妖精と男の背中
ちょっとグロ表現注意
木枯らしが冷たい季節になった。
暖炉には常に火が入るようになり、一家は温もりを求めて暖炉前に集合する。
そしてたった今ルイから告げられたお仕事に、エレノアとルミーナは固まった。
「一ヵ月も帰ってこないの?」
「ええ。こんな長期出張は初めてですね」
魔王の存在感が、日々増している。魔物に怯えているのはこの国ばかりではない。
先日、隣国から要請があったのだそうだ。世界に名が知れているルイを呼び、講師として滞在させ、魔術水準の向上を図りたいと。それを国王陛下は快諾し、ルイに話を持ち掛けたらしい。
「他の国に興味ないと思ってたのに、優しいことするんだね」
「いや、陛下もさすがに国交に興味ないとか言ってられないでしょう。僕の価値に見合うだけの条件があってのことらしいですし、もちろん家にも手当は出してくれるそうです」
「そこまでするほど、今の魔物ってまずいの?」
「みたいですね。魔物の狂暴化は世界規模のようで。すべて魔王のせいですので、文句はそっちに言ってください」
「言えないけど……」
「あのう」
黙っていたルミーナが挙手した。
「そもそも魔王ってなんです? 学校じゃああんまり教えてくれないんですよう」
ルイとエレノアは、互いに目配せをする。説明を押し付け合い、最終的に折れたのはやはりルイだ。
「魔王とは、簡単に言えば魔物たちの王ですね」
「そのまんまだね」
「そうですね。魔物達の中で最も魔力が高く、強い個体が魔物を束ねる。人間と違うところは、世襲制ではない上に種族も隔てないというところです。……メモは取らなくて構いませんから」
「はあい」
「魔王を倒した者には、次の魔王になる権利がある。力技で代替わりしていくので、血筋などあまり気にしていません。魔物は獣の本能が強く、絶対に敵わないと判断した相手には服従するそうです。従順な分、人間より扱いやすそうですね」
「おっと少年その思考は頂けないぞ」
「冗談です。そしてエレノア、禁句一回ですよ」
エレノアは黙った。
「どういった経緯があるのか知りませんが、何十年かに一度は世界に恨みか野心だかを抱いた魔王が現れます。魔王の暴れようによって魔物も活性化するので、国々が話し合い、魔術師が集められて、勇者が召喚されます」
「ふむふむ」
「魔王を倒した勇者にも魔王の継承権はあるわけですが、勇者は常に正義の味方ですからね。魔王を継ぐことなく、故郷に帰るか田舎で平穏に暮らすか……」
魔王の周辺に関しての説明は、このくらいでいいでしょう。
といった様子で、彼は読みかけの本へ視線を戻す。そうしながら、おもむろに口を開いた。瞳はやはり本に向けたまま、
「永遠の夏と永遠の冬を選ぶとしたら、君はどちらを選びますか?」
「んー……、冬、かな」
エレノアが答えた。
「それは、何故?」
「そういう気分だから。で、その質問は何なの?」
「神話です。何千年も昔に生きていた人々が、その選択を迫られたといいます。解決するには生贄が必要だった。その生贄は、銀髪の、深い青色の瞳をした、妖精のように美しい女性だったそうですよ」
「…………。」
「ただ性格だけは最悪だったのだとか」
「そんなとって付けたようなこと言わないでいいから」
「れっきとした神話の一文ですけど」
軽口を叩いている二人を、ルミーナは黙って見つめていた。
どこにでもある一般的な幸せだった。
数日後、ルイは転移魔法を使わずに『仕事』へ向かおうとしていた。転移魔法は一度自分の足を運んだ場所にしか使えないので、馬車を使うのが手っ取り早い。
彼は簡単な旅荷物を持ってドアに手をかけながら、見送る二人を振り返る。
「非常時の行動はわかっていますね?」
「とりあえず宮廷魔術師さんのところにいく、です」
「逃げる」
「はい完璧ですね。部下も様子見に来てくれるそうですので、よろしくお願いします。それではひと月ほど留守にしますので、頑張ってください。……あ、エレノア」
「んー?」
エレノアは、手招きされて素直に彼の元に寄っていった。腕を引かれた。
ふに、と覚えのある感触が唇に触れる。
「では、行ってきますね」
顔の赤いエレノアと、珍しいものを見た顔のルミーナににこりと微笑んで、ルイは爽やかに背を向けた。
女性ふたりを家に残していくことを渋りに渋った彼だけれど、王命とあらば仕方がない。
あちらに許可をもらって一度限りでも魔法陣を敷けば、任務を終えてすぐこちらに転移してこられる。
それに、スティラス家の事情を知っている部下たちも協力的だ。
研究所で寝泊りすることも、今まで何回もあった。それが今回は少し長くなっただけのこと。
――という、この決断が。
『百年』経っても消えない傷になるとは、考えもしなかった。
他国へ渡って、たった三日で、彼の世界は豹変した。
*
濃い灰色の煙が立ち上る。炎が夜空を赤くした。
石畳に躓いた子供が、母親に乱暴に担ぎ上げられていた。それを邪魔くさそうに睨みつけながら、人々は同じ方向に走っていく。怒号も、悲鳴も、泣き啜る声もする。
そんな群れの中に、エレノアとルミーナが紛れていた。
「っ……大丈夫? 苦しくない?」
「ん、大丈夫、ですよう」
非常時には研究所に行けという言いつけの通りに、二人は走っていた。
王都中の皆が、王城の敷地を目指していた。「こっちへ! 中央に向かってください!」と、黒いローブの魔術師達が、所々で叫んでいた。
エレノアはルミーナの手を引きながら、時々振り返って様子を見た。ルミーナは激しい運動ができない。体調を気遣うエレノアに、ルミーナは必死に追いつこうと足を動かした。
始まりは、どごおんと大きな破壊音からだった。
エレノアは車両事故を考えたけれど、この世界に自動車はない。それならばなんだろうと考えているうちに、家に宮廷魔術師が飛び込んできたのだ。
黒髪の魔術師は開口一番に、
『逃げてください!』
と、声を張り上げた。
『え……?』
『早く! 妹さんも連れて、研究所の方に!』
魔物が侵入したと、男は言った。
騒ぎに目を覚ましたルミーナは寝間着姿だったけれど、着替えを促す暇はない。エレノアはすぐにその手をとって、家を飛び出した。
大門から中に入れば、外壁の内側に沿って魔術師たちが立っていた。王城の敷地を覆う結界を張っている。
黒いローブに親近感があるので、壁の付近で空いている場所を探した。
普段なら立ち入らない芝生にルミーナを座らせて、己のストールをかけた。
「……私だけじゃずるいです」
「私は寒くないから」
「…………………………」
無言の訴えに負けたエレノアはルミーナを抱き寄せて、二人でストールを巻くことにした。
ふ、と息を吐く。
呼気の荒いルミーナの背を擦り、互いの肌を確かめる。
幸い怪我はないけれど、運が良かっただけなのだろう。
「誰かっ……、治癒師様は!」
「ここにも! 腕が酷い有様なんだよ!」
「痛い、痛いよう、……おかあさ、いたい、」
重傷者はたくさんいる。
治癒師の腕をもってしても無理だと判断された人々が、死を待っている。
つい先ほど、大門から飛び込んできた親子がいた。母親にすがりつく女の子には腕が無くなっていて、そのむき出しの傷口からは、白くささくれだった何かが飛び出していた。泣きもせずに、瞬きすらできずに、何が起こったのかわからないといった顔でいた。ただ不自然にびくんびくんと震えて、脂汗を流していた。母親は何かを喚いて半狂乱になりながら、子供の傷口を必死に止血しようとして、衣服を裂いた布を女の子の腕に巻き付けていた。そして女の子はほどなく気絶した。
とある男は、しきりに嘔吐していた。もう胃液しかないだろうに、何度もえずいて黄色い液体を吐き出していた。
怖い怖いと、どこかの子供が叫ぶ。
壁の向こうから何かを叩き割る音がした。
地鳴りは止まない。
どれほどの規模の魔物が、それほどの数で、いったいどこから――そんな情報もない。
穏やかに整備されていた宮廷の庭は、過密な人間の足に踏み荒らされていた。
松明が人々の汗を照り返す。火と、人と、嫌なものが渦巻く赤い世界に現実味など全くなくて、エレノアはしばらく動けなかった。目の前に繰り広げられるそれらは凄惨で、「怪我をしたのが自分たちでなくて良かった」と、生存本能剥き出しの思考さえ否定できない。
ここに人を一箇所に集めて保護しようというのはわかるけれど、と頭上を見る。
――あれ?
エレノアはもうひとつ、結界を見つけた。――結界が二重になっている。
「……結界は二つあるんです」
エレノアの疑問に気づいた女性魔術師の一人が、脂汗を滲ませた顔で、へらりと笑った。
「二つ?」
「ええ。王宮の敷地全体の結界と、王都を囲うものです」
「王都……ぜんぶ?」
「魔術師長は被害の拡大を止めることと、筆頭は人々の安全を第一にと、私たちに命じていました。二重結界が作れるようにって、この配置も全て彼らが調整したんです。研究所で捕らえた魔物が反乱しないとも限らないので、彼らはそちらも危惧していましたけど……今回は違うみたい」
女性魔術師は壁に寄りかかりもせず、けれどその位置から一歩も動かず、魔力を消耗し続けていた。
「もしかしてそこから動けないの?」と聞けば、肯定が返ってくる。
魔術師の配置も、個々が広げる魔法陣も、全てをひっくるめて巨大な魔法陣だから、動くわけにはいかないのだと。
「でも王都中の人間を集めたら、ここじゃ狭いよね」
「ええ。ですから順次、転移魔法で他の避難場所に送っています。緊急時にと託された通行証がありますので、百人単位でお送りできます」
どこまでも抜け目がない。
こんなところでも彼に守られているような気がした。
「エレノア様は、もっとお話しづらい方なのだと思っていました」
「全然違いますでしょうっ!」
「なんでルミーナちゃんが反応するの」
除け者にされて悔しかったらしい。しかしそれも強がりなのだと見て取れる。ストールを握る手は、微かに震えていた。
ルミーナが女性魔術師に「エレノアは可愛いんですう」と妙な絡み方をしていく。女性魔術師の隣の位置――五メルトルほど離れた場所の魔術師も、そのやりとりを見ていたらしい。エレノアと目があって、目礼した。
宮廷魔術師は親しみやすい。
「騎士や魔術師長が魔物を掃討しています。筆頭にももうすぐ連絡がつくでしょうし、もう少しの辛抱ですよ」
そう言われると、本当に大丈夫な気がしてしまう。
とんぼ返りをさせてしまうけれど、ルイが帰ってきてくれればどうにかなるのだと、妖精は根拠なく信じた。
エレノア達から離れたところに、怪我人が運ばれていた。
その周囲では数少ない治癒師が右往左往して、その中にはアルスの姿もあった。彼は怪我人の容態を調べて、見て、治し、或いは重々しく首を振って、転々としていく。
けれど静かに歩み寄ってきていた男に話しかけられて、手を止めてしまう。部下の治癒師に「一時任せた」という仕草をとって、宮殿に駆け込んでいった。
王に何かあったのだろうか。
それを意識する暇もない治癒師たちは、治療に専念していった。
そんな情景は、エレノアの目には、枠の向こうの出来事としか思えなかった。薄情だろうか。けれどエレノアの中で優先順位は決まっている。ルミーナが無事であれば、それでいい。
けれどその枠を飛び越えて、エレノアに突き刺さる声があった。
「……フェアリー・テイル……」
誰かが、ぽつりと呟いた。
静けさの輪が広がっていく。
その誰かは、もう起きない子供を腕に抱いた母親だった。彼女はじっとエレノアを見つめていた。
釣られるように、人々はエレノアに視線を注ぐ。
エレノアは、この異様な光景の中で、見覚えのある男性――ギルレムの背が去っていくのを見た。




