妖精と緩い微笑
下にある柔らかいものが上下していた。
柔らかなものに寝かされているようだ。耳を当てている部分から、どくん、どくんと自分のものではない鼓動が聞こえる。
体が、ほっとする匂いに包まれている。自分を緩く押さえている何かの存在に気づいた時、エレノアはそっと目を開けた。
「……?」
月光で照らされた室内は、スティラスの家ではなかった。寝呆け眼を瞬かせて、ここが研究所のルイの個室であることに気づいた。
夜だということはわかるけれど、時計が見つからない。
隣の研究所の方でぼそぼそと話している声が聞こえて、かつかつと固い靴の音が慌ただしく行き交っていることから、そう遅くはない時間帯なのだと思った。
静かなのは、筆頭が所有するこの棟だけらしい。
自分が寝ていたところはルイの胸で、体を包んでいるものは彼の手だ。
彼が寝息を立てているのをぼうっと見ていたエレノアは、自分から彼の胸に擦り寄っていく。すると手は拘束を解いて、指先でエレノアの頭を撫でつけた。彼女は甘え続ける。どうしてだか、ルイが懐かしかった。
酷い夢を見ていた気がする。
自分のワンピースは元の通りに白いのに、腕や足が捻れてもいないのに、呼吸しても胸が痛くないのに、そんな当然のことをどうして嬉しいと感じてしまうのか。
「……君の体温や呼吸を感じていないと、不安ですね」
「んー?」
弱々しい声と共に、ルイが起き上がる。
転げ落ちるかと思ったエレノアだけれど、きちんと手に守られていた。
なぜ落ちると思ったのだろう。自分は飛べるはずなのに。
ルイの手に座り込んだエレノアは、きょとんと小首を傾げた。そうすると、髪も項あたりで切り揃えられていることに気づいた。頭を注意深く探ってみれば、一部禿げているところもある。
手を背中に持っていく。羽がない。
「ねえルイ、私の羽、知らない?」
「…………。」
「あと髪も、いつ切ったんだろう」
エレノアにすれば、死活問題だった。妖精の生命を左右するものが無くなっていて、現実味がない。
「君の羽は、治療の繋ぎに使いました」
「治療? 誰の? まさか人間なんかに使ってないよね?」
「君の、ですよ」
「……私?」
どうして? と聞こうとしたけれど、声にはならなかった。
自分がどうして、どんな怪我をしたのかも、考えてはいけない気がしたのに――エレノアの脳で勝手に再生されていく。見たくもない場面を断片的に。
暗い倉庫。男の声。笑い声。骨が軋む音。遊びで流される血。
はやくあの子を助けなければと思って、焦った。一度拘束を解かれても飛べなくて、小さな体では遠い道のりを這って出口にまでたどり着いても、また捕まるのだ。にやにやと、楽しい見世物にされた。わざと希望を与えて、また痛めつけられた。
たくさん、笑われた。
痛かった。
最後には、ころして、と言ったのに、叶えてくれなかった。
「……あ、あ、っあ、ぁ」
あれ? あれ? なに? なにこれ? 呟いて頭を抱えるエレノアを、ルイはそっと胸に寄せる。
彼女を慰めるものは、もうルイしかなかった。
彼の服を握って縋り、震える小さな身体は痛々しい。白いワンピースは背が開くデザインで、彼女の背に見えるのは小さな瘡蓋だけだった。
「どこか痛いところは? おかしなところはありませんか? もしも何かあったら、すぐに言ってくださいね。今の君の状態では何があるか――」
こんこん。ノックが聞こえると、ルイはそちらに目を向けずに「どうぞ」と言う。
ドアは静かに開かれ、男女二人が立っていた。どちらも魔法のライトを傍に浮かせていたけれど、入室と同時に消し去る。廊下はすぐに、不気味なほどの闇と静寂に包まれた。
「失礼します。アルス・ターナーですが、よろしいでしょうか。結界内での事件についての目撃者も、一名連れてきました」
「ええ、入りなさい」
「はっ」
「し、失礼しますっ」
アルスという男性魔術師と、エレノアも見覚えのある女性魔術師だ。
後者は緊張した面持ちで、ルイの個室に足を踏み入れる。
と、二名はルイの手に乗る存在に気づいたらしい。アルスは軽く目を見開いて、女性魔術師はあからさまに動揺した。
同時に、エレノアも恐怖を顕にした。二人を目にした途端に怯えるものだから、ルイは部下二人を見つめる。
「君たちも、彼女に何かしたんですか?」
「ち、違うよ。この人たちは何もしてない」
けれど二人を庇うのもエレノアである。
それならどうして怯えるのか――、ルイはすぐに、エレノアが受けた仕打ちを思い出した。
「もしかして人間が怖いとか?」
「わかんない。そうかもしれない」
「では一度家に戻すのは……心配ですし、別室にでも行きますか?」
「いや!」
エレノアの大声に一番驚いたのは、他でもない彼女自身だ。しゅんと項垂れ、
「ごめんなさい。お仕事の邪魔だよね。ごめんなさい。別のとこ行くよ」
ルイはエレノアの意思表示を見守っていたけれど、何も言わずに妖精を肩に移した。
「肩に乗せるのは久しぶりですね。落ちないでください」
「……いいの?」
「僕の傍がいいなら、はっきり言ってくださって構いませんよ。君はただでさえ甘えてこないのですから。ただ、これからの話は君に辛いことを思い出させるかもしれませんので、その時は防音魔法をかけてあげましょう。きちんと言うこと」
「……うん」
こくり、と頷いた妖精にうっすら微笑んだルイは、彼女を優しく撫でた。
その様子を呆然と見ていたのは、ルイの部下二人である。
「……なんですか。君たちは知っていたのでしょう」
「は、はあ」
「そう見せつけられちゃあ、なんとも」
「見せつけたつもりはないのですが」
ルイがそう言っている間にも、エレノアは彼の髪に埋もれたり首筋に擦り寄ったりと、普段では見られないような行動を繰り返した。
最終的に、ルイが嬉しさ混じりに「落ち着きなさい」と甘く嗜めることによって落ち着いた。
我に帰ったエレノアは、顔を真っ赤にしてルイの肩に着席する。
「さて、本題に入ります。君たちに聞きたいことがあるのですが」
「筆頭、その手をどうにかしないと締まりませんぜ」
ルイは妖精を構っていた指を大人しく下げた。
「今度こそ本題に入りますが、……アルス。君には治癒をお願いしていましたけれど、あの時は持ち場を離れていたとか?」
「……面目ない」
「離れるだけの理由があったのでしょう」
そうでなければ、魔術師が命令を破るはずがない。
二人を揃ってソファに座らせたルイは、事務机の椅子に腰掛けた。肩に乗る妖精を気を使いながらも、部下二人のうち片方に話を促す。
アルスは、無精髭をざらざらと撫で付けながら話しだした。
「あの時、ギルレムさんに呼ばれましてね。至急、俺に用事があるって方がいて、すぐ行ってこいっていう」
「ギルレム様? あの、騎士の?」
「……続きを」
「それが、まあ普通の方でなくて。筆頭の命令が優先っつーのも当たり前なんすけど、……王様に呼ばれちゃあ、お断りもできなくて。そんで行ったら、呼んでないっつーから」
――王様?
この場で出る名詞としてはものすごく場違いな気がして、女性魔術師は絶句した。
けれどルイは眉根に深い皺を刻み、「……ああ」と納得したような声を出して沈黙した。少し考えて、部下を見る。
「つまり、ギルが嘘を吐いたと」
「俺はそう思っとりますけど。理由は知りませんが。つまんねー話でしょう? 俺が知ってるのはそれだけなんで、エレノア様の件については関わっとりません」
「そうですか。……次、お願いします」
「は、はいっ」
女性魔術師は研究所に努めて数年のベテランだが、大人しい性格をしている。筆頭と面と向かって会話したことがなく、がちがちに固まりながら自分が見た全てを報告していった。
*
「申し訳ありませんっ」
「何故謝るのですか?」
「私はあの場にいました。けれど力及ばず、お二人を危険に晒してしまいました。どのような処罰でも、謹んでお受けします」
「君は僕の命令に従っただけでしょう。君のせいではありません。むしろ褒められて然るべき、といったところです。よく頑張ってくれましたね」
「そのようなお言葉、身に余ります。お二人は、……お二人だって、守るべき市民でしょう」
「けれどどうしようもなかったでしょう。君が一人動くだけで、あの結界は壊れてしまったのですから。やはり賢明な判断でした」
罰を受けられないことを不服に思ってか、女性魔術師は俯いて沈黙した。
アルスは何を考えているかわからない目で窓の向こうを見つめている。
エレノアは、ルイの襟にしがみついていた。話が進むにつれて恐怖が蘇ってきた。途中でルイが「防音魔法か、睡眠魔法でもかけますか」と聞いたけれど、それを断ったのだ。彼女なりに頑張って耐えていたいことだった。
妖精を指先であやすルイの顔も、どこか暗い。
沈黙が落ちた部屋の中で、エレノアは不意に、ルイの髪をちょいちょいと引っ張った。
「話聞いてるとさ、あれから三日くらい経つんだよね? その間、私とルイはここにいたんだよね?」
「ええ、それが何か?」
「ルミーナちゃんは、ご飯とか学校とか、どうしたの?」
空気が凍った。
ルイは目を閉じる。再びその瞳が現れた時には、冷徹な色が宿っていた。
けれどエレノアは、そんな瞳を向けられるほどのことを聞いたのかと不思議になる。何も知らない顔で、思い出すことを拒否したまま、無邪気に尋ねる。
「あ、こんな状況じゃあ学校も何もないのかな。家にいるなら、心配だから私も帰りたいんだけど」
「エレノア」
「食材とかって今はどうなってるのかな。買い物とか」
「エリー、聞きなさい」
なあに?
エレノアはまた白々しく目で問う。
女性魔術師は目を逸らして膝のスカートを握っていて、アルスはエレノアを不憫そうに見る。少しして、二人は退室していった。
どうして二人がそんな顔をしていたのか、わからなくて。
エレノアは、やけに真剣で暗いルイの言葉を待った。
「ルミーナは、もういません」
エレノアはまだ「よくわからない」顔をしていた。
そんな彼女を手のひらに移したルイは、言い聞かせる。
「あの子の墓は湖畔にあります。落ち着いたら墓参りに行きましょう」
「よく、わからないんだけど」
「わかるでしょう」
「わかんない」
「…………」
「わからないよ、だって、嫌だ」
いやいやと首を振る。そんなエレノアを叱りつけるのは、他でもない、ルイだった。
「エリーッ!」
それで彼女が怖がろうが、怯えようが、ルイは言わなければならなかった。認めさせなければいけない。
何より自分が、認めなければいけなかった。
あの冷たい手も、青白い肌も、固い体も、全て。
「聞き入れてください! 認めなければいけないことくらい、君にもわかるでしょう!?」
「っ……」
「見つけたのは僕です。呼吸も脈拍も瞳孔も調べました! けれど……っ」
墓に入れる直前まで、確認した。手遅れだとも知っていて、死後硬直すら始まっていることを感じ取っていても、そうせずにはいられなかった。
「仕方ない、でしょう。魔法では、魂を作れないんですから」
エレノアの前に輝くものが落ちた。
一滴、また一滴と。それはエレノアが見た、ルイの二度目の涙だった。
彼は聞き分けの悪い妖精にひたすら言い聞かせる。ルミーナは死んだなどと、自分自身が引き裂かれそうに苦しいはずの言葉を。
そんなものを見せられては、エレノアも認めないわけにはいかなくなってしまう。誰かが嘘だと言ってくれたらいいけれど、エレノアにとって絶対の存在が、悪い夢を現実と肯定してしまうから。
ルイが唇を噛み締める。切れて血が滲むほど。
「っ……」
エレノアは自分の涙を拭った。
そしてルイの顔に手を伸ばして寄せると、そのまま口付ける。切られた唇に滲んだ血液を舐めとって、人間の大きさをとった。
そして真正面から彼を抱き締める。
また溢れる涙は、今度は拭わず流れるままにした。ルイの背に腕を回して、懐に顔を埋めさせた。服がじわりと濡れるのも気にしない。
悲しいのは自分だけではない。ルミーナと血が繋がっている彼の方が、きっと苦しい。
エレノアも喪失感だけで死んでしまいそうなのに、これ以上の悲しみが想像できなくて、今はただ彼を包んだ。
お互いの悲しみは計り知れないから、現実を晒して、傷口を抉って、舐め合うことにした。