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妖精と嫌な薬物

 強く咳き込む声が聞こえて、エレノアははっと目を覚ました。

 まだ深夜だろうと、寝入って三時間くらいの一番眠たい時間であろうとも、妹分の声はよく届く。

 ルイに抱き締められたままだったけれど、エレノアが何かを言う前に腕が外された。見れば彼も起きている。疲労もあるだろうに、彼も妹の声をはっきり捉えていた。


「ちょっと行ってくるから、ルイは寝てて?」


 エレノアがベッドからおりると、彼も無言で起き上がった。


「来るの?」

「ええ」


 声が掠れているけれど、大丈夫だろうか。

 ルイのことも気になったけれど、エレノアはすぐに部屋を出る。

 ルミーナの私室に近づけば、やはり激しい咳が聞こえた。軽いノックの後に入室して、様子を確かめる。

 夜になると風邪の症状が酷くなる。

 熱い額に手を当てて体温を確かめ、枕元に落ちていたタオルを拾った。寝かしつける際に濡らして額に当てていたはずのタオルは、ぬるくなっていた。

 ルミーナも目を覚ましていた。そこにいる妖精を見て、また瞳を閉じる。

 エレノアはそっと声を潜めた。


「汗かいちゃったね。ちょっと拭こうか?」

「……ん」


 たエレノアは、ルミーナの寝巻きのボタンを外していく。濡らし直したタオルで肌を拭っていく。

 全ての行程を終えた彼女はルミーナの様子を見つつ、ドアを開けて廊下を覗いた。壁に寄りかかっているルイがいた。


「……どうですか」

「やっぱりまだダメみたい。明日……もう『今日』かな。今日は学校ないけど、たぶん明日も行かせられそうにないよ」


 こんなに酷い風邪は、ルミーナに会うまでは見たことがなかった。


「私はまだここにいるから、ルイは寝てて」


 症状が重いルミーナを看病するのは、いつもエレノアだ。ルイは激務だし、家政婦がこれくらいするのは当然だというのがエレノアの意見である。

 彼はそこから動こうとしない。


「……明日は休日です。朝食は要りません。店もやっていないので、君さえ良ければお昼までゆっくりしていても構いませんよ。勿論ルミーナが落ち着いていれば、ですけれど」

「ありがとう?」


 それは家長からのありがたい指示だ。突然そんなことを言い出すルイの真意がわからなくて、エレノアは彼の言葉をじっと待った。

 ルイは寄りかかっていた壁から背を離した。一度口を開いて、閉じる。こんなにわかりやすく逡巡しているルイは珍しい。エレノアは改めて廊下に移動して、彼に向き直った。


「お話ししたいことがあります」

「今じゃないとダメなの?」

「今がいいです。話の内容を、ゆっくりできる明日のうちに、できるだけ飲み下していただきたくて」


 ――ルミーナが看病を必要としている今。エレノアという性根の甘い妖精が、この家から逃げることを躊躇する今がいい――。

 そんな事情を知らないエレノアは不思議そうにするものの、素直に頷いた。


「ずっと、話さなくてはいけないと思っていました」


 重々しい切り出しだ。

 エレノアの背筋は、自然と伸びる。冷たい雰囲気がなくても、黒い笑顔がなくても、真面目な顔でそこにいるだけで、高位の術師なのだと実感できる。


「君が妖精だとバレても庇えると、そう言ったことがありますね」


 エレノアは三人組に絡まれた日の記憶を探りあて、「ありましたね。そういえば」と返答する。口調がおかしいことになってしまった。「……何故敬語に?」とからかわれると、場の空気が一瞬だけ緩む。


「あれは、僕が筆頭になった時に上にかけあって、とある薬の製造と販売を禁止したからです。あの薬が消えさえすれば、少なくともこの王都では、妖精を表立って捕らえようとする輩がいなくなると踏んで。この国での妖精需要はあの薬のみでしたし。そして君は宮廷魔術師筆頭の大切な人であるわけですから、ね」


 少しの沈黙の後に、「あの転移魔法が一番に反応する『危険物』は、その薬です」と添えた。

 とある薬。

 曖昧に示されたものが何であるか、エレノアはわかってしまった。今の今まで忘れていた。ルイが持つ黒黒しい別の顔とはまた違った種類の、人間が生み出す一つの狂気。

 ――否、それはもしかしたら、狂気ですらないのだろう。

 特に人間は、それを狂っているとは認めない。

 だからエレノアは、妖精は、人間が嫌いなのだ。


「……まさか……」


 エレノアは一歩後退する。ルイはその反応をじっくりと観察していた。


「解りましたか?」

「……なんで私に、そんなこと話すの」


 妖精にとって最も忌々しい、人間の創造物。

 妖精が人間と完全に決別するきっかけとなった薬だった。

 当時は生まれていなかったエレノアだって知っている。


 十匹の妖精を原料とした薬。


 想像するだけで、肌が粟立った。

 妖精を手当たり次第に捕らえて銀の檻に入れて、羽をもいで、殺して、これが人間のためだと言って、犠牲になった妖精側にはなんの利益も齎さずに。


 だから妖精は人間から離れた。

 この国どころか世界中の同胞たちに、人間への怒りと憎しみを混じえたテレパシーを発信して、ある日一斉に巣を捨て移動を開始した。


 妖精と暮らしていくのなら、その話題は禁忌なのだと解るはずだ。

 それを今、どうして持ち出したのだろう。

 エレノアが背にある羽を大きく広げてしまうのは、防衛本能からだ。いつでも場を退けられるように、周囲の窓に意識を配っている。

 今エレノアの目に映っているのは、恋人でも養い子でもない『人間の魔術師』だ。

 薬の話を出しただけで威嚇の態度を見せる愛しい恋人を、ルイは哀しげに見ていた。


「……この薬は――」


 決定的な事実を口にしようとした時だった。


「やめてっ!」


 掠れた声がルイの声を遮った。悲鳴のようだった。続く咳の声に、ぴんと張っていたエレノアの羽が萎んで下がっていく。足早にルミーナの部屋へ戻り、激しく咳き込む彼女の背を撫でさすり始めた。

 ルミーナは、ベッドでその身を乗り出して、兄を非難していた。


「おにいちゃん、の、ばか……っ」

「ルミーナ、しかしこれは」

「ばか! ばかっ! あほぅ! 顔だけおとこ!」

「…………」

「まだ、私、いないのに、なんで勝手に言うんですかっ!」


 ――まだ治ってない。私がいないところで、私が知らないところで、エレノアを怖がらせるのは止めて――。

 要訳すれば、こう訴えていた。

 激しい呼吸音はエレノアの不安を煽るばかりで、いくら「もういいから」と宥めても、ルミーナは引き下がらなかった。

 ばか、あほ、まぬけ。仕事人。顔だけ爽やか男。知っている限りの罵詈雑言を兄に投げつけた後で、ルミーナはエレノアの服に縋りつく。


「えれのあ、エレノア、ここに、いて、ください。でていかないで」

「わかったから、ちゃんと寝よう?」

「黙ってるの、悪い子だって、わかってますから、ちゃんと、……だから……っ」


 ルミーナの喉から、ひゅ、と寒々しい音がする。

 また体温が上がったルミーナを、エレノアは両腕で包んだ。妹分の頭を押さえて、胸に押し付ける。そうすると懐がじわじわと濡れてきて、泣きじゃくる声もくぐもって聞こえた。

 この胸に寄りかかって頭を預けてくる様はどこかで知ってるな、と遠い昔を思い出して、エレノアは穏やかにルミーナを受け止めていた。

 ルイは、エレノアの懐に顔を埋める姿は認めたくはないけれど身に覚えがありますね、と思いながらルミーナの部屋に入る。エレノアの「このタオル濡らして。冷たくね」というお願いを魔法で叶えた。稀代の魔術師の有効活用だ。


 どっと疲れた面持ちの家長だった。

 難しい顔をしていたけれど、息を吐いて気を緩める。


「話の続きは、次に持ち越しですね」

「……うん。急ぎの話じゃないよね?」

「嫁入り前に秘密ごとは解消しておいた方がいいというくらいの話です。せっかく機会が掴めたのに……まあいいでしょう。ルミーナの意思も尊重しなくては」


 ルミーナの尋常でない様子は、これが良くないことなのだと物語っていた。

 けれどそれを話そうとしてくれたこと自体は、そう悪いことではない。

 エレノアは警戒心を鎮めて、冷静な家政婦でいることにした。いつか話してくれる。その時どんな想いをするかはわからないけれど、ぐすぐす泣いているルミーナのためにも、まだ追求しないようにしようと決めた。

 つまるところ。

 臭いものには蓋をしようと、そう思ったのだ。


「お、お兄ぢゃんの、ばか」

「愚妹に言われるほどとは驚きました。早くエレノアから離れて寝なさい」

「エレノアはまだここにいるもん」

「……はあ」


 ルイがふらりと退室していく。その背を二人で見届けた。

 ふと窓を見ると、空が青い。夜が明け始めていた。



 素朴だった国は、徐々に土地を拓いて他国に並ぶほどの大国となった。

 とある薬の開発によって、百年間で急成長を遂げたのである。

 富豪は多額の金で薬を手にし、小瓶に詰まったそれを一滴も零さぬように飲み下し。

 庶民は庶民であるほどに、薬を薬を薬を薬を薬を薬を薬を薬を薬を――欲しがり、破産した。

 その薬は他国の顧客を依存させ、国庫を温め続けた。

 その薬をちらつかせれば戦を回避できる。金などいくらでも入ってくる。

 魔術研究所が置かれ、騎士団が形となり、薬が齎した金を持て余すようになった頃。


 妖精との関係を問題視する宮廷魔術師筆頭の訴えがあり、国は初めてその薬を手放した。


 魔力を持たずに生まれた者に、一度の服用で魔力を与え、二度の服用で魔術の行使も可能にする。

 不治の病さえ癒すと噂された。


 今や教書の文章にだけ存在を許されている、御伽噺のような妙薬。

 人々は畏敬を込めて、その薬を『フェアリー・テイル』と呼んでいた。

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