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妖精と終の開始

 ――おねえちゃん。

 エレノアは薄れゆく意識の外で、まるで本当の家族のような呼び方をされた気がした。

 それは夢だったのだろうか。確かめようのないことだ。

 これから先もずっと、答えはない。


        *


 魔物の襲撃から七日目の朝。被害状況の把握から瓦礫の撤去、当分の食糧確保などは殆ど終え、すでに本格的な復興に乗り出していた。

 ルミーナの死を悼む時間すら与えられなかったスティラス家は、火が消えたように静かだった。元々騒ぐ性質ではない二人がいて、そのうち一人は一日中仕事に奔走して、一人は家事に専念する。それだけの日常だ。

 それを息苦しいとも感じられない。

 ただ致命的な欠落感があった。

 愛らしい声も、元気な足音も、なくなった。


 エレノアはいつものように、朝日と共に目を覚ました。ここは彼のベッドだ。以前までは、この寝室で眠る時は籠に入るし、人間サイズでいる時は自分の部屋に行くのが普通だった。

 背にぴったりと人間の体温が寄り添っていた。穏やかな寝息も聞こえた。腰周りに圧迫感があって、その正体はわかっている。


 ふ、と息を吐いて起き上がり、自分を緩く拘束して寝ている少年の腕をそっと解いた。

 背を逸らして体を解す。

 伸ばせる羽は無い。

 一度壊れた内蔵も骨も肉も戻ったけれど、その繋ぎとして使ってしまった羽だけは戻らない。


 ――もう飛べないのかな。


 寝巻きとして使っている白ワンピースも、背が開いていたって、今では何の意味も持たなくなった。


 ――羽が綺麗だって、この子に褒められたんだけどな。


 エレノアは眩しい朝日に背いて、少年を見る。昔と変わらない寝顔を見つめて口元を緩めた。こうして一緒に寝ていても疚しいことは何もなく、ただ寄り添っていた。喪失の恐怖を知ってしまった少年と、痛みを強いられる恐怖を知った妖精がこうなってしまうのは、必然だった。


 ルイの髪を優しく梳けば「……もう朝ですか」と掠れた声がする。瞳が薄く開かれ、エレノアを眩しそうに見ていた。寝汚かった彼が、事件を境に覚醒しやすくなってしまったことを、喜ぶべきか悲しむべきかもわからない。

 エレノアは屈んで、ルイの肩に顔を埋めた。そうして彼を感じつつ「ご飯できたら呼ぶから」まだ寝ていていいよと二度寝を唆した。


 朝食を終え、エレノアはルイを見送る。

 ルイが黒ローブを羽織るのを手伝いながら、保冷庫の食材が尽きかけていることを思い出した。妖精にとって娯楽である食事も、人間には必須だ。市場がまだまだ混乱状態にあるとしても、食糧は確保しなければ。


「あのね、保冷庫に、食材ないんだ。買いに行かなきゃなんだけど……商人さんは、もう来てるんだよね?」


 最低限の流通は回復している。

 だから買い出しをと報告するだけの口が、喉が、震えた。


「どうしよ、か。私の分はいいから、……今日はお昼とか、要るの? なら早めに買いに出ないと――」

「君は」


 俯きがちに言葉を重ねるエレノアを、ルイが止める。


「人間が怖いのでしょう。外にも出たくないはずです」

「…………。」


 ――怖い。

 自覚していても、押さえつけていなければいけなかった本音。なのにどうして彼はこんなに鋭く、指摘してくるのだろう。

 ここで家政婦をしている以上、人間の世界に出なければどうにもならないのに。癒しを与えてやれるわけではないし、役立たずは要らないのに。

 胸元で両手を握り締めた。そして、


「人間が、私たち(妖精)に、ひどいことしたの、ずっと昔のことだって、思って、」


 秘めていた本心が零れていく。

 妖精としていけないことだと知りながら、人間を許し始めていたのだと。

 けれどその信頼は見事に裏切られた。

 妖精が人間に愛想を尽かして隠れ住むようになった頃から、人間の本質は変わっていなかった。


「人間なんて、大っ嫌い……っ」

「ええ、僕もです」


 少年は、彼女の言葉を一つ一つ耳で掬っては「はい」と優しく相槌を打つ。そして彼女の手を取った。


「ここを出ませんか」

「……え?」

「落ち着いたら、人のいないところで静かに暮らしましょう。誰にも関わらないように、二人だけで」


 そんな大それたことを、いつから考えていたのだろうか。

 エレノアに、ルイの案を拒否する理由はない。

 森奥に移り住むのも、魔術師の性質的に自然なことだ。そこに妖精が一匹いようが関係ない。有名な大魔術師の何人が、山奥に捨てられた子を拾い、育て、弟子としてきたことか。

 それでも彼女が素直に「うん」と言えないのは、ルミーナの思い出が残るこの家を惜しく思ってのことだ。けれど「この家は残しておきますよ」と言われれば、頷く他になかった。

 了承を確認したルイは、ではもう行きます。と、ようやく出勤の義務を思い出した。


 苦笑しながら「行ってらっしゃい」を言おうとしたエレノアは、


「あ」


 ――ふらり、傾く。

 頭が一瞬真っ白になった。

 すぐに片足を出して、倒れはしなかった。寝不足だろうか。

 心配そうに見てくるルイを、今度こそ見送ろうと姿勢を正した。


「顔色が悪いです。僕も休めたらいいのですが……」

「だめだよ。一応は管理職なんだから」

「ええ。君は無理しないでくださいね。食材は僕が買ってきます。寝ていてください」

「……家事、できるとこまでやるよ。無理はしないからさ」


 へらりと笑う顔を貼り付けて、手をひらひら振るエレノアは、以前のように気楽な雰囲気でいることが少なくなった。いくらか余裕があった『家政婦』としての態度に陰りが出るほど、ここ数日感の出来事が堪えている。


       *


 エレノアとルミーナを巻き込んだ事件――魔術師の何人かは集団暴行事件だと認識する言い争い――を目撃していた宮廷魔術師は今現在、自分が守るべきものを見失っている。

 ルイと親しいエレノアの様子は、宮廷魔術師の皆が見ていた。彼女の性格も感情も人間と変わりないということを知っている。

 だからあの時、彼女を犠牲にして当然という雰囲気に賛成できなかった。

 そして人間を恐れてしまった。

 研究に用いてきた魔物に、妖精を重ねてしまった者もいた。彼らは復興が終わり元の生活が戻ってきても、生物を用いた研究を続けられないだろう。



 復興着手の当日、ルイは研究所内の会議室に直属の部下達を集めた。当分の仕事の割り振りや簡単な注意事項等を説明し、そのついでに『辞表を出したい方は出してください』と、さらりと言った。


『あの日のことについて、思うところは多々あるでしょう。現に数人の方が辞職を願い出てくれました。事件を知らない者はそのままでいいと思いますが、気になるなら誰かに聞いてください。気持ちの良い話ではありません。何も気にせずここで研究していたいと思うなら、……魔術師の鑑と言えます。とても冷静で、知識欲を大切にする方です。それも悪いことではないと、僕は思いますよ。

 特別措置として、退職届は原則三ヶ月以上前とかいう規則は気にしなくて良いこととします。

 退職日は早くても復興の後になります。多く見積もってひと月ほどで、街は元の通りになるでしょう。流通などは政務側の管轄ですので、僕達が関わる必要もない。……辞めたい者は無理をせず言いなさい。

 ただし退職金は期待しないように。何もかもが例外ですので』


 ――僕もここには居られない。

 そうしてルイが己の退役を表した後に、つられるように声を上げた者が複数人いて、ついつい乾いた声で笑ってしまった。



 そのことを思い出して緩んだ口元は、すぐに固く結ばれた。微笑ましい日常のひとコマを思い出して動かされる感情は、だいぶ磨り減ってしまっている。

 この数日で、ルイは十五通もの辞表を受理した。


 魔物の侵入については、その経路も原因も表向き謎とされている。

 復興自体は目覚しい速さで進んでいた。壊された家々は、宮廷魔術師により日に数十件ずつ立て直されている。特に中心部の破損が酷く、宮廷仕えの者は馬車馬のように働いた。

 街中を通り過ぎていくルイの視界の端で、部下が真新しい家を建てている。

 家主と思われる女性が部下に駆け寄って、何度も何度も頭を下げる。「ありがとう」の声は涙に滲んでいた。


「ありがとう! 魔術師さんって本当にすごいんですね、びっくりしちゃった!」

「……では、これで」


 対してルイの部下の声は硬かった。その瞳にルイを映して、初めて人間らしく声を弾ませる。


「筆頭! お疲れ様です」

「はい、ご苦労様です」


 研究所ですか? はいそうです。ご一緒しても? はいどうぞ。という簡単なやりとりをしながら、二人は研究所へ向かう。

 今日だけでもう五戸も立て直したこと。研究所を辞めたらすぐに実家の地下室に篭ろうと思っていることなど。他愛もない話題を繰り出しながら進む。

 ふと、部下が呟いた。


「……大丈夫なんですかね」

「何か心配ごとでも?」


 見ると、部下はそっと目線を逸らした。ルイの美貌にまだ慣れていない。


「研究所のどれくらいが辞めるのかわかりませんけど、簡単に辞めさせられないランクの人もいるんでしょう? 辞める奴、沢山いるって言ってましたけど……上が納得しますかね」

「僕の下についてくれている魔術師に限ってのことなら、魔術師長に話は通しています。と言っても、まあ納得はされないでしょうね」

「じゃあ」

「納得されなくても、認めさせます」



 魔物の襲撃から十日目の夜。

 筆頭の個室で、ルイは帰り支度をしていた。

 少し離れたソファにアルスがいるけれど、そちらには背を向けていた。


「魔術師は、元々は国仕えなんて性分ではありません。ここで多くの才能が嫌々ながらに費やされるよりは、実家だか山奥だかに好きなだけ引きこもっていただいて、各自の好みで研究した方が良いでしょう」

「元の住処に帰れと? そりゃ、研究所に釣られて引っ張り出される前まではそうだったっつー奴も少なくはないでしょうけども。偏見じゃねっすかそれ」

「かくいう僕もその部類なもので。それはそれとして、各自が自由に選んだ研究の方が、分野はどうあれ魔術も進歩するでしょう。研究所の設備がなくたってどうにかするほどの気概はあるはずですし、手助けが欲しければ呼べばいい」


 知識の他に人脈だって培われたはずだ。一人孤独にいることだって良いと思う。この研究所にいるということは、それなりの技術があるのだから。

 アルスは冷めた紅茶を揺らし、栄養ドリンクのようにぐいっと飲み干す。彼はルイからの「優雅さの欠片もないですね」という呆れた視線には慣れていた。


「僕の部下は皆優秀です。ここで潰えてほしくないんですよ」


 ルイは指を鳴らす。ぱちり。室内の灯りが全て消えた。


「――とかいう建前で、どうでしょう?」




 ルイの言葉に、アルスは凍りついた。

 上司の背が、何やらとてつもなく不穏な影に飲まれているような気がして。

 ふと振り返ったルイの顔は、大きな窓から覗く月で逆光になっていて見えなかった。けれど笑っているような気がした。


「ここの魔術師は嫌いではありませんが、この国の人々を許せそうにはありません。いつかこの恨みが高じてこの王都にでも攻め込む時に、邪魔は少ない方が……、ってなんて顔してるんですか」

「筆頭……あんた……」

「嘘ですよ。真に受けるなんて君らしくないですね」


 アルスの動揺に、飄々と言ってのける上司である。

 嘘ですよと、ルイは言った。

 ――本当に?

 ルイからは、アルスの『らしくない』表情が見えているのだろう。アルス本人は、今自分がどういう表情でもって動揺を顕にしているのか、分かったものじゃない。

 何から問おうか、問うべきなのか、悩む副官に、ルイは「ふふ」と優雅に微笑んだ。


「職権乱用って気持ち良いです。僕のような子供を上層部に据えたことは、この国の不幸ですね。実に清々しい」

「…………。」

「アルス、次の筆頭はおそらく君になるでしょう。今からどこかに逃げ出してその座を誰かに譲るのも、空けるのも、君のお好きなように」


 実に晴れやかに微笑むルイの顔が、月光の陰の中で薄気味悪く浮かんだ。

 それからそっと目を逸らしたアルスは、ルイの机の上にあるものを発見する。ソファからは離れていてよく見えないけれど、それは女性の小指くらいの高さの瓶で、無色透明の液体が八分目まで詰まっていた。


「……それは?」


 アルスに聞かれると、ルイは一瞬目を瞬かせた。そして小瓶のことを言っているのだとわかると「強いて言えば思い出の薬品です」などと抽象的なことを言う。

 ルイが人差し指と親指とで掲げるように小瓶を持ち上げ、月光に透かす。癖のなかった薬品は、淡い虹色を帯びるようになる。青や紫、橙や黄色、七色が濁らずに、綺麗な斑を表わした。

 水のようにさらりと揺れる薬品を眺めるルイは、


「エレノアが家に来た時に、ちょうど作っていた薬なんです。あの時は未完成でしたが、じっくり熟成させて、様々な行程を経て、……これが日の目を見るまでに、なんだかんだいって十年もかかってしまいました」


 懐かしげに話す。「これが気化した煙を吸えば肺が腐る……なんて嘘を、彼女は間に受けてしまって」と。

 その声に甘い色が含まれる。

 アルスは悟った。この上司はおそらく、もうあの妖精しか信じられないのだろうと。



 そして魔物の襲撃から十二日目の夜。

 この日がきっと、境目だった。


「ただいま、かえりました……、……エリー?」


 ルイが研究所から転移してきても、エレノアが迎えにこなかった。

 近頃は物資不足のためにお茶を淹れることも稀になったけれど、出迎えだけはしてくれていたのに。どんなに遅くなっても、ぱたぱたと寄って来るはずの彼女がいない。

 いつもならまだ起きている頃だ。

 ルイは足を進めた。彼女がいつもいる場所といえば台所だ。家に自分以外の音が聞こえないことに焦りながら走り、ほどなくキッチンに着く。


 息も荒く、苦しげに眉根を寄せて、彼女が倒れていた。

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