遠出と宮廷魔術師
魔力の気配を察知して、すぐにお湯を沸かす。家政婦としての習慣だけれど、今はこの時が恨めしくもあった。
彼に会いたくない。話したくない。
関係も雰囲気も、以前とは違うからだ。
エレノアが重い足取りで玄関に向かうと、転移してきたルイは「ただいま帰りました」といつものように声をかけてくる。彼女があまり嬉しそうでないことも、目を合わせようとしないことも承知で、こうして声をかけてくる。
「先にシャワーと、どっちがいい?」
「シャワーでお願いします。……一緒に入りますか?」
「変なこと言わないのっ」
妖精の肌には自浄作用がある。よほど酷い汚れでなければ、水を浴びる必要はない。
ふいっと顔を背ければ、楽しげな声と共に、大きな手が頭に乗ってくる。
「嘘ですよ」
「……もう」
冗談だろうけれど、気にせずにはいられない。それをも知っていてこういう悪趣味なことを言うから、エレノアは彼と関わりたくなかった。
エレノアに向ける感情を隠そうともしなくなって、チョコレートのようにどろどろと甘ったるい目を向けてくる。そして帰宅するたびに、頬や頭に一度は触れてくる。
そうされると、どきどきと不可解な動悸がある。唯一の大人としてスティラス兄妹を見守ってきたのに、この体たらくだ。翻弄されて、反応を喜ばれて。
タイミング悪く、空腹感があった。
人間の食事では摂取できない魔力が必要だった。けれど今のルイにそれをねだると、自分の精神が耐えられなくなりそうだ。
食事のたびに彼に身を預けてきたけれど、それもきっと変な愛情が存在していた。それを考えれば、空腹の方がマシだと思えた。
しばらくエレノアの髪を撫でていた彼は、「そういえば」と何かを思い出したようだ。
「大体ひと月後なんですけど、お弁当を一つ多く作ってくれますか」
「もうひとつ? 同じやつ?」
「はい。クレアを覚えていますか?」
「あの、騎士の偉い人」
「ええ、その人です。エレノアのお弁当に興味があるみたいなんですよ。合宿の昼食はお昼持参らしいですから、迷惑じゃないならと」
「……いいよ。食べられないものとかってあるのかな」
「聞いてません。なんでもいいと思いますけど、僕はクリームコロッケがいいです」
「わかった。作る。……じゃ、洗濯物残ってるから」
くり、と身を翻したエレノアは、足早に去っていく。
洗濯は、本当は少し前に終わっていた。
その日の夕食時も、エレノアの態度は固かった。テーブルに配膳していくエレノアをルイが呼び止めると、彼女はがっちりと固まってしまった。
食後のミルクティーを飲み下し、空になったカップをエレノアに渡しながら、ルミーナは何かを考えていた。
瞳は兄を捉え、次にエレノアを見てと、二人をつぶさに観察している。
エレノアは相変わらずルイを見ない。
ルイはそんなエレノアを面白そうに見て放置している。
――エレノアがかわいいのはわかりますけれども!
これでは進めない。
難しい顔をしたルミーナが、厳かに口を開いた。
「ピクニックをしましょう」
「はい?」
「え……?」
「ピクニックをしましょう」
同じことを言った。
ルミーナは三人の中でも活動的な性格だけれど、唐突に何かを願うことは少ない。
ルイがどうにかして時間を作った結果、二週間後の午後にピクニック決行ということになった。
*
その薄暗い湖は、国で二番目に美しいと評判だった。
周囲を全て高く乱立する樹木に囲まれているせいで、湖の左右に回り込む隙はない。
『ノーシャント湖畔』である。
この湖は広くはないが、深い。湖底まで見えるほど澄んだ水に気を取られながら中央に進めば、いつのまにかその湖水は底なしの青色へと色を変えていく。
枝のトンネルのような均された道を進んで辿りつく、木々に秘された地だ。
太い木の幹の横から、ひょこりとエレノアの顔が覗いた。
「……んー」
そして残念そうに眉を下げた。
足元に横たわる倒木を「よっ」と飛び越えて、湖畔に足を踏み入れる。
ゲーム内では物語後半で発見される安全スポット(魔物が一切出没しない)だ。ここには多数の妖精が飛び回っていて、話を聞けた。またはランダムにアイテムを貰える。
今は妖精など一匹も見当たらないが、いずれはそうなるのだろうか。
彼女に続いて、お重を提げたルイと、軽い手荷物のみのルミーナがすたこら侵入する。
「久しぶりですね!」
「あ、あんまり走っちゃだめだよ。ゆっくりね」
「えー? 大丈夫ですよー!」
湖に小走りで駆け寄っていくルミーナは、元の病弱さなど感じさせない。
エレノアは心配そうに見守っていたが、ひとまず荷物をどうにかしようと振り返った。そこには、敷物もお茶セットも完璧に配置して既に寛いでいるルイがいた。
「……早くない?」
「そうですか?」
敷物といっても、要らない布を継ぎ接ぎして作った一枚布だ。
前世のレジャーシートのような硬さはなく、悪い意味で彩り豊かな逸品である。
そこに片膝を立てて胡座をかく宮廷魔術師筆頭。どうにも似合わない。
「何をそんなに微妙そうな顔をしているんですか」
「いやあ……似合わないなって。王子様っぽいのに」
「外見がどうあれ、庶民ですよ」
殿下にも失礼ですよと小言を言われて、この国に王子がいることを思い出した。たしか第一王子は何とかという名前で、まだまだ頑是無い年頃のはずだ。
エレノアは人間の国事に興味がない。
エレノアが家政婦と名乗り、人間に扮するようになったばかりの頃。彼女がまず行ったのは、ルミーナを外に出すことだった。勿論ルミーナの容態をみて、調べ、ルイに許可を取った上でのことだ。
まだ幼い二人は、抱き上げて飛んでいけるほどの体重だった。
エレノアは、羽を広げても人目に付きにくい新月の夜を狙ってルミーナを連れ出すようになった。空中散歩や妖精の歌を駆使して子守をし、その延長として、この湖畔にまで来るようになった。
ルイが忙しくなる前までは、よく訪れていた地だ。
水面を覗いたり、手を入れて水をすくってみたりと、ルミーナは一人で忙しそうだ。
大腿でスカートを縛って固定し足を晒しているのは、此処にいるのが身内のみでなければ完全にアウトだ。
浅瀬に立って水をすくい、ぱしゃりと放り投げる。それにどんな楽しみがあるのかは知れないが、元気なのは良いことだ。
「わー、これっ、これっ蟹! 蟹ですよう! おいしそう!」
「ここにいる蟹は食べられませんよ」
「ここの蟹は不味いってさー!」
「さっ、魚! すごいっ蛇みたいな! 長い! でかい! おいしそうです!」
「それは蛇です」
「それも美味しくないってさー!」
ルミーナの言葉に素っ気なく返していくルイの台詞を、エレノアが声を張って伝えていく。
遠くではしゃぐルミーナと、はらはらと見守るエレノア。それを後ろで見守るルイ。ここが家だろうと出先だろうと、いつもと変わりないスティラス家だった。
ぱちゃ、ぱしゃり……、ぱしゃん。
ルミーナが放った水が、木漏れ日を反射する。括っていない金髪を艶やかに靡かせて、跳ねる水滴は彼女を清らかに輝かせた。こうしていると、過去の弱々しい姿を忘れてしまいそうにもなった。
「ねえ、蛇って水中にいるもんだっけ」
「いますよ普通に」
「そっか。怖いね。毒ないの?」
「ありませんよ。もっと瘴気が深いところならまだしも、ここは安全です」
ルミーナだけに意識を向けているエレノアは、ルイを避けることを忘れているらしい。保護者二人は平坦な会話を心静かに繰り返した。
ルイが「火をつけますか?」と聞けば、エレノアはやはり声だけで応答する。
「そうだね。そろそろお願い」
「はい」
「私はちょっと行ってくるね」
エレノアがやかんを持って湖に向かっている間に、ルイは火を起こす。
荷物の中から小瓶を取り出した。中身はとろみのある透明な液体だ。蓋を抜き、陶器の皿にあける。そこに少し視線を合わせれば、小さく青い炎がうっすらと燃え上がり、揺らめいた。
そこに三脚を被せて準備完了である。
「もー……相変わらず早いなあ」
「お兄ちゃんですからねっ」
水を汲むついでにルミーナを回収してきたエレノアが、三脚にやかんを乗せた。
そして沸騰するまで待っているだけなのだが、これが時間のかかる作業である。ルミーナは脱いでいた靴を片手にぶらつかせながら、「もっと遊びたいです」と頬を膨らませた。
「だめだよ。すぐに疲れちゃうんだから」
「私、昔ほど弱っちくないですもん」
「帰りのことも考えてね? 昔みたいに背負っていくのはさすがにできないんだから」
「……むー」
エレノアがルミーナにタオルを差し出すと、渋々受け取られる。
「この茶葉の香り……これはダージリンですねっ」
「残念。アールグレイだよ」
「……いじわるですー」
ポットに茶葉を移していたエレノアは、敷物にお行儀よく座ったルミーナにカップを渡す。
「元気なのはいいことだけど、眠くなっても飛んであげないからね」
その忠告は十分後に裏切られることになる。
お茶を一杯飲み終えたルミーナは、目を眠たげに擦り始めていた。
「眠い?」
「んー……まだ帰りませんよう」
「何も言ってないよ。……っと、とととっ、あぶなっ」
ソーサーを持ったままのエレノアに、ルミーナが突如飛びついた。
エレノアは「いきなり何するの」と声を荒らげそうになったが、腰にしがみついてくる娘の様子に呆気にとられた。腹あたりに擦り寄る様は、大きな猫のようだ。無邪気ににへらと顔を緩ませられて、注意する気も起きない。
「あのねー、こういう風に、外に出してくれたの、……エレノアが初めてなんですよ?」
「そうなの?」
「そうなんですよう。お兄ちゃん、ちょっと過保護ですからー」
エレノアはうまく膝を崩して、ルミーナの枕に徹する。
手にしていたカップを置いた。昔にそうしていたように、疲労で倒れた娘の頭を撫で付ける。
こうして休ませてやれば、ルミーナは心地の良い眠気に身を任せていくのだ。寝るなと言ったのはエレノアだけれど、情に流されやすいところもエレノアだ。
ルミーナはぼやぼやとした口調で、
「妖精は、人とは結婚できないんですか?」
「いきなりだね」
「エレノア以外を……おねえちゃんって呼びたくないですもん」
溜め込んでいた想いだろう。
眠気で意識が朦朧としていて、思考が鈍っているらしい。
エレノアが隣を見ると、そこにはきらきらと眩しい笑みの宮廷魔術師筆頭がいた。
「人と結婚するには、寿命が違いすぎちゃうかなー、なんて」
ぎこちなく視線を逸らす。
「エレノアが嫌がっても、お兄ちゃんは止められないと思いますよう。もう既に用意していてもおかしくないです」
「何を?」
「時計」
「……っ」
エレノアは、またもやルイを見る。必死の瞳で訴えても、相手は胡散臭く笑みを作るだけだ。
――まさかそんなことしてないよね!?
――さあ、どうでしょうね?
無言の応酬だった。可愛らしく首を傾げられて、エレノアはさらに顔色を悪くする。
この世界では、伴侶となる人に時計を渡す。
「私の残りの時間をあなたに捧げる」とのことだ。
ゲームでは、キャラクターのルートに入った証拠にもなる。渡される時計の形はキャラによって違っていて、正統派メインヒーローの騎士からは懐中時計、武道家で明るいおとぼけキャラからは柱時計、お兄さんキャラの治癒師からは小型の水時計が貰えた。
ルイ・スティラスからは砂時計が貰えることになっている。
時計を渡されて、それを受け取ったが最後。恋人期間をすっとばしての婚約者となる。
亡くなった後も、小型のものは組んだ両手で包むように、大きいものは解体するか燃やすかして、柩にまで入れるのが慣わしだ。
ルイに何かを言わなければならない。だが突っ込んでいくのは怖い。
エレノアが言葉を探していると、下からすうすうと穏やかな寝息が聞こえてきた。
見れば、ルミーナはもう夢の世界だ。あれだけ言ったのにと呆れてみるが、エレノアは何も言わずにまたルミーナの髪をひと撫でした。
「スティラス兄妹は私を囲い込む計画でも練ってるの?」
「いいえ。自己判断です」
「そう? ……それにしても、いきなりどうしたんだろうね。ピクニックしたいなんて」
「この子なりに気を揉んでいたのでしょう。この子にしてみれば、僕は兄であり父親です。君は家政婦であり姉であり……母親のようなもの。両親が疎遠でいることは教育上にもよろしくありません」
「母親」のところで言い淀んだが、ルイもそこは認めているらしい。台詞に『あくまでルミーナにとって、ですよ』と含めるのは外さなかった。
「ですから、君もそろそろ僕と――」
「ルイ」
「……はい?」
エレノアが、人の言葉をわざわざ遮ることはめったにない。
「なんですか」と問う瞳をじっと見つめて、エレノアが口の端を歪めた。
「『みんな、怖かった』」
「……は?」
「『お金ばっかりの大人で、僕の力を怖がるし、馬鹿だし』」
「あの」
「『性格悪いし、僕が非の打ち所もなく可愛いからって、』」
「やめてください!」
かあああああ、と真っ赤になるのは、珍しくルイの方だった。
口元を手で覆い、エレノアを恨めしげに睨みつける。
「何の嫌がらせですか!」
「可愛いかったなって。大人をからかったらこういうことになるんだからね」
「性格悪いです。あの時のことなんて覚えていなくてもよかったのに、なんで一言一句……!」
エレノアに縋り付いたことは、彼の中では抹消したい過去らしい。
「覚えてるよ。可愛いルイ君のことだから」
筆頭になってから取り乱すことのなかった彼の赤面に感動しつつ、エレノアはそれでも優しげに、微笑ましく目を細めていた。
我が子に向けるような慈しみ。ルイはそれを喜ばないだろうけれど。
「今でも、可愛いと思ってるんだけどねえ。嬉しくない?」
「嫌われるよりは良いとは思いますけど、複雑ですね」
ぷい、と拗ねて湖を見つめだす。そんなルイにかける言葉は、エレノアには見つけられなかった。
彼は横顔でさえも美しい。樹木で深緑に染まった背景は、白皙の少年を浮き上がらせる。
すっきり通った鼻筋に、薄い唇。幼い天使の成れの果て。
過去の面影は残しながらも、エレノアが抱き締めた子供とはかけ離れてしまった。
――私は変わらないのに。
「ちっちゃい時から知ってるんだけどなあ」
――貴方たちは、私を置いていなくなる。
「だからのめり込みたくなかったのにな」
エレノアはこみ上げる何かをごまかして、ルミーナを更に甘やかそうと手を動かす。
昔もこうして金髪を撫でながら、ベッドに寝かしつけた。まだ幼かったルミーナを。思い出してしまうと苦しくて、将来のことを考えてしまいそうで、手を離した。行き場のないそれを敷物に下ろして、ぼうっと俯く。
すると、大きな手が被さる。
びくりと震えたエレノアの手を逃がさないように。
「ルイ、ちょっと」
「いいじゃないですか、手を繋ぐくらい。昔はよくやっていたでしょう」
「そ、だけど……」
ルイは変わらず湖を見て、表情は和らいでいた。
エレノアは何か言いたげにしていたが、再び視線を落としていく。
昔はやっていたこと。
けれども今は、違う感情を持つもの。
エレノアがゆるりと手を握ると、乗せられた手も応えるように力を込める。
迫られた夜とは違う優しい温度に安心するけれど、もどかしいとも思う。恥ずかしくて。熱くて。離してほしくなくて。
顔を上げられなかった。




