「ちょっと落ち着いてください」
ふと目を開ける。
ぼやけていた世界は輪郭を取り戻していく。ここは人間の住処であるとか、銀の鳥籠に入れられているとか、それくらいしかわからない。
それを見ているのが私の深い青色の瞳なのだと思うと、不思議な気持ちになった。前世では虹彩が黒だったけれど、色が変わっても見える色彩に違いはないらしい。
籠の底に散らばった髪は、憎き銀の色をしている。まっすぐで艶があるところが自慢だったけれど、今後はコンプレックスになりそう。
起き上がると頭痛がした。体中が重い。
でも幸いなことに、銀の糸は解かれていた。腕を精一杯使って、羽を前に持ってくる。逃走の最中に、飛ぶ方向に僅かなブレを感じた。どこか切れていると思ったけど、患部が見つからない。
――ここまで呑気にしていたけれど、そろそろ気合を入れよう。
目の色やら羽を気にしている場合じゃないんだ。現状の把握から始めよう――そう考えたところで、間近からごぼりと粘着質に泡立つ音がした。そちらを恐る恐る見てみる。
「ひぃっ!?」
籠のすぐ横で、ビーカー半分くらいの紫色の液体が、火にかけられてごぼごぼ蠢いていた。光沢を含んで、臭気を漂わせながら茹だっている。
なんなのこれは!
「ありえない……」
こんな見るからに危険なもの、近くに置いておかないでほしい。ちょっとの弾みであれが倒れてきたら、この籠全部が汚染される。できるだけ離れておこう。でもやっぱり銀は苦手だから、できるだけ籠本体には触れない方向で。
――まったくこれだから人間は。
――デリカシーも危機管理能力も欠けて、野蛮だ。
籠の中に木の枝が一本横断しているので、そこに腰掛けさせてもらった。勿論ビーカーから一番離れた位置だ。
さて私を閉じ込めたのはどんな奴だ。
忌々しい銀の格子越しに、部屋中を見回す。
広い書斎だ。左右の壁をめいっぱい占領する書棚には、一切の隙間がない。
次に視点を近くに戻すと、案外近いところに人間がいた。籠から手を伸ばして届きそうな位置に居るもんだから、ちょっとびっくりして体が浮いた。
その人間は自分の腕を枕にして、開いた本に突っ伏していた。瞳は閉じられている。長い睫毛は月光で影を作るほど。呼吸はしているようだけれど、寝息は聞こえてこなかった。
籠の中ですいっと飛んで、近づいた。息を潜めて、人間の様子を窺う。
「寝てる、よね」
起こしてやる義理もないので、続けて状況把握に努めることにした。
振り向けば、大きな窓があった。向こうに人間の民家の灯りが見える。空には満月がのっぺりと張り付いていたけれど、少し前にみたものより小さく思える。
気を失ってから、どれくらい経ったんだろう。
「……起きましたか」
間近からのんびりとした声がした。舌打ちしたくなるほど早いお目覚めだ。
私を捕まえた人間の第一声は、声変わりの気配なんて全くない、ちょっと舌っ足らずなものだった。
「おはようございます人間様。ご機嫌いかが?」
「もう5分、と言いたいところですが、流石にできないな。我慢します」
「私としてはもう少し寝ていてくれても良かったけどね」
その間に逃げ出してやるからと態度で示してやれば、人間は何がおもしろいのか静かに笑う。私を小馬鹿にしたのではないみたい。
妖精を捕まえておいて、こんなに純粋な瞳ができるものかな。あんなに必死に追いかけてきたくせに。何か目的があって捕まえたんだろうに。
この世界の殆どの人間は、妖精ほどの魔力を持たない。妖精を使役するか、魔力を搾り取っていく劣悪種だ。捕まってしまえば終わりだって、多くの妖精が心得ている。
私が元人間でなかったら、この籠で目覚めた瞬間に自害していたかもしれない。
剣呑な空気を発しつつ、人間からは目を逸らさなかった。何かあればすぐに対処しなければいけない。
相手は、そんな私の警戒も緊張も汲み取る気が無いらしい。
「調子はどうですか? 怪我はあらかた治したつもりですが、不調があったらすぐに言ってほしい」
その口調は少し独特で、八歳くらいのお子様が大人の真似をしているみたい。だけど違和感がなくって、どこか不思議。見かけは子供、頭脳は大人な某名探偵を見ているような、ちぐはぐな印象を受ける。
正直な第一印象は、天使様だ。
首を傾げた時にさらりと揺れた金糸の髪は品よく整えられていて、瞳も月のような黄金色。
私が視線を強めるたびに浮かべる柔らかい笑みが、断然に子供らしくない。
だけどいくら天使様(仮)でも、人権――妖精権侵害は良くないと思う。
「まず私に言うことは?」
「すまない?」
「すまないで済むなら死罪なんて存在しないよ」
純銀の籠の外から、私をにんまりと観察する少年には、もはや磔刑ですら生ぬるい。
たとえこの世界、――名作RPG『魔王様と砂時計』のキャラクター様であったとしても。
とはいえこの少年が、本当にゲームに出演していたかはうろ覚えだ。見たことあったかな……。
でもどこかで知ってる。髪の色も、目の色も。
少年の美声は、某有名声優さんが当てているようだ。洋画の吹き替えでよく少年声役を担当している某女性声優さん。だから聞いているだけで心地良くなってしまうけれど、それはそれ、これはこれ。私の声だってゲームそのまま声優さんの声を借りている状態だから、ちょっと歌えばその辺の人間なんて惑わしてしまえるかもしれない。エレノアは公式人気投票だと常に二位だったし、キャラソンだってあったりする。前世での自分の声は忘れてしまった。
残念な方向に思考を飛ばしつつ、引き続き視線で敵意を示していると、少年は苦く笑った。
自分が警戒されることをした自覚はあるらしい。
「自己紹介してもいいですか」と聞かれたので、現状把握のためにも頷いてみた。
さあお前は誰だ。誰かの側近か、中ボスか、かませ犬か、はたまた主人公パーティに助けられるイベント限定キーパーソンか?
「此処は僕の家。僕は宮廷魔法使い。ルイ・スティラス。気軽にスティラスさんって呼んでください」
「気軽?」
「ルイでもいいですよ」
どういう性格をしているんだ。イラッときたので、名前では呼んでやらないことにした。
――あれ? でもちょっと待って?
ルイってどこかで知ってる。
忘れちゃいけない人物だった。
喉元まで出かかっているのに。
「……ルイ、スティラス……」
「ん?」
「な、なんでもない、知ってる気がしただけ」
少年は不思議そうにしたけど、言及されることはなかった。
「私はエレノア。スティラスさんが私を捕まえたんだよね。何か用でもあるの?」
「用、は特に無いが」
「……用、ないの?」
「ああ、魔力抽出や強制服従のことなら心配しなくていいですよ。その気はありませんので」
「えっ」
本当!?
一瞬笑顔になって、
「将来の脅威を退けるにはどうしたらいいかと考えていたら君を発見したから、とりあえず追いかけただけです」
「は?」
一瞬だけ凍りついて、
「大丈夫。本当に、君に何かしようとは考えてない。ただあと数百年くらい此処にいてくれたらいいんです」
「はあ?」
一瞬で落とされた。
数百年とかいう曖昧すぎる半永久的な時間制限はなんなの。それに「珍しい生き物発見したから捕まえちゃった」みたいな返答は求めてない。
「私じゃなくても良かったってこと?」
「そういうわけでも……ないな」
「じゃあどういうこと。まったくもって理解不能なんだけど」
わざと要領を得ない言い方をしているのだとしか思えない。
私の怒りに呼応して、羽が荒ぶる。妖精は感情表現豊かだ。安らいでいればへたりと下ろして休ませられる羽さんは、今はばっさばっさ空を掻いている。
私が羽を広げても掠りもしないほど、大きな籠。そう鳥籠の中。その事実も気に入らない。
不機嫌に羽をばたつかせていると、スティラスさんは立ち上がって、怪訝に見下ろしてくる。
「君は本当にエレノアですか? 外見は同じように見えるが、どうも違和感があります」
「だからどういう意図の質問なのそれは」
「僕の知る限り、エレノアはもっと丁寧な口調でした」
「はい?」
お前が私の何を知っている。
たしかにゲームのエレノアは誰に対しても「ですます」の丁寧語だったけど、今のエレノアは丁寧語を常用してはいない。
彼とどこかで会った覚えもないし、人違い、いや妖精違いなんじゃないかな。
「私は確かにエレノアだし、あの妖精の住処には同じ名前の個体はいなかったよ。私達、会ったことあったっけ? 全然記憶にない。別のエレノアさんじゃないの?」
「いや、これが正真正銘の初対面です。でも僕が知るエレノアは、君で間違いはないかと思います」
だからつまりどういうことよ?
少年は「あー……」と言ったきり無言になって、どこか焦ったように頬を掻く。
呆ける私と困った顔の少年は、しばらく見つめあった。
何かを諦めたような溜息のあと、少年は慎重に口を開いた。その瞳にどこか期待を含んでいるのは、気のせいではない気がした。
「じゃあ、そうですね、……『魔王様と砂時計』」
「っ……!」
「知ってたみたいですね?」
「なんっで、知って、あなたっ!」
「ちょっと落ち着いてください」
落ち着いてと言われて落ち着けるほど出来た妖精ではないのですよ、残念ながら。
*
彼は私と同じ転生者であるらしい。その事実を確認した後、私は籠ごと彼の寝室へ連れて行かれた。
先ほどまでいたところは彼の書斎で、あの妖しい薬品は何なのかと聞けば、
『経過観察が必要な薬だったから、書斎に持ち込んでいただけです。研究室より書斎にいる方が多いから』
とのことだ。経過観察という点では私も同じ扱いをされていた。私が昏倒している間、ずっと傍で読書に耽っていたようだ。
ベッドサイドの台に乗せられる。すぐ横のランプを点けられても、目が眩んだりはしなかった。妖精の目は急な光にも強いし、太陽光だって直視できる。
籠の枝に腰掛けた。
少年もベッドに座り、どこか楽しげにしていた。
将来は美形になることを約束された、整いすぎる貌。けれど興奮で頬を紅潮させた彼は、たしかに一人の幼い少年だった。ふふ、とつい漏らしてしまったような笑声に、私は胡乱げな顔で応える。
「嬉しそうだね」
「嬉しいです、すごく」
素直に言い切られ、無邪気な顔でにっこーと微笑まれれば、毒気を抜かれてしまう。喧嘩腰でいる私が馬鹿みたい。
「ゲームを知っている人がいたんですね」
「確証もなく言ったの? 私が『そう』じゃなかったら、危ないんじゃない?」
「タイトルなんてわかる人しかわからないし、反応なかったら適当にごまかせます。とにかく知ってるなら話は早いですね。僕はあのゲームで言う魔王になるキャラクターです。『順調に』成長していけば、あと十五年後には破滅願望の魔王になっているのかな。今はただの宮仕えですけど」
なんと将来の魔王様でしたか。人気投票一位の方でしたか。
ようやくピンときたけれど、彼は世界最高峰の実力派魔術師ルイ・スティラス――当然御尊顔もトップレベルなのが恋愛シミュレーションの常である――として主人公パーティーに紛れ込み、最後に哄笑しながら正体を現すとかいう裏切りヤンデレ系攻略対象のラスボス様だ。
籠の中で正座した私を、少年は不思議そうな瞳で射抜く。
君の将来の歪みっぷりに心が抉られそう。
「えっと?」
「私ごときをお気に留めてくださらずとも良いのです。ささ、続きをどうぞ」
「ああ、え? はい……。それで、勇者を勧誘する役目を負うエレノアを、今のうちに確保しておくことにしたんです。魔王になったって、自分が死ぬのは絶対に怖いから」
「はい先生、二つほど疑問が」
「はいエレノアさん」
挙手すると、ちゃんと指名してくれた。ノリがいい。
「私を捕まえても、別の妖精が代わりに選ばれるだけだと思います。それとそもそも、魔王にならなきゃいいのではないでしょうか」
「答えはどっちもイエスです」
「殴るよショタ」
「エレノアの顔でそういうことを言わないでください。言い訳すると、僕も混乱してたんです。今日の朝に記憶を取り戻して一人になりたくて森に入ったら、偶然君を見つけました。考えてもみてください。勇者パーティーに数人がかりで殴る蹴る焼かれる凍らされる斬られる潰されるの暴行される将来を思い出したら、正気でいられますか?」
「一も二もなく拒否します」
「そういうことです。まあ僕も、姉がこのゲーム好きで延々と語るのを聞かされてたというだけで。あとはCMやプロモーション動画で見たくらいですね。ただルイは姉のお気に入りだったから、他のキャラの数倍の情報を色々聞かされてました。将来の僕って相当エグいですね」
「ええとっても」
主人公が宿屋で寝ている間に、お世話になった街ひとつ滅ぼしてましたとも。そんなやつでも攻略できるんだから、恋愛ゲームは節操を知らない。
それにしても妙なことになってしまった。
攻略対象の魔王が男なら、ここは乙女ゲー世界のはず。
同じく攻略対象の妖精が女なら、男性向けのギャルゲ世界のはず。
これってどういうことだろう。この世界自体についても懐疑的だから、今はこの歪みをどうしようもないけれど。
ううん、わけがわからない。