決着と宮廷魔術師
「ただいま帰りま」
「お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃん!」
ルイが職場から転移してきてみれば、制服のルミーナが焦った様子で廊下を駆けてくる。「体が丈夫じゃないんだからあんまり走らないでね」とエレノアにも言いつけられているのに、これはどうしたことか。
そしてルイの元に走ってきたルミーナは、息を切らしていた。
「走るなと言ったでしょうに」
ルイは言わんこっちゃないと呆れるが、ルミーナはそんなことはどうでもいいと兄を睨み上げる。
「お兄ちゃんのばか! エレノアに何したんですか! どんな不義理を働けばこうなるのか、きちんとごせつめーねがいたいしょぞんですよっ!」
「は?」
「第七回兄妹喧嘩すっとばして戦争ですか! ならばやってやります! 私の返り血を浴びずに済むと思うな!」
「色々と落ち着いてください。エレノアがどうしたんですか」
「家出しました!」
「はい?」
「い・え・で! しましたって言ってんですよ!」
ぽかんと呆けるルイだった。家出。スティラス家には無縁な言葉。魔法を扱う時にしばしば用いる古代語よりも、意味がわからなかった。
ルイは突きつけられた単語をじわじわ理解しながら、妹の背を押してリビングに移動する。
いつも出てくるお茶がない。なるほど、今この家にエレノアがいないのは事実らしい。
椅子に座り、ルミーナに詳細を問う。
見せられたのは粗末な紙片のみだった。
「学校から帰ってきたら、これがあったと。他には?」
「何もないです。ご飯はおいしそうです」
「手がかりなしですか。ちなみに献立は?」
「アジの煮付けとほうれん草の胡麻和えとお味噌汁です」
チェックは抜かりないらしい。
ルイは紙片を見つめながら、疲れたように背もたれに寄りかかる。
兄が何かを考えている。その時間を、ルミーナは黙って待っていた。兄が何かしたに決まっているけれど、まくし立てても仕方がなかった。
ややあってルイが、
「行き先を書かずに出て行くなんて、それほど子供ではないと思っていたんですけどね」
「心配するなって書かれても、ですよね。時間も書いてないんじゃ……」
「時間が書かれていても、遠くに行っていたら予定通りには帰ってこられないでしょうね」
「え?」
ルイは、小首を傾げたルミーナに答える代わりに窓を見る。釣られて外を見遣ったルミーナは「あ、だめですね」と小さく呟いた。
雨が降っていた。大粒の雨がぽつ、ぽつ、と窓ガラスを打ち付けている。まだ降り始めだ。少し時間が経てば、まだ激しくなるだろう。
ルミーナが学校帰りに見上げた時よりも濃い、灰色の空。街灯は常よりも早く点いていた。
「風も強くなるでしょう。ああいった羽を持つものは、雨の日には飛びません」
妖精は雨の匂いを感じると、屋根を探して隠れてしまうのだとエレノアから聞いたことがある。小さな虫は低空飛行である程度は飛べても、それなりの大きさがある妖精が無理をして飛べば、繊細な羽が雨粒に傷ついてしまうからだ。
兄妹が眉根を寄せて、外を眺める。
低い雷鳴を合図に、ルミーナははっと『嫌なこと』を思い出した。
「お兄ちゃん、まさかあの薬の話とか、したんじゃないですよね?」
あの薬。
ルイは表情を変えずに、「まだですよ」と。
「けれどもう、話しておくべきでしょうね」
兄の言葉に、ルミーナはスカートを固く握った。
スティラス家の名誉――という名の罪を、打ちあけるのが怖い。妖精に話せば嫌われてしまうかもしれない。いや絶対に嫌われる。
消沈する妹に何も言わず、ルイは席を立ってリビングを出ていこうとしていた。
ルミーナが静かに口を開く。
「エレノアはお腹を空かせてます。早く見つけてあげてくださいね」
「え……」
「さっきから、そんな感じがね、するんですっ」
そのまま沈黙した妹を置いて、ルイは冷えた廊下に出た。
玄関の魔法陣に乗ると、それはすぐに青く発光する。
――まあ、彼女の居場所はすぐに感知できますけれど。
見つけたらどうしてやろうか。
ルイは手に杖を出現させた。成分としてエレノアの髪が入っている、普段遣いのお気に入りを。
*
魔力を使い果たして妖精サイズのエレノアは、森にいた。高い木の洞に潜り込んで、楓の葉と共に膝を抱えていた。ここに雀やリスが営巣していたら申し訳ないが、彼らは大部分が話のわかる動物だ。見つかったとしても、追い出されることはないだろう。
そして妖精は寒さをあまり感じない。たとえ今のように、ワンピースがずぶ濡れになっていても。
濡れた羽は動かせば切れてしまうから乾くのを待つことにして、深刻なのは空腹だ。
「……おなかすいた、なあ」
久々に口にした植物は、不味かった。
街が近い森に、良質な魔力はない。それでもと覚悟をしていたのに、吐き気を催すほどだとは思わなかった。
以前にもこんな飢餓感を味わったことがある。ルイに捕獲されたばかりの頃に意地を張って、自分の餌を教えなかったのだ。
エレノアは背を丸めたまま、横にこてりと倒れる。洞の丸い入口を見た。雨が降っている。ごうごうと唸るような音で、風も激しさを増してきた。
――もう寝ちゃおうかな。
空腹で苦しむくらいなら寝たほうがいい。そう思って、彼女は目を閉じた。
そして口を開く。
――『 』『 』『 』
人間には伝わらない、不思議な単語の連なり。これが妖精の歌だ。
魔法に使う古代語とは違ったもの。原理はエレノアも知らないけれど、妖精にも人間にも安眠効果が期待できる。
そうしてささやかに歌いながら眠りにつこうとしている中、
「エレノア」
別の声がした。
「そこにいるのでしょう。出てきなさい」
命令形だ。
一度目は空耳ではと疑ったエレノアも、のそりと動き出す。吹き荒れる雨風に躊躇しながら、洞から顔を出した。
木の下にルイがいた。ローブを着たままだった。よく見れば雨粒が彼を避けている。
二人は成人男性の身長ほどの距離があったけれど、ルイは目を細めながら、たしかにエレノアの姿を捉えている。
「降りてください」
「だめ。飛べない」
「では落ちてください。羽は体に沿うようにして、下に落ちればいい。受け止めてあげますから」
エレノアはふらりと立ち上がると、言われたように羽を体に巻き付かせた。
苦悩の原因であるルイの元に行くことに躊躇しないわけではないが、その思考も霞んでいる。貧血で倒れそうな症状。確実に魔力不足だ。
頭から落ちる。
温かい風がエレノアの体を柔らかく包んで、ルイの手に運んだ。
「勝手に外へ出たりして。僕も怒りますよ? 何をしていたんですか」
「ごはん」
「ごはん?」
ちょこりと座り込むエレノアの手には、楓の葉があった。端が僅かに欠けている。
「僕の血以外を食べようとしたんですか」
「……おなか、すいてた」
「不味かったでしょう」
「うん」
力なく頷いて項垂れると、ルイは厳しい眼差しで見てくる。
「意地を張っていても仕方ないでしょう。どうしてそこまで我慢するのですか」
「……だって……」
「とにかく移動しますよ。向こうに小屋を見つけました」
彼が足早に歩き出して、数分で小屋に到着した。
ぼんやりする彼女の前に、彼の指が突き出される。
「食べてください」
噛み切った指の腹だ。美味しそうな血が滲む。
もう堪らなかった。
彼女は彼の指を両手で持って、玉になる血液を舐めた。ちろり、ごくん。血を飲み込むと途端に人間サイズになって、いつものように夢中で啜っていた。
けれど、
ぱちん。
急に離された。
音がするほどの勢いで振り払われて、エレノアは呆けながら、行き場のなくなった両手を下ろす。
いつもの『食事』の半分も食べていない。どうしてと声に出しそうになるけれど、求めているものがものだ。とても言及できなかった。
しゅんと落ち込んでルイを窺うように見上げる。
と、彼は真っ赤な顔をしていた。
目が合えば、ぱっとあらぬ方向に顔を背ける。
「どうしたの?」
「………………………………服が……」
「え、……あれ? ……えあぁああっ」
人間サイズになってから、ようやく気づいた。
白いワンピースが雨に濡れ透けていた。床にひらりと落ちた楓の葉では隠せない、衣服を押し上げる胸や、すらりとした下肢。それらにまとわりついた服は体の線を強調して、肌の色を庇わない。
身を庇いながら「見ないで」と俯いて、すぐ。
頭からばさりと、彼のローブを乗せられる。
「着ていてください」
「濡れるよ?」
「自分の身が大事なら何も言わず着てくださいお願いします」
「……うん」
そして彼女の周囲に再び風が纏わりつくと、服の水分が抜けていく。
彼が魔法だか魔術だかで、水分を取り去ってくれたらしい。
「ありがとう……」
礼儀としてお礼を口にしながら、エレノアは顔を不自然に逸らしているルイを見た。
居た堪れない気持ちになった。
ここから逃げ出したい。
でもそれは叶わない。
でも、やっぱり此処にはいたくない。
自分の身がどうしようもなく女なのだということに気づいた。そしてルイが、もう気軽に抱きつけない、男という存在なのだと。
彼を初めて怖いと思った夜とはまた違う、胸をずくずくと震わせる、恐怖のような熱があった。
かけられたローブを胸元で押さえるように握り、彼に背を向けた。
双方が喋らないから、風と雨が小屋を打つ音しかしない。時々ぎしりと鳴るけれど、倒壊の心配はしていなかった。
いつのまにか夜になって、小屋の中心の炉に火がつけられていた。
火は小屋を橙色に照らす。ゆらり、ゆらり。小屋の隅に濃い陰を作り出す。
炉の傍で火を見守るルイと、炉に背を向けて視線を落としているエレノアがいた。しんとしていて、お互いの顔も見なかった。
意を決した彼女が、
「あ、あのね、森の中を散歩しててね、いろいろ考えたよ。付き合うとか、そういうことするの。たぶんね、ルイとなら嫌じゃないんだ」
「……はい」
火を挟んだ向こうにいるルイが、ぼんやりと返事をする。
「でももしかしたら、ルイは違うかもしれない」
「はい?」
「だって勇者が来るかもしれない世界だし。ルイがその人を選んだら、私はきっと寂しくて魔力も喉に通らないよ」
「それは君も同じでしょう。君は勇者を選ぶかもしれない……、いや、主人公に選ばれてしまうかもしれない」
「私の『エレノア』らしい要素なんて、姿形と妖精であること、人間苦手ってことくらいしかないじゃん。『エレノア』の、魔王への恨みとか、そういう強いキーポイントが無くちゃ、攻略される隙なんてないわけで」
「それなら僕だって」
「違うよ。ぜんぜん」
はっきりとした声色に驚いたルイが、エレノアの背中を見る。
彼女の表情はわからなかった。
「たぶんだけどさ、『私』とは、根本的に違うでしょ?」
――ああ。なんて、嘆息する。
ルイは彼女の言葉をよく耳に染み込ませるように、遮らないように、返答を選んだ。
「知っていましたか」
「なんとなく。ルイは、私が知ってる『ルイ・スティラス』、ほとんどそのまんまだから」
現エレノアの魂は、純粋な現代日本人だった。
ルイの魂は元からルイで、それがどうして現代日本に寄り道することになったのかはわからないけれど、結果としてこの世界にルイとして生まれ直したことになるのだろう。
両者は確実に『同じ』ではない。
「たぶんルイは、私よりもずっとシナリオに影響されやすいと思う」
「だから僕が勇者に靡くと?」
「可能性はあるってだけだけど」
「だから僕を受け入れない?」
「…………。」
しばらく、小屋の中に沈黙が落ちる。
「納得できません」
「ルイ、」
「我慢してきましたよ。街中でも来客の時も、幼い僕はずっと君に庇われて、歯がゆい思いをするばかりで、やっと想いが同じになったのに、まさか君に否定されるとはね」
「否定してないよ。ただちょっと先のことを考えたら」
「今の僕の気持ちはどうなるのですか」
苦しげに、責めるように問われると、エレノアは言葉を発せなくなる。
彼がエレノアをどんなに欲しても、未来の障害は看過できない。
ルイは攻略キャラの中でも人気があった。主人公に見初められ、求められたなら、ルイは攻略されてしまうかもしれない。この世界はRPGで、恋愛ゲームでもある。ルイと主人公が添い遂げるシナリオが、システムとして存在している。
――それに。
エレノアは思い出す。
彼に惹かれるのは主人公だけではない。
――あの騎士団長さんだって――、
「……クレア、さんの、こととか」
拗ねながら言い出せば、予想外に子供っぽい響きがあった。自分でも「しまった」と思ったけれど、声に出してしまったら取り返しがつかなかった。
ルイは「クレア?」と怪訝そうにしている。突然の人物名に戸惑う彼がやがて「もしかして」と、とんでもない答えを、
「嫉妬ですか?」
言った。
恥ずかしい事実を指摘されてしまったエレノアの肩が、びくりと震えた。
「そんっ……な、ちがう……」
焦り。
「ただ、ちょっとだけ、もやもや、した、だけ」
本音。
「私は、人間じゃないから。ルイが一緒になるならきっと、人間の女性がいいんだろうなって。それだけだから、……ルイ?」
何も言わないルイに、何があったのだろうと不思議になった。おそるおそる振り返ろうとしたけれど、背後から抱き締められて硬直した。
いつのまにか近くまで来ていた彼の、しっかりとした体の感触に心臓が跳ねる。
近距離にも、触られることにも、慣れていないのに。それなのにこうして触れてくるから、エレノアには堪らなかった。
「君は何なのですか。僕の理性をどうしたいのですか。試しているつもりですか? 無駄ですよ。君になら簡単に落ちてしまいますから、結果は分りきっています」
「……え」
緊張しているエレノアに配慮しているつもりなのか、腕の力は強くない。けれどエレノアにとっては、密着していることが既に窒息ものの緊急事態だ。
わざと耳元で「エレノア」と囁かれて、吐息がかかる。
――これはもしかして……!
エレノアが知っている、ルイ・スティラスのルートで見られるもの。何かの選択肢で彼のスイッチ――理性的な何か――が切りかえられて、黒い裏の顔が見える時とは違う、恋愛ゲーム特有の『そういうシーン』に突入した時の雰囲気だった。
魔術師は、主人公を丁寧な口調で虐めていく。ヘッドホンを外してしまいたくなるような色気が、腰あたりをぞわりと浮かせるのだ。
びくびくと怯えて体を縮こまらせる彼女に、くつりと低く笑う声がする。
「ふゃ……っ!?」
耳朶を食まれると、艶かしい声を上げた。そんな媚びるようなものが己のものだと信じたくなくて、彼女は口を覆って隠した。今度は爽やかにくすりと笑われた。
「いい声ですね。驚きましたよ」
男性の低い声だ。声変わりが済んでいることは知っていたのに。
どうして彼の声が、ここまで甘い響きを持って耳を擽ってくるのだろうか。
ローブを押さえていた手を、ぎゅっと握り締める。それが皺になろうと、今のエレノアには関係がない。
「エレノア」名を呼ばれて、怖々と顔を上げた。
後ろからこちらを見下ろしてくる瞳があった。黄金色のそれに吸い込まれるように、体が動かなくなった。石化でもされているのか。わからなかった。声が出ないまま、徐々に迫る顔の距離に、胸が高鳴っていく。彼の瞳に自分が映る。
一瞬、唇同士が触れた。
ふに、と柔らかい感触に驚愕して我に返ったエレノアが、涙目でふるふると首を振った。
「ルイ、こんな……だめだよ」
「だめ? ご自分がどんな顔をしているのか、わかりませんか?」
言われなくてもわかっていた。理性が望んでいなくても、きっと全身で彼を誘ってしまっているのだと。触れている事実に嬉しさを感じて、恥ずかしいけれどここで放してほしくもない。痛いほど脈打つ心臓が、ばちりと破れそう。服越しに伝わる彼の体温が気持ち良いと思ってしまった。
「だめ」と蚊が鳴くように囁いたところで、煽るだけだった。弱々しい拒絶は「可愛い」と笑われて封じられた。
震える身をやんわり押さえ込んで、ルイはまたこちらを苛もうとしてくる。
「ね、ねぇ、待って、やめて」
「黙って」
また近づいた。
背後からなら唇の接触は不安定で、すぐに逃げられる。けれど回された腕は彼の都合の良いように、エレノアの体勢を徐々に変えていったようだった。
横向きにされながら、まだルイの腕から抜け出せない。
背を片腕で支えられ、覆い被さるように襲われると、どうにもできなかった。
「ん……っ」
奥に縮こまっていた舌は、彼のそれに難なく絡められた。くちゅ、と粘着質な水音とはしたない声だけが小屋に響いて、恥ずかしくて死んでしまいそうだ。
エレノアはこんな感触を知らない。
何かに縋ろうと伸ばした手は結局彼の服しか見つけられなくて、必死にしがみついた。
彼女を落ち着かせるように、彼の左手がずっと彼女の頭を撫でていた。
「本当は、前からわかっていたでしょう? 母親はね、息子にそんなに可愛らしい顔をしないものですよ。笑いかけたり髪を触れば恥ずかしがるとか、そんなこともしません」
息を乱したエレノアは、そんな言葉をぼんやりと聞いていた。何も見ていなかった。
ただただ甘く唆してくる男の声は、耳から脳に伝わり、染み渡ってくる。
「認めてしまえば楽になりますよ」
「……え……」
「母親代わり、なんて忘れてください。君がどう悩んだところで意味はありません。この口付けが背徳と感じても、すべて僕一人のせいにして構いませんから」
――本当に?
彼女の潤んだ瞳は徐々に光を取り戻す。
ルイの答えは「ええ、勿論」と、肯定でしかあり得なかった。雌妖精が敗北を認めた瞬間だった。
「さて、ではそろそろ帰りましょう。ルミーナも待っています」
「え? でもまだ雨降ってるよ」
「こんな時の転移魔法ですから」
「…………。」
「…………。」
「騙したね?」
「気づかない方がどうかしていると思いますけど」
俺たちの戦いはこれからだ!




