妖精と尊い挑戦
ストレス展開っていうの? 続きますよ。
人々の希望はすぐそこにあった。
走り出せば捕らえられる距離に。
エレノアの背筋が凍った。腹の中はぎゅっと熱く緊張して、口は渇いた。
何て言ったのだろう、と思った。理解できなかった。
――禁忌の薬の、名前。
十メルトルも離れた位置から拡声器も使わずに放たれた声色が恐ろしくて、エレノアは瞳を見開いた。
「その子、妖精なんでしょう?」
女性は言った。瞳には確固とした意思を帯びて、けれど悪意は無さそうだった。母親としての強い眼光がエレノアを責めた。
妖精がこの場にいたなら?
その先のことはわかっている、目に見えている!
違う、と掠れた声を吐き出しながら、雌妖精はふるふると頭を振る。
あの女性は子供を助けたいのだろう。治癒師にも見捨てられたに違いない、死が間近の――もう死んでいるかもしれない我が子を抱きながら、希望に縋ろうとしているだけだ。
理解できる。同情もできるけれど、でも。
だからといって、代わりに死ねというの?
嘘だ。嘘だ。「あ……」と喉の奥から意味のない音が漏れる。
エレノアが周囲を見回したのは助けを求めてのことだったけれど、そこにあるのは刃のように鋭い、硬質な眼差しだけだ。
エレノアは何もしていない。ここに逃げ込んだだけなのに。
「なんで……?」
どうして私は、切り捨てられようとしているの。
「妖精、ねえ。魔物じゃなかったんだ」
遠い左手から若い女の声がした。
「どうりで。あのルイ様が魔物にたぶらかされるはずなかったんだ」
その友人だろうか。また若い女の声だった。
「妖精を飼われていらっしゃったか。納得納得」
今度は年配の男性だった。
やだ、と怯え始めるエレノアを細腕で庇うのは、ルミーナだった。
皆の視線を当てないようにと膝立ちで被さって、エレノアの視界から人を締め出す。
ルミーナは背に突き刺さる視線に振り返って、人々を真っ向から睨み返した。
「うちのエレノアを、どうしようって言うのですか?」
冷たい声と美貌に誰を見たのか、十六歳の少女を前に、人々はぐっと押し黙る。
けれどすぐに、「妖精」と囁かれ始めた。
止まらない。
「待てよ、エレノアさんは筆頭の……っ」
「でも妖精じゃない」
「そうだ、もしかしたらルイ様だって、こんな時のために薬にするつもりで」
「勝手なこと言ってんなよお前ら!」
「そうだよ、フェアリー・テイルは禁止されてるのよ!?」
「だけどあれを禁止したのはルイ様だし、その妖精に唆されてるってことも」
エレノアとルミーナに味方してくれるのは、壁際から動けない宮廷魔術師だ。結界を張って市民を守る役目の彼らは、一歩足を動かそうとしては我に返り、その場に留まった。守るべき市民と孤立する二人の間に、板挟み状態だった。
――そういえば宮廷魔術師さんは、私が妖精って知ってたのかな。あんまり驚いてないみたいだし、知っていたみたい。
ルミーナに庇われながら、エレノアは殆ど動かない頭を動かしていた。
枠の外のことと静観していたのに、いつの間にか禍中にいた己を、守る術がない。
そうしている間にも、悪意のない殺意が彼女の身を苛む。
言葉は刃で、視線は縄だった。
「そこに研究所があるんだし、薬を作る設備だって整ってるんだろ」
「みんな落ち着いてよ! こんなこと許されないって!」
「許されないって誰にっ!? 妖精一匹いなくなれば、全部助かるかもしれないじゃん!」
既に、収拾の余地はない。
エレノアは元々人外と疑われていたから、始めから燃料はばらまかれていた。
恐れるべきは、その集団意識だった。あの女さえ生贄になれば自分の子供は、家族は、あるいは恋人は、助かる。諦めるのはよくない。試行錯誤をしよう。
人々は一筋の希望を信じて、集団の意思は一丸となって、雌妖精にのしかかった。
一人を犠牲に多くを救う。誰もそれをおかしなことだとは思わなかったし、言えなかった。
だってそれはおかしなことではないからだ。
ルミーナが叫ぶ、
「フェアリー・テイルはそんな薬じゃないんです! 万能薬なんかじゃない!」
「魔術師は長寿だと言うじゃない! 魔力があれば、もしかしたら生きられるかもしれないでしょう!?」
「もしかしたらでエレノアを殺すんですか!? 納得できるわけないですよ!! それにエレノアが妖精って、何の証拠があって――ッ」
「そんなの、服を脱いでもらえばわかることですわ」
血まみれの恋人らしき男性の傍にいた女の子が、ルミーナを睨みつける。黒い髪の彼女は、ルミーナの友人だった。
人の群れから歩み寄ってきた複数の男性を前に、二人はずりずりと後退していく。
彼らは皆真剣だった。立ち上がって逃げようとした二人を捕らえて、力づくで引き離す。
「やめなさい! 彼女を辱めるつもりなのっ!?」
「エレノア……っ、やだ、放して、放してえっ!」
女性魔術師とルミーナが必死に叫んでも、人々の熱気は鎮まらない。
がちがちと奥歯が鳴るほど身を竦ませたエレノアは、男性二人に両腕を押さえられる。口元は無骨な手で覆われる。エレノアの背に回った男性が彼女の襟元を掴んで、
「っ……!」
――一気に引き下ろし、服を裂いた。
そこに見えるのは、白く滑らかな背中。肩甲骨あたりから生える薄いガラスのようなものを、器用に体に沿わせている。何本かの黒い線が網のように走っている。
服の締めつけから開放すれば美しいのであろう、それは――人間にはないはずの羽。
「っ……羽だ……」
「本当に、妖精が……!」
人々の顔があからさまにほころんだ。
「違うんです! みんなあの薬を誤解して――」
「試してみなくちゃ」
「やめて……っ」
「ごめんな。でもな、ルミーナちゃん……人の命には換えられないんだよ」
ルミーナを押さえていた一人が、悲しげに彼女を嗜める。何事かを呟き始めたルミーナの口を抑えたのは、魔法の行使を恐れてのことだった。少女が魔法使いの端くれだという事実は、王都の人間であれば誰でも知っている。
次はエレノア自身が暴れだす。
掴んでくる腕を離そうと、死に物狂いで抵抗した。
――やだ、やだぁ……っ
ぎゅう、と閉じた目尻に涙が滲む。感情に反応して、羽もばたつき始めた。背後にいる男は軽く舌打ちして、彼女の羽を乱暴に掴む。
――やだよ、放して、ルイ以外の人間が、私の羽に触るな!
エレノアは、ただもがいた。
妖精と人間に、膂力の差はない。だから異性間での力差は埋められない。
痣ができるほどの力で両腕をとられていても、逃げ出せなくて、そして。
ぶち。
何かを抜かれる音と共に、エレノアの視界は急激に色褪せた。
口がはくはく喘ぐ。瞳はいっぱいに見開かれ、遠くに揺れる松明を映した。
そのままびくり、と二、三回痙攣すると、彼女は一気に崩れ落ちる。
折った膝は地について、長い髪を振り乱したまま項垂れた。両腕を掴まれたままで俯せになることは許されず、罪人のように、頭を差し出すようにして、沈黙した。
エレノアの背中側にいた男の手には、妖精の羽が一枚、握られていた。
「……ど、して……なんでっ」
その怨嗟は、ルミーナからだ。彼女の口を抑えていた手は一瞬緩んだけれど、再び塞ごうとしてくる。ルミーナは、また同じになる前に声を上げた。
「エレノアの羽……返してよ……っ!」
ルミーナとエレノアの周囲に巻き上がった風は、男たちを傷つけた。こいつらが怪我をしようが、ルミーナには関係なかった。
一瞬の隙をついてエレノアの傍に飛び込むと、ルミーナは項垂れたままのエレノアを抱き締めて「ごめんなさい」を繰り返した。
「もっと早く、無言の詠唱できなくって、」
「…………。」
「お兄ちゃんみたいに、ちゃんとできなくて……っ」
何も言わない妖精に縋り付きながら、ルミーナは結界を作り始める。魔法科三年生ではありえない、精巧で斑のない防御壁だった。
小さな半球状の透明な壁の中で、ルミーナは動かないエレノアを抱いていた。
そんな二人の耳に、人々の勝手な相談事が飛び込んでくる。
少女が、
「もう止めてよ、エレノア本当に死んじゃうから、お願いだから、これ以上は……ッ」
泣きながら訴えても、大人たちは黙殺してしまう。己の大切な者のために。
「妖精……人間の大きさだと、たしかランクA以上だよ。それなら効き目だって」
「でも、フェアリー・テイルの作り方なんて私たちは知らない」
また一人、今度は女性が歩いてきた。初めに声を上げた母親だった。
その腕には相変わらず子供を抱いていたけれど、子供はもう、目をうっすら開けたまま息をしていなかった。母親はルミーナにうっそりと微笑んで、
「ねえ、ルミーナちゃんは、知ってる? フェアリー・テイルの作り方」
松明の火に照らされた涙の跡は、痛々しかった。
*
宮廷魔術師が止める声など聞こえていなかった。
あそこにはいられないと思った。
それが間違った選択なのだとしても、この時はこれが最善だと思えた。
ルミーナは、足取りが覚束ないエレノアの手を引いて大門を飛び出していく。外に出れば人が追ってこられないと踏んで、実際にそうだった。
「ルミ、ナ、ちゃ……」
「絶対、ぜったい、ここで、なんて、だめなんですから……っ!」
羽が抜けたエレノアの背中からは、妖精の真っ赤な体液がじわりと染み出していた。むき出しになった背中に伝って、衣服に染みていた。
羽が一枚なくなっただけで、重心の置き場さえ見つからない。
エレノアは、前を行くルミーナの髪を苦しげに見つめて走った。
「だめだよ、あぶないから、ね? ルミーナちゃんだけでも戻って」
「いや! そんなかっこいいこと言わないでください!」
「……また、喉、くるしいことになっちゃうよ」
「風邪でもなんでも耐えてやりますから思う存分看病してください!」
行きはまだ綺麗だった大通りが、今はその面影のみ残されていた。
割れた石畳や、倒された街灯、瓦礫に阻まれているそこを駆け抜けていく。
「おい、なんで一般人が……!」
「妖精……っ!?」
散見する騎士たちの声が聞こえた気がしたけれど、耳を貸さなかった。保護されたらまたあの人々の中に放り込まれるかもしれないと思うと、従えない。
魔物の赤い瞳が何対も、建物の瓦礫の影から二人を睨みつける。
今しがた通り過ぎたばかりの建物から、がらり、と硬いものが崩れる音がした。
振り向いたエレノアは、何か黒いものが向かってくるのを見た。
――首の長い犬だ。
目は血走って黒目があらぬ方を向き、白目がぎょろりと露出していた。後ろ足の筋肉は醜悪に発達している。血管が浮き出てびきびき動いていた。
エレノアは、そのおぞましい生き物に見覚えがあった。ゲームの中では雑魚とされていた魔物だ。
四体の犬に囲まれていた。雑魚は集団で襲ってくるものだと相場が決まっている。
エレノアは飛行能力を失ったばかりで、今や二足歩行も危うい。――こんな状態で何ができる?
「家に帰るんです。二人で帰るの」
ルミーナがそう言った。
強い風が吹くと、火の粉が喜んで飛び上がった。いくつかが、ルミーナの頬を掠めた。
「お兄ちゃんが帰ってくるまで、私がエレノアを守るんです」
病弱な少女だ。一日でこんなにも激しい運動をすることすら危ういはずなのに、必死にエレノアを引っ張って導いていく。
ルミーナは時々、追ってくる魔物に片手を向けて風で切り裂いていた。エレノアも体に鞭を打って、水の魔法で対抗する。
犬型魔物は退治できたものの、二人共限界を迎えていた。
エレノアは魔力の多くを失い、妖精サイズに戻った。片羽では飛ぶこともできないから、ルミーナに抱かれながら浅い呼吸をしていた。
妖精にとっての羽が何であるか。
羽を失った妖精がどうなるか。
ルミーナは、それを兄から聞かされていた。
泣きたくて、膝を着きたくて、休みたくて、それでも妖精を失いたくない一心で、鈍重な両足をと動かした。心など挫けていた。それでも守らなければいけない存在がいるから、ルミーナは立ち止まれない。
送り届けなければいけない。あの家まで。だってもうすぐ、兄と妖精は一緒になれるはずだ。その未来を信じた。それだけしか見えていなかった。
見慣れた屋根を見つけた。スティラスの家だ。
三人だけの、子供の秘密基地のような、柔らかな空間。
街にこれだけの損害があっても、あの家だけは変わらない。
「っ……あった、ありましたよ!」
エレノアが目を動かした。そしてほう、と安堵の息を吐いた妖精の様子に、ルミーナは元気付けられた。
疲労も痛みも何もかもを忘れ、少女は走る。これはむしろ早歩きだというくらいの頼りない速度でも、確固とした足取りで地を踏みしめた。
それを邪魔しにふらりと現れたのが、トロールだった。
トロールは標的を二人に定めていて、棍棒をぶらぶらと遊ばせていた。




