妖精と黒い集団
ぽたり。赤い液体が落ちる。重い水滴が地に跳ねて、縁がぎざぎざの円形になって染み付いた。ぱちゃ。またひとつ。先ほどの円形の上、少しズレた位置に落ちた。
一滴、二滴。ぽたり、ぽたり。
だんだん判別が不可能になっていく。初めの一滴の形は、もう残されていなかった。
ぽたり、ぽたぽたぽた。
ぽたり。
「筆頭はまだなの!?」
「どうにも、妨害を受けているようで……」
ルイは、もう戻っていてもいい頃だ。速達用の白い鳥型の手紙を送れば、国内の辺境にいても二十分かからずに伝達されるはず。けれど、飛ばしてからもう四十分は経っている。
あの二人が結界を出てしまった。
騎士に保護されているのが一番良いけれど、その望みは薄い。
魔物の襲撃を認めてすぐに王都中へ向かわされた騎士も、市民の安全を第一にするだろうが、あの二人は戻るのを怖れて保護を受け入れないだろう。
女性魔術師は歯痒い想いを込めて、見渡せる限りの人間を睨み付けた。視線で殺せるなら殺していた。あんなにも胸糞悪い光景を、立って見ているだけだった自分にも辟易する。
はやく、あの二人を――!
女性魔術師は苦悩した。
この場にいる魔術師は、治癒師または結界魔法に秀でた者である。
攻撃魔法特化の者は外で交戦している。
それに対して、結界係と治癒師は筆頭から「市民の安全を優先に」と言い付かっている。これが下された命令で――魔術師として言い換えるならば、「約束事」なのだ。
魔術師は約束を破らない。
けれど、これではあんまりだ。
こんな結界の役目など放棄してしまおうかと、右足を浮かせた時だった。
とん、とん。
何やら耳慣れた音がした。
続いて、
「『――』」
囁くような古代語が聞こえる。
涼風が人々の頬を撫で、魔術師達を冷やかすように、優しく吹き抜けた。
途端、敷地内で結界を張っていた全ての魔術師が崩折れる。
女性魔術師も体中が弛緩して、立ち上がることもできなかった。それまで分厚い結界を張り続けていた緊張や、疲労や、魔力の不足が災いする。けれどそれまで耐えていた重圧が一気に解き放たれて、肩は軽くなった。
魔術師の精鋭が総力を上げて築いた結界が、強制的に解かされた。
女性魔術師が空を見上げてみれば、結界は新たに成されていた。
こんな芸当ができるのは彼でしかありえない。
「身内二人がここに来ているはずですが……見当たりませんね」
研究所に直接転移してきたらしい。
長い杖を手に持ったまま、ルイはゆるりと周囲を見回していた。
ようやく姿を現した彼の姿に心救われるものが、ここに何人いるだろう。
こんな様では、怯える者の方が多いかもしれない。
人々は自然に道をあけて、彼の歩みを一度たりとも阻まない。その通路を当然のように進み、彼は徐々に速度を落とした。
立ち止まったまま、ある一点で視線を止める。
一人の男が持っていた、一枚の大きな羽をじっと捉えた。
「それは」
「っ……」
「とりあえず返していただけますか」
ルイは相手の言葉を待たずに風を操り、男の手から羽を奪った。
歪んでしまった羽を、指先で柔く撫でつける。そうして一切の興味も表さないまま、男を視界の外にやる。
近場の魔術師にルイが問う、
「師長は外ですか」
「はい」
「それなら僕一人くらい抜けてもいいかな……」
冗談交じりに、ルイがぼやく。その静けさが不気味で、人々は何も言わない。
松明がぱちぱちと爆ぜる音がした。
「総員、集まりなさい」
ルイの号令で、魔術師たちは一斉に集う。彼の声はこの敷地内全ての魔術師に伝達されている。
身体が重かろうが疲れていようが死にそうだろうが、従わなければならない。
疲労で立っていられなくなった術師が崩折れて、ルイから「無理しないでください。医務室へ」と優しい言葉をもらった。完全な戦力外通告なのだと誰もが悟った。
「結界は外も内も張り直しました。宮廷魔術師各位は所定位置に向かい、迎撃隊の援護を。エーテルの服用を許可します」
エーテルとは、フェアリー・テイルの代替品として開発された薬だ。研究員の魔力で精製されていて、魔力を回復できる。
魔術師は、ローブに忍ばせていた小瓶を意識して唾を飲んだ。
「治癒師団一班は引き続き怪我人の処置をお願いします。二班から五班は二人以上で組み、これより各方面に向かう魔術師に同行してください。援護と生存者の救助を頼みます。詳しい判断は班長に任せました。有事なので全体にひとまずの指示は出していますが、師長に会ったら彼の命令に従うように」
言うべきことだけを述べた。
松明の火を宿した瞳を細めながら、誰もが待ち望んだ笑みを表す。
けれど、笑っているのに、笑っていなかった。
「殲滅を命じます」
そうして彼は、ただ殺せと言った。これが現筆頭の本性かもしれなかった。
「承知いたしました」
魔術師は声を揃えた。寸分の乱れも音もない穏やかな敬礼に、騎士のような雄々しさは見られない。そこに立つ黒の集団全員が機械人形のようだ。
魔術師は、やる気に満ちた顔など好まれない。
持って生まれた魔力を感情一つで暴発させることなど、あってはいけないからだ。
この筆頭にしてこの部下ありだと、異様な雰囲気に呑まれた人々は眉を寄せる。ただそれは人々が知らないだけで、魔術師は皆、魔術師であるほどに、貪欲で穏やかで薄情だ。
「ああ、そうだ」
ルイは視線を右側に移す。そこにいた副官の周囲の者が怯えようが、彼には瑣末なことだ。
「アルス・ターナー。それと詳しく知っている方。経緯は後ほど詳しく聞かせていただきますので、そのつもりで」
ルイの瞳と横顔があまりに冷たくて、誰かが息を飲んだ。
妖精の羽は生命線だ。失ってしまえば、生命力が強い個体でも二日で死に至る。
ルイは焦っていないわけではない。けれど焦ってもどうにならないことを知っていた。
何かあれば研究所へという指示に従った二人が、その場でどういう目にあったのかも、大体の予想はついた。
己の指示が招いたこと。
己が二人を置いて出てしまったこと。
全ての後悔よりも先に、二人を探そうと思った。
ルイは人々全てを見捨てるような動作でローブを翻し、大門を出た。
悠々と歩きながら、己の杖を握り「『追え』」と囁く。そうすると、杖が突然意思を持ったように、ある方向へ向かう。握る手ごと、彼を引っ張っていく。
杖の中にはエレノアの髪がある。そして懐には、彼女の片羽もある。後追いの魔法の妨害を受けていなければ、本人を追うことは容易い。
大門からまっすぐに大通りを抜けて、左に曲がり。二人は自宅に向かっていたのだと気づいた。
――それなら一刻も速く!
彼は数歩先に転移用魔法陣を展開して、――ここで数体の魔物と遭遇した。
魔物は一軒家の屋根から跳び、ルイの頭上へ落ち、「キキッ」と猿のような鳴き声をあげて……まるで待ち伏せが功を奏したことを喜ぶような調子だったけれど、
「邪魔ですね」
そんなお粗末な一言が、猿が聞いた最後の言葉だった。
鋭い刃と化した風に体を刻まれて、ぶしゃ、と緑色の体液を散らして、硬い地面にひしゃげた。「ぐげ」と声を出して死んだ。最後は緑色の粒子になって空気に溶け込み、消えていく。
ルイはそれらを顧みず、魔法陣に足を踏み入れて転移していく。
自宅へは一瞬で到着する。けれどその時間が何倍も長かった。
一秒を何百も刻んで、その全てをいちいち全身で感じ取っているようだった。
「お兄ちゃんは過保護なんですよう」と呆れる妹によくよく言い聞かせてやりたいことがあるし、「ルイが心配するほど弱くないよ」と呆れる恋人を潰す勢いで触れたい。
こんなに走ったのは、エレノアを捕まえた日以来かもしれない。
「エレノア! ルミーナ!」
見慣れた自宅の玄関から、呼ぶ。
けれど人の気配はなかった。家政婦兼恋人も、妹も、出迎えにはこない。
「っ……」
杖は外に向いていた。
少なくとも、ここにエレノアはいない。ではルミーナは?
ルイはあえて己の杖に逆らい、リビングへ急いだ。けれどやはりそこにはいない。
遠くで破壊音がして、部下が放つ魔力が各所から感じられて、剣戟も聞こえて、それでもここには何の気配もない。
急いでいたのか、倒れた椅子がそのままになっていた。暖炉の炎は燃え尽きていて、室内は冷えている。
ルミーナもいないようだと諦めて、彼は玄関へ戻る。
ドアを開けたら、向かいの家が燃えていた。
その眩さに目を眩ませながら大通りに出て、横目に映る何かが気になって、ふと左を見た。
血溜まりを発見した。
隣家の崩れた外壁に上半身が埋もれて、血の主の顔は見えなかった。けれど投げ出された白い足は、纏っている寝間着は、火に照らされて輝く髪は、何かを求めるように瓦礫から突き出ている右手は。
その人物を、ルイは知っている。
「……ぁ」
一度大きく跳ねた心臓を無視して、ルイは血溜まりへ駆け寄った。
瓦礫を飛ばし、埋まっていた人物を抱え出す。
「……ルミーナ」
瞳を大きく開いたままの妹が、息をしていない。
固いもので強く殴られたらしく、後頭部の形が変わっていた。顔は傷ついていなかった。口からだらりと唾液を垂らして、涙を流して死んでいた。
念の為に胸に手を当てて鼓動を確認して、手首を探って脈拍を調べて、息を確認して、何度呼びかけても、彼女は帰ってこない。
呆気なかった。
「――」
ルイは再び口を開けて何かを言おうとしたけれど、何を言えばいいのかわからなかった。
妹の髪は半分、血で固まっている。ねちゃりと粘着質な音がして、ルイのローブに付着した。
彼は妹を私室のベッドに横たわらせて、寝具を被せる。寒くないようにしてやりたかった。
涙は、ない。
ただ頭のどこかが、ぴしりと鳴ったような気がする。
――次はエレノアだ。
ルイが己の杖を握り直すと、杖は反応して再び道を示してくれる。
その方向が、何かを訴えていた妹の右手と重なった。




