困惑と宮廷魔術師
ルイは夢を見る。以前から。ずっと。
粘着質にどろどろとした、愛情と欲情に溢れる夢と。
甘さなど欠片もない、絶望色の夢と。
それは交互にやってきては、彼の精神をかき乱していった。
『やっぱりルイも人間だよね』
『僕は、ただ……』
『人間は嘘つきだって、知ってたんだけどな。ずっとこんな所にいたなんて、私何してたんだろ』
おまえを信じた自分が馬鹿だったと自嘲して、エレノアは美しい羽を広げて飛び去っていく。
『少年の魔力がなくちゃ生きられないってわけでもないし。じゃあね。おいしかったよ』
『待って、待ってください……っ』
『仲間の中から番を見つけてみるから、大丈夫だよ。心配しないでね?』
『エレノア!』
彼女はあろうことか、他の男のところに行くのだと宣言した。麗しい唇から発された汚らしい言葉を聞きたくなくて、夢の中のルイは何度も呼び止めた。拘束しようと石化魔法を唱えてみたって、どういうわけか弾かれる。エレノアはするすると優雅に飛び去り、知らない雄妖精に寄り添った。
悪夢は幻覚魔法よりも性質が悪い。
自分の意思で解くことが困難で、それを夢と自覚することすらできないこともあるからだ。
気が付けば暗い空間にいた。
ここが夢だと、さすがに解った。けれど、深々と傷を負った精神がじくじく痛む。
耳に彼女の別れの台詞がこびり付いている。羽のはためきが生み出した、ルイから離れていく時の冷たい風も。妙にリアルで、だから怖い。
妹が通う学園に講師として出向くことになるその朝は、最悪の気分だった。
だからきっと、壇上にあがるまでは言う予定などなかった、妙な話をしてしまったのだ。
*
『時に逆らい、神に刃を』
これはゲームの煽り文だ。CMの最後に黒背景で、どどんと白文字で書かれたその文章を『エレン』または『エレノア』役の声優がシリアスに読み上げる。
文の意味は、プレイすればよくわかる。
ゲーム後半で習得できる高等魔術や、裏技で入手できる最高位武具は、ルイが作ったもの。そんな事実が徐々に明かされていくからだ。与えられた力で、与えてくれた者を討つ。それは神への反逆にも似ている。
作中、廃墟グレノールの『とある宮廷魔術師の家』で手に入る『宮廷魔術師の手記』は、人間への重々しい憎悪を書き上げていた。名言はされなかったけれどルイが書いたものだ。
けれど彼が魔王になるに至った経緯は、本編では語られなかった。
「それで?」
「ルイ少年ってなんで魔王様になるのかなって」
「魔王になる気はありませんって」
「それじゃあ主人公に会えないよ」
「主人公に会いたいのは君でしょう」
「かわいいからね、主人公ちゃん。もしかしたらルイ少年ルートに入っちゃうかも」
「攻略される気もありません。物語の勇者とか、そういうものに選ばれるキャラクターは大抵決まっていますし。もう既に知っている今、何を言われても心打たれることはないかと」
「頑張り屋さんとか、優しいとか、健気とか、とっても元気とか、私はいいと思うけどな。ルミーナちゃんみたいで」
「今の僕の好みはそれなりに汚い面もあって、それなりに従順で、明るすぎず慎ましく大人しく邪魔しないでいてくれる人です」
ついでに家庭的、と付け加えられた。
エレノアはなんかちょっとおかしいところあったなと思ったけれど、「ふうん」と流した。
「危ういことがあった時に真っ先に首を突っ込んでいくような勇者は、冷静になれと言いたくもなります。というわけでエレノア」
「はい?」
「もし君が勇者と会うことになっても、近づいては危ないだけです。攻略されないように。ほいほいついて行かないように。無謀な主人公には、何があっても関わらないでください」
「結局それなの?」
「エリー」
「大丈夫大丈夫。攻略なんてされない、されない」
にんじんの皮を剥いていくエレノアの後ろで、壁に背を預けていたルイは呆れたようだった。
学園から徒歩で帰ってきた彼は、何故だかキッチンに居座っている。
「今日の夕食は?」
「んー、少年の好きなもの」
「にんじんということは、クリームシチューですか」
「うん。学園行って疲れたでしょ?」
「……まあ、囲まれはしましたけど」
手伝います、とエレノアの許可なくじゃがいもを手にとったルイは、手馴れた動作で皮を取り除いていく。料理に慣れた二人の手元からは、しょりしょりと気持ちの良い音がした。
「それで明日は街中回るんだって? お疲れさま」
「僕が直接行くのは主要な通りだけですよ」
街中に立っている魚尾灯も魔法道具の一種で、国のものだ。管理や設置など、全ては宮廷魔術師の管轄だ。
研究所といっても国家に仕える魔術師集団である限り、国に尽くさなければいけない。
近頃は様々な研究にも手を出していると聞いている。それに補佐が倒れたということは、その分の仕事も彼に降りかかるということだ。エレノアもちょっと考えるだけで、ルイが心配になってくる。
「魔術師の皆さんは優秀ですから、僕が手を出さなくても大丈夫そうです。それより……」
と、言葉を濁したルイ。
エレノアが横目で見てみると、彼の手が止まっていた。やはり疲れているようだ。
若くして筆頭になったのは実力を認められてのことだけれど、重圧や責任は遠慮容赦なく彼にのしかかる。それが仕事というものだとわかっているから、下手な慰めこそ逆効果だ。
エレノアはそう判断した。
彼が悩むのは仕事についてだけなのだと、大きな勘違いをしていた。
手を伸ばした。彼の額に触れる。普段より多少熱い気がする。
「ちょっと熱いね。早く食べて、早めに寝なよ?」
離そうとした手は、すぐに掴まれる。
「少年?」
「……エレノア、僕は……」
その先は濁された。
自分がどんな言葉をかけようとしたのか、ルイ本人もわかっていないようだ。
*
ルイはスティラス家の人間だ。
午前に行った学園での講義で、それを己に言い聞かせる形になってしまった。
スティラス家は、英雄でいて罪人だ。
ルイ自身には責がない。わかっている。
しかし彼女を裏切るような幾つもの大きな隠し事は、罪悪感の錘となって伸し掛ってくる。
この場は「何でもないです」と誤魔化して逃げたけれど、もう限界だった。
十年間の嘘が生み出す悪夢と、己の愛欲にまみれた夢は、その落差でもって確実に彼を蝕んでいた。
*
深夜。
お盆にコップ一杯の水を用意したエレノアは、ルイの寝室に足を踏み入れていた。
ベッドサイドのテーブルに水を置くと、彼の様子を見る。
「……ぅ」
寝苦しそうだった。固く寄せられた眉根と低い呻き声が、悪夢の酷さを物語る。
肌に汗を滲ませて、寝間着は胸元までを覗かせていた。寝具は端に追いやられている。
体温計はないから、エレノアは自分の体温で熱を計るしかない。ルイの額に手をやると、先よりもだいぶ高めの温度が感じられた。
――これじゃあ、明日のお仕事は無理だよね。
それはそれで良い。立場あるものとして嬉しくない休養も、必要なことがある。
おしぼりと氷が必要だと思い、彼女は身を翻す。
と、服の裾を掴まれた。
そこにいるのはルイだけだ。起こしてしまったかと振り返れば、そこにはエレノアを――鋭く睨みつける彼がいた。
「……ルイ?」
優しくない。おふざけではない。呆れてもいない。
月光色の瞳には、確固たる敵意があった。
――エレノアにはそう感じられたけれど、そうではない。何故なら彼がエレノアに向けているのは、それが害意だと思われるほどの、むき出しにした『本心』だったからだ。
エレノアが一歩退こうとするけれど、彼はそれを許さない。
「どこへ行くのです」
今度はエレノアの手首を握り込み、己へと引き寄せる。
「わっ……!」
身を起こしたルイの上に被さったエレノアは、小さく悲鳴をあげた。
誰かに縋り付くようなこんな体勢を、彼女は知らない。彼の清涼な匂いが、汗と混じることで色気を増していた。
涙目でルイを見上げると、彼は片腕を彼女の背に回し、距離を縮めてくる。
冷たい視線は心を抉ってくるようで、とても耐えられない。
「僕の元から逃げるつもりですか」
「い、痛いよ、ルイ少ね、……ぁっ」
細い手首はみしりと軋んだ。
「少年と、呼ばないでください」などと、震える彼の声は苛立ち任せ。
目前には彼の胸板があり、顔をあげれば苛烈な感情を持って見つめられる。思わず視線を落としたが、今も感じる視線には恐怖しか感じなかった。
こんなルイは知らない。
いつも『食事』をする時は、優しく支えていてくれたのに。
自分など簡単に抱き潰してしまえる圧倒的な差は、危機感を掘り起こす。
「ああそれとも、これが『妖精の呪い』ですか? 人をここまで落ちぶれさせて、離れて行くなんて……酷い女性だ」
冷たく嘲笑された内容にも身に覚えがない。
まったくわけのわからない状況だ。
肺が押し潰される息苦しさと、鼻奥につんとした涙の気配を認めながら、彼女は思い出した。
「許さない。そんなこと」
この声色は、ゲームの中のルイ・スティラスが本性を見せる瞬間の、静かなる慟哭だ。執念と成り果てた先にある、熟れ過ぎて苦味しか残らない果実のような愛。そんなものを主人公一人に浴びせながら、怯えの顔をも愛しいと笑う。
今までの穏やかな時間を裏切るように、彼の狂気が姿を現した。
「……逃がさない」
――ぞくり。
耳元で囁かれる。狂気も、情愛も、怒りも、全てが吹き込まれた。
耳孔から、脳天を震わせるような熱だった。硬直していたエレノアの体は、小さな吐息を漏らすことで勝手に反応を見せてしまう。
やだ。こんなの、望んでないよ。
エレノアは理解してしまった。みしみしと折れそうなほど握りこまれた手首、背に回る逞しい腕、見下ろしてくる瞳、――彼の全身で、この身を望んでいるのだと。
「見たことのない顔ですね。とても苦しそうで可哀想です。もっとよく見せてください」
「やっ……」
身をよじると、服の上から肩甲骨の辺りをそっと撫でられた。
羽の付け根。
妖精の本能から、彼女はぴたりと動きを止める。
その様子を見て嬉しそうにする彼は、爽やかな笑顔だった。瞳は暗く濁っていた。
ゆるり、ゆるり、羽の背と皮膚とを往復し、妖しく撫で摩る指。ぎゅうと目を閉じて耐え続けるエレノアは、この時間が早く過ぎ去ることだけを祈った。