悪夢と宮廷魔術師
悪夢で立ち竦むルイに、触れるものがあった。しなやかで小さな手が額に乗せられる。
そして耳に届いたのは、ささやかな溜息だった。
嘘吐きな僕は、君に呆れられて捨てられるのか。
――エレノア!
彼は自らの手を伸ばすと、彼女の服を掴んでいた。悪夢が終わった。
けれどここが現実だとは思えない。
ずくずくと痛む頭は限界で、意識さえ朧気だ。彼女が軽蔑の目で離れゆく夢の後で、こんなに良い『夢』を与えてくれた神に、ルイはらしくもなく感謝した。
それなら、いいかと思った。
どうせこれは夢だから、彼女をどうしたって構わないだろう。
引いてみると、彼女はあっさり倒れ込んできてくれる。少し意地悪を言えば、可愛らしい抵抗でルイの欲を煽った。服の上から羽を撫でれば、身を震わせて必死に耐えようとしてくれる。
彼女を前に、やはりこれは夢だと確信した。
この雌妖精を蹂躙したいし、慰めてもやりたい。けれど涙が伝う顎に手を添えたところで、視界がくらりと揺らいだ。それを目覚めの時間なのだと思ったルイは、悔みながらも手を離した。
目を覚ませばいつもの生活がある。彼女が自分を「息子」と、「少年」と呼ぶ、不本意で居心地の良い日常が。
「そう思っていたのですけどね」
ルイに訪れた朝は、いつもとは違っていた。
エレノアが彼を避けるのだ。
彼女は朝食を食べなくなり、「いってらっしゃい」の声も弱々しい。
元々妖精にとって、人間の食べ物は嗜好品でしかない。本人が要らないというなら問題はないが、あからさまにされると気にするなと言う方が無理だ。
それに毎朝エレノアと朝食を摂ることを楽しみとしてきたルミーナが、非常に残念がっている。
そうなってから、今日で一週間になった。
――このままでも、いけませんよね。
ルイは、研究所の廊下を進みながら黙々と考えていた。
「ルイ様。おはようございます」
「おはようございます。様子はどうですか?」
部下の一人に挨拶を返す。行き先が同じらしく、歩きながら報告を聞いた。
「やはり魔物は毒の耐性がありますね。濃度を上げ続けていますが、そろそろ毒気が可視化します」
「なるほど。室内にいる魔物、全種がまだ倒れないと?」
「はい」
「ちょっと見せていただけませんか」
「どうぞ」
男が見ていた書類を一枚一枚と捲り、流し読んでから返す。
「この実験はこれまでとしましょう。あまりあてにはしていませんでしたし」
もう皆さん全員が結論を出しているでしょう?
そう言いたげに口端を上げるルイに、男は苦く笑った。
「では改めて、属性魔法にいきましょう」
「しかしもう被検体が少なくて」
「何が足りないのですか」
「火と水以外が」
「……そうですか」
ルイは少し考えて、手に持っていた紙の束をちらりと見て、また考える。
「これから第二騎士団団長に用がありますが、その後で少し外に出ます。君はこれから急ぎの用事などありますか?」
「急ぎというほどのものは特にありません」
「では地下の大広間に、いつものように用意しておいてくれませんか。二十ほど。それ以上あったほうが安心かもしれませんけど」
「まさか筆頭が?」
「いけませんか?」
「いいや、そんなこたーありませんけど、俺等にやらせててもいいんすよ?」
話しているうちに砕けた口調になってきた男だが、ルイは気にしない。そういう上下関係の社交辞令や決まりごとなどは、騎士団ほど厳しくはない。
「最近は色々と考えることがありまして……なんというか、一人で外の空気を吸いたいなと」
「ふうん、ルイ様にも人間らしいところが」
「どういう意味でしょう?」
「なんでもねっす。お一人で?」
「ええ、お一人で」
「了解しゃーした」
それから、魔術師諸君が冷や汗をかくほどの数の魔物を乱獲してきた筆頭は、涼しい顔で事務作業に戻っていった。
そしていつものように帰宅した。エレノアはやはりおかしかった。
「ただいま帰りました」
「おかえりなさい」
目線が合わない。わざと見つめてみても、彼女は頑なにルイを見ようとしない。ローブを手渡すと、いそいそと奥へ引っ込んだ。お茶を出してすぐに退散していく。
これは望まない状況だ。
それでも変わらないのはお茶の味だった。リビングでカップを見つめながら茫洋としているルイの耳に、小さな声が届く。
「いた……っ」
キッチンからだ。
足を運んでいけば、彼女の人差し指から血が滴っていた。まな板の上にはブロッコリーと包丁が乗っている。彼女が料理中に怪我をするところなど、一度も見たことがない。驚いたルイが声をかければ、エレノアは肩をびくつかせながら振り向いた。
「な、なんでもないよ?」
「なんでもなくないでしょう。見せなさい」
彼が一歩近づけば、エレノアは一歩下がる。ルイを怖がっている。
目線は頼りなく下がりっぱなしで、はにかむこともない。
手を伸ばすと今にも泣きそうな顔をされては、近づけなかった。
食事はルミーナと二人きりだ。メニューは魚のソテーと蒸した野菜、それにスープにパンだった。
兄妹が無言で食事を進めていたが、妹が刺々しく兄を睨む。
兄も意を汲みとって、スプーンを置いた。
「お兄ちゃん、なにしたんですか。明らかにお兄ちゃんだけを避けてますよね」
何をしたか。心当たりは一つしかない。
ただあれは、さすがに妹に話せる暴挙ではない。
「……ルミーナ。以前から聞こうと思っていたのですけど、姉が欲しいですか?」
「とっても。たとえば妖精で、銀髪で、お料理上手で、名前が四文字だったりすると理想ですっ」
「奇遇ですね。僕もそういう方を妻に迎えようかと常々考えていましたよ」
あはは、うふふ、と麗しい兄妹が穏やかに微笑み合うリビングの上で、自室にいたエレノアは急な悪寒に戦慄していた。
どうしてこうなったのだか、エレノアにはとんと理解できない。
ローブを受け取った手を握られて、体は壁に押し付けられた。
ルイを避ける生活は既に十二日目になっていて、そろそろ彼が何らかの行動を起こすだろうと思ってはいた。けれどまさかこんなに直接的に、問い詰められるなんて。
「僕を避けていませんか」
「さっ、避けてないよ」
「目を逸らしましたね。君はわかりやすい」
にこり。微笑まれたって、それが本当の笑顔でないことくらいはわかる。
彼は怒っている。
元はといえばルイのせいなのに。
あの夜のことを、彼が覚えていないことはエレノアも承知だ。それでも、気にしないでいられる方が嘘だ。
彼女が口を噤んだままでいると、ルイに左手を取られた。袖を捲られると、そこには青黒い痣がある。骨が軋むまで握り込められた跡。
彼女ははっと息を呑む。この様子で、ルイは確信を得たようだった。
「やはりあれは夢ではありませんでしたか。避けられていたのも納得します。……僕の気持ちはご理解いただけているようで」
彼女の手を解放して、ルイはふっと自嘲した。
エレノアは往生際悪く、
「嘘、だよね? 揶揄ってる?」
「ええ嘘ですよ。揶揄ってましたよ」
ほっとして顔を上げ、
「なんて言うと思いましたか?」
一笑に伏せられた。
「君は本当に残念で、救いようのない無神経ですね」
十年ですよ。とルイが告げれば、それが何の年数かはエレノアにも解ってくる。
目は呆然と見開かれて、ルイを映す。
「じゅう、ねん」
「母親と言い張っていた君にはわからないでしょう」
「そんな、はじめっから? まだ子供で……」
「子供だから、成長するまで待っていたんでしょう。心遣いを無にしないでください」
「だって、少年はずっとなんにも、私、……私……っ、知らないしっ」
彼女は男性に免疫がない。スティラス兄妹が、エレノアに近づいてくる男を退けていた。
ルイの庇護下で、呑気にぼやぼや生活していただけだ。だからこうなって、言葉も探せない。断るとか、付き合うとか、そういった決断の前に、状況から逃げることだけを考えていた。
ルイは取り乱した彼女の髪をひと房とって口付ける。それを見せつけるように彼女を見つめると、エレノアはぴきりと固まる。これ以上ないというほど真っ赤な顔をした。
「騙すのは僕の専売らしいじゃないですか」
「あ、……ぇ……?」
「外見だけでも君より年上になってから懐柔していく予定でしたが、こうなっては仕方がない。同い年でも抵抗はなくなるでしょうし。君は何もしなくていいです。僕を受け入れてくれさえすれば、それで」
「う、受け入れてるじゃん。最初っから、一緒だし、おんなじ家にいたんだよ?」
狼狽えて何とか言い返そうとしてくる小動物を前に、肉食獣の瞳が煌めいた。
「では……」と彼女の顎を指で押さえ、背けることを許さない。
「このまま、口付けても構いませんか?」
「なっ」
彼女はたった一音、出すのが精一杯だった。
今にも触れてしまいそうな距離。男性の色気を帯びてエレノアを誘い込む目は、潤んだ深海色を捉えて離さない。
彼女の口ははくはくと金魚のように動くのに、声は出そうにない。
頭が沸騰して動かなくなりそうなエレノアは、突然降ってきたルイの笑声に思いっきりびくついた。ルイの額が肩について、密着度がすごいことになっている。彼の肩が震えているのは、ツボに入ってしまったからだろう。
「わ、笑わないでよ」
「いや、可愛いなあと思いまして。しかし、君は、……っ」
胡散臭い笑みの持ち主は、笑い上戸でもあった。
困り果てたエレノアは、結局彼の背をとんとん叩いてやりすごした。
やっと離れた彼は、先ほどまでの妖しい雰囲気など取り払った清々しい顔をしている。けれど「君だって満更ではないでしょう」などと確信的に言われては、彼女も安堵してはいられない。
「ではこれからは少年呼びを禁止します。ルイと呼んでください」
「でも」
「もしも少年と呼んだら、……君ならわかってますよね。『ルイ』がどういうお仕置きを好むのか」
――やっぱり、昔と同じじゃなくなっちゃった。
力無く頷いたエレノアは、ルイが階段を上がっていく音を聞きながら立ち尽くした。しばらく玄関から動けなかった。
頬に手を当てる。
まだ、熱い。
彼の言動は困ったものだ。自分勝手に翻弄してくる。エレノアは、そういう子に育てた覚えはさらさらなかった。
けれど何より一番困るのは、彼に触られるのは嫌いではないと訴える心だ。