きい、きりきり……ぶち、ぶち、くちゅ。
誰かの罪を形にしたような、嫌悪感すら生じさせるこれは、偽物だ。
エレノアの羽ではない。
ぶち、と肉を突き破るような音と、きりきりと、ぐちぐちと、何かが無理に引っ張り出されていくような耳障りな音がする。
そしてその羽は徐々に成長していく。鉄錆の匂いを辺りに撒き散らして。
「ひ、ぁ……っ」
その間にも、彼女は全身を這いずる痛みに身悶えた。血管に細い針が何十本と迷い込んだようだ。体内を無遠慮に刺して回っているような、違和感と異物感。体が熱い。目が回る。背が焼けるように痛い。痛い。体の中を熱いもので掻き回されている。
エレノアはシーツを握り、上半身をベッドに押し付けて、口から唾液を、目から涙を流して、必死に中止を乞う。「ぁ……っ!」喉奥からの小さな悲鳴と共に肢体が大きく揺らされ、背の傷口で縒られた赤い糸がずるりと這い出た。羽がまた大きく成長する。白いシーツに涙が散って、ぱた、ぱた、染みを作った。
妖精のそんな醜態を見て、ルイは己の浅慮を吐き捨てる。
「……『拒絶』か……っ」
――傲っていた。彼女には、己の魔力が最適なのだと思っていた。
けれど違う。ルイの魔力は確かに大きい。だからこそ、壊れかけた彼女には荷が重い。
元の形に羽を戻せというルイの願いを、ルイの魔力は叶えてくれた。けれど決してエレノアの一部にはなりきれずに、彼女を苦しめる。
まがい物の羽は痛みを齎す。
けれど耐えてもらわなければ。
羽が作られることによって、冷たかった彼女の体温が、確かに戻り始めている。肌の色だって良くなっている。
「いたい、やだ、やだ、……や、ぁ……!」
「ごめんなさい、ああ、痛いですよね、……ごめんなさい……っ」
頼りなく伸ばされた手を握り、ルイは彼女を抱きしめた。胸で甘えさせても、宥めるように髪を撫でても、彼女の苦痛を和らげることはできない。無力だ。宮廷魔術師筆頭は、今この場において、術のひとつすら施せないただの人間だ。
「いたい、いだいぃいい、いだい痛いいたイっ、あ、あっ、く、ぅ、……あぐ、」
苦しむ彼女の手が、黒ローブに縋る。研究所のエンブレムが皺になった。
白い背を陵辱する赤黒い両羽を、ルイは苦々しく見つめた。
痛みに耐えかねた彼女は、意識を飛ばした。
背にあった禍々しいものが、ばしゃりと崩れる。真っ赤な液状になって、倒れた彼女の背やベッドに降り注いだ。
……羽は必要だ。
その証拠に、冷たかった身体は温度を完全に取り戻していた。
おそらくこれは、この先何度も繰り返さなくてはいけない。
痛くても。苦しくても。それで彼女に恨まれても。新しい方法を見つけるまでは、何度だって血を飲ませて、何度だって悲鳴をきいて。
それでもこれを為さなければ。
彼女は簡単に衰弱してしまう。最後には、消えて、しまう。
「……エリー……」
ルイはぐったりと力をなくしたエレノアを抱き、深くうなだれた。
疲れきった脳に浮かんでくるのは、妹と恋人を危険に晒した人間だった。妹の死因を作った人間。妖精の羽を奪った人間。恋人を、瀕死状態になるまで痛めつけた人間。
――何故、どこまで、邪魔をする。
贅沢は望まなかったのに、奴らは大事なものを奪った。
妹と恋人と自分と、三人で生きていこうというささやかな未来すら、嘲笑われたようで。
自分は今まで、彼らの生活を助けていたのではなかったのか。
このために? ――奪われるためだけに?
『まったく、人間はこれだから』
――そうですね。君が言ったとおりでした。
――人間に関わらなければ、君はここで痛みにのたうち回ることもなかった。




