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妖精と柔い記憶

 ルイが八歳の時のことだった。

 彼女が家政婦になると宣言した日だ。己の不安をぶちまけて、彼女に縋って泣いた夜。


 ルイの意識が浮上する。いつの間にやらベッドに寝かされていて、寝具は自分の体温で温まっていた。

 けれど一緒にいるはずのエレノアの柔らかさは感じられなかった。もう行ってしまったのかな、と残念に思って、寝入ろうとした瞬間。

 歌が聴こえた。

 硝子、ピアノ、鈴音、様々に澄みきった高音を、濁り無く繊細に織り合わせたような声だった。

 それと同時に、頭を優しく撫で付けられる感触を認めた。


 髪をそっと後ろに流され、甘えたいような、全てを忘れて深く眠っていたいような、怠惰な気分にさせられる。


 二度寝への誘惑を振り払った少年が瞳を開けると、そこに妖精がいた。

 ルイの頭を撫でる手は止めず、ベッドに腰掛けながら、開いた窓の向こう――満月が張り付く空を眺めて、不思議な響きの歌を奏でていた。おそらく人間の言語ではない。

 彼女は綺麗だった。

 最初から驚くほど麗しくはあったけれど。

 人間では到底及ばない透明感は、このまま空気に溶けて消え去ってしまいそうにも思えた。


『あ、起きた』

『……聞き取れない歌でした』

『そりゃ人間じゃ聞き取れないよ。妖精の歌だから』


 妖精の話し言葉は人間とほぼ同じだけれど、歌詞はまた違うらしい。


『……続きを』

『ん?』

『その歌は、落ち着きます』


 悪戯に微笑んで、彼女はまた歌う。

 文字通り羽を伸ばすと、背にかかっていた銀髪がさらりと揺れた。


『他にもいっぱい歌あるよ』

『では、一曲ずつお願いします。僕が寝るまで』

『はぁい。りょーかいです』


 妖精が最も輝くのは、夜明けの光か月の下。ルイが読んだ本の中で、そんなことを、誰かが言っていた気がする。

 とたとたと軽い足音が聞こえて、静かにドアが開く。隙間から遠慮がちに覗いたのは、小さな女の子だ。


『ルミーナちゃんも起きちゃった?』

『……ん』


 ルミーナは申し訳なさげに頷いて、入室を躊躇っていた。

 一人が寂しくて来てしまったのだろう。けれど兄の部屋に入ると邪魔ではないか、という子供らしくない妹の逡巡が伝わってきて、子供らしくない兄のルイが声をかけた。


『……こちらに来ますか?』

『うむ!』


 ぱあ、と嬉しそうに破顔したルミーナは、ドアを閉めてベッドに駆け寄っていく。

 けれどベッドの片側にはルイがいて、もう片側にはエレノアが座っていて、入る場所がない。また困り始めたルミーナを、エレノアが手で招いて抱き上げた。

 

『エレノア?』

『母親の真似。人間の子供は速く成長しちゃうから、一度こうしてみたかったんだ』


 エレノアは、向かい合うように膝に乗せたルミーナの髪を撫で始める。離れていった手をルイは名残惜しく思ったけれど、お兄ちゃんなんだからと諦めた。

 ルイは妹を恨めしく思った自分が悪い子のように感じられて、寝具を頭まで引き上げて顔を隠した。そうすると、エレノアは今度は布団の上からぽんぽんと撫でてくる。


『眠いよね? お歌の時間はもう止めようか』

『いやです。まだ、寝るまでがいいです。一曲ずつって、さっき言いました』

『……うむ!』

『そう?』


 妖精の子守唄。瘴気を持たない生物であれば、誰もが心地良いと感じる声だ。

 声が届くのはごく近い距離にいるものだけで、あとは緩やかな風として、その余韻だけが周囲に届けられる。

 実母の春風のような子守唄よりは、温かみとか、感情とか、そういったものは欠けていたけれど。冬空のように静かで繊細なエレノアの声も、ルイは好きだった。

 聞くたびに焦がれた。


 それなのに。


       *


 ルイが彼女の髪を使った杖を用いてたどり着いたのは、王都の南端に位置する廃倉庫だった。周囲を何本かの広葉樹に囲まれた、赤煉瓦を積み上げた古い建物だ。

 上部の窓から蝋燭か何かの橙色の光が漏れていた。

 鉄製の大きなドアがあったけれど、その横にある小さな木の扉から入る。

 その瞬間、中から聴こえたのは、


「――っ!」


 小鳥を縊り殺すような声だった。


「エレノア!」


 聞き間違えはしない。あれは彼女の声だった。

 内部は簡素な作りで、間仕切りなどは一切なかった。長方形の室内の奥に、用途のわからないいくつもの木箱が積み重なっている。

 木箱をそれぞれ椅子にして、あるいはテーブルにして、彼等はそこで『遊んで』いたらしい。


 その三人組は、ルイの登場に不敵に笑った。


「んなに騒がないでくださいよう。ちょっとデコをピンっとしただけですんで」


 背の低い男の手に握られた『もの』は、だらりと頭を俯けていた。人の形をしていて、手の平サイズだった。その人形の脚先から、下にぴちゃぴちゃと赤い液体が滴っていた。


「おっと、もったいねえ」


 眼鏡の男が小瓶を持ってきた。小瓶の半分は既に液体で満ちていたけれど、『人形』の足下に瓶の口を充てがって、更に一滴一滴を慎重に採取していた。

 もっと欲しいな、と呟いた背の低い男が手に力を込めて、『人形』から液体を搾り取ろうとする。


 咄嗟に、ルイは腕を伸ばす。

 風の刃は男の手を容赦なく落とした。ごとん。テーブルにしていた木箱の横に転がる。腕の断面は驚いたように固まっていたけれど、すぐに血を噴き出した。

 呆けていた男は、自分の手を地面に見つけて叫んだ。


 男の手からこぼれた『人形』は、柔らかな風に抱き上げられてルイの元に運ばれていく。

 ルイの掌には『人形』が――見慣れた雌妖精が、見慣れない姿で落とされた。


「……エレノア?」


 ――おかしい。


 まずは、そう思った。

 白かったワンピースは真っ赤だ。

 腰まであったはずの綺麗な髪が無かった。項で切られて、ところによっては数ミリの長さにまで、引きちぎられたようだった。

 右目が固く閉じられて、瞼の端から一筋の血液が伝っているのは、もしかして『デコピン』の影響だろうか。

 かひゅ、かひゅ。彼女の喉から不気味な音がする。不器用な呼吸だった。時折、つっかえるように「か、」と嫌な声がした。


「エレノア。」


 手の上にころりと転がる小さな体は、ぴくぴく痙攣していた。

 右腕が捻れて、皮膚が青いゴムのようにぶよぶよしていた。

 細い脚は脛のあたりがどす黒くなって、何倍にも膨れていた。熱を持っている。

 左目が薄く開いてルイを見た時、肩がぴくりと動いた。それだけだった。ルイに触れようとしたみたいだったけれど、襲い来る痛みにからからの声で叫んだ。腕を伸ばすこともできなくなったのだ。

 その後で、「ぁ、ア」と小刻みに聞こえる母音が、喉の奥から引き攣れるように発せられる。それは彼女の意思ではないように思えた。

 綺麗な彼女をこうした男たちは、それぞれが楽しげに哂っていた。腕を落とした男は、脂汗に塗れながらも喜色を隠せていない。不気味といえば不気味だった。


「どーよルイ様。下々の俺らと仲良く遊んでくれるなんて、お宅の召使ちゃんも可愛いとこあるじゃねえの」


 かふ。ルイの手で苦痛に喘ぐ彼女の喉から、真っ赤な血液が吐き出される。


「そんな小さくなきゃ、下に突っ込んでやっても良かったんだけど」

「まあ、その代わりのものは頂きましたがね」

「……代わり?」


 茫洋としたルイが顔を上げた。


「ランクAの素材を、こんなに『採れた』んですよう。ひどいですねえルイ様! そのような質の良い妖精を、研究所に内緒で飼っていたなんて」


 ――採れた?

 ルイが呆然と、小太りの男を見た。

 男は戦利品を掲げる。

 わし掴まれている銀糸と、蜻蛉のような羽。

 男の手にあるそれは、汚らしく見えた。羽は根元が赤く汚れて、ところどころが皺になっているし、切れていた。これでもその効力は下がらないのだと、ルイの知識は語る。

 次にルイは、死にかけの妖精に視線を戻した。

 血塗れの彼女には、飛べる羽が残っていなかった。


 彼女は呼吸もままならない声で、


「 る みな ちゃ」


 そう言った。


 あの透明な声が枯れるまで、どれほど叫んだのだろう。

 もはや正気の沙汰とは思えない蛮行を繰り返されて、死に物狂いで逃げようとすれば嘲笑されて。

 歪な笑いものにされながら。

 何回、ルイに助けを求めたのか。


 彼女の危機を虫の知らせとしてでも感じ取れなかった。その結果、美しかった妖精が、全てをむしり取られた絞りカス同然になった。


 ルイはぼうっとして何も言わずに、ただただ男たちを眺める。それをどう思ったのか、彼らは気分を良くしたらしい。

 初めての勝利だった。ずっと疎ましかった化物を、ようやっと出し抜いたのだ。自分たちが欲しかったものを奪い取った報復に、大事なものを奪ってやった!


 己の偉業に興奮する男たちを、ルイはやはり見ていた。暗い、暗い、光さえ吸い込むような影を落とした双眸で。


 やがて、口元が蠱惑的な弧を描く。目の前にちょうど良い『もの』を三匹も発見して、実験が行き詰まっていたことを思い出したのだ。


 ――そうだ、被検体がいなかったんですよ。()()()()


 彼の頭の中で、またぴしりと、何かが割れた音がした。


     *


 とりあえずの処置として石化させた三人組を研究所に転移させて、ルイは妖精を見る。

 まだ息があるなら希望はある。そう、諦めるのは良くないことだ。

 これだけの傷では、早く手当をしなければいけない。だが妖精が相手では人間とは勝手が違い、傷の大きさに比例して繋ぎが要る。それは本人に縁のあるものが一番良い。

 ルイは懐に入れていた羽と、男の手から回収した羽と髪を杖に触れさせる。杖の中にするりと溶けた。妖精本人の一部が入っている杖とは、親和性が最も高い。


 ――彼女は死なせない。


「……『術式展開』」


 ルイは妖精を慎重に地に置くと、数歩離れた。そして妖精を中心に五つもの魔法陣を描き、縮小して円形に並べ、それらを一柱にした大きな魔法陣を描く。


 ――魔力ならいくらでもくれてやる。


 内容の違う魔法陣を、等間隔の隙間を空けて真上に重ね続けて、十二になった。

 それぞれが『治癒』『増幅』『形状記憶』『再生』『調和』などの現象を司る、最高位多重魔術だ。


「『魔力を糧に、再生を』」


 一つ描くだけでも相当の魔力を用いるそれを複数描き、魔法同士で生じる反発を消し去る魔術を挟み、精微な構造を一瞬のうちに整え、最適な順番で重ねていく。

 青く光る幾重もの円が、塔を築く。

 その最下の中央に、雌妖精の絞りカスがいた。


「『×××××』」


 一般の魔術師では聞き取ることさえ困難なほどの流暢な古代語は、彼の口から放られる。

 彼が杖を押し込むと、その先から魔法陣にずぶずぶと沈んで溶けた。

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