騎士と宮廷魔術師
翌日は雨だった。
エレノアはルイの寝室のドアをノックするけれど、返事など期待していない。耳を澄ませても一言すらないので諦めて入室し、人の形に膨れたベッドにそろそろと寄っていった。
寝顔すら美しい彼にうっかり見惚れてしまいそうになる。けれど、警戒心の一切を欠如させたあどけない顔は、昔のままだ。
「起き……てないよね」
ルイはルミーナと違い、寝起きが悪い。
エレノアは口の端をほんのり上げて「これだから人間は」と囁いた。口癖になった理不尽な悪態は、穏やかだった。これでも小さな頃から見守ってきた。愛しく思う心を、今更否定はしない。
彼の頭上で「朝食できたよ」と言ってみるけれど、それで起きてくれるわけがなかった。
ベッドの端に腰掛けて、彼の肩に手をかけた。身を屈めると、下ろしていた髪としなだれている羽が背を滑り下りて、視界の端に映った。
「ちょっと、少年」
「……ん」
揺する。
微かに声を漏らしながら、ルイの瞳が徐々に開かれていく。
彼の頭はまだ眠ったままで、エレノアの顔をぼんやりと見た。じい、と静かに見つめられてたじろいだエレノアに、寝具から抜き出た腕がそろりと伸ばされる。
「っ……ひやぁああぁあああぁああああああぁあっ!」
彼の手が『それ』に触れた途端、彼女は悲鳴を上げて飛び退く。
「っは、はねに、……羽に、触るなんて……ばっかじゃないのっ!?」
「そこまで怒らなくても」
「あほ! 研究マニア! おたんこなす! 何回目なの変態!」
外に出る予定がないエレノアは、よく羽を出したままにする。今日はちょうどその日だった。本人の気が抜けていれば羽もヴェールのように下りているので、このような接触事故も起こる。
「そんなに大事なら隠しておけばいいでしょうに」
「少年は、猫に尻尾を隠して生活しろって言う? 露出してる、イコール触っていいってわけじゃないでしょ」
エレノアは涙目でルイを睨みながら、部屋の隅で己の体を抱き締めた。暴漢に襲われたようだった。
「何度も言うけど、妖精の羽は魔力の質を表すの。魔力の通り道。もしも羽がもげることがあったら、ぽっくり逝っちゃうんだからね……!」
「ぽっくり逝かれるのは困りますね」
ルイは、大きく息を吐きながら起き上がった。
「でも君の羽が美しいのは僕のおかげでしょう? 君を育てたのは僕の魔力です。触るくらい、いいじゃないですか。握り潰そうとか引き抜こうとか考えているわけじゃないですし」
「それとこれとは話が別だし。女性の胸に触ってもそういうこと言うの?」
「え、妖精にとっての羽ってそういう……」
「人間にはわからないでしょうけども、ねっ!」
妖精を捕えておくには、銀の檻に閉じ込める以外の方法が一つだけある。
羽をもぐこと。
けれどこれは実に暴力的かつ残忍な方法であり、妖精の生死を問わない拘束方法だ。妖精の羽は魔力の通り道であり、体中の主要な魔管(血管のようなもの)は羽を通っている。それが妖精の羽脈だ。
羽を失った妖精は、命の管を全て断絶されたと同じ。生命力が高い個体でも約二日で死に至るという。
「初対面で真っ先に触れたのが羽でしたので、どうも実感が薄いと言いますか、ね?」
「ね? じゃないよ首を傾げないでかわいいから」
「君は本当に残念ですね」
「お母さんに向かって残念とはなんだ」
「その思考がすでに残念極まりない」
私が育てた子が可愛くないわけないでしょ、と言い捨てて退室していくエレノアの背を、ルイは複雑な表情で見送った。嬉しいような悔しいような。
「もう身長は超したのに、あれはいつまで乳母気分でいるつもりなのか……」
ルイは起こしていた上半身を再びベッドに埋める。
階下から聞こえてくるのは、女性の声が二人分。朝食が好物だったのか元気すぎる妹と、落ち着いた声で妹を躱すエレノアだ。
窓からは、水滴が屋根や地に落ちる湿った音がする。
それらを聞きながら、ルイはその瞳を徐々に閉じていった。
「さてルイ少年。先ほど昼の鐘が鳴ったのだが、申し開きはあるかね」
「……疲れていたんです」
「久々の休日の半分を睡眠時間に充てて、惜しくはないのかな?」
「微塵も」
「お母さんはそんな子に育てた覚えはないよ」
「君を母親だと思った覚えもありませんよ」
「酷い! ルミーナちゃん、君の兄上は反抗期みたいだよ!」
「な、なんだってー!? あの幻の反抗期が、ついにお兄ちゃんに牙を剥くんですね!」
「また寝てきますね」
反抗知らずのスティラス家は、反抗期に少し憧れている。
*
休日明けの朝議ほどかったるいものはないと思うルイだが、これでも王の信頼は厚かった。
上座に当たる王の席から、コの字を成すように並べられた長机。研究所と騎士団が向かい合う配置は、宮廷内の構造そのままである。
王が座する最奥から、向かって右に魔術師長と魔術師筆頭と、他三人――第五位までの宮廷魔術師たち。彼らと対面するのが七人の騎士だ。総帥に続き、第一から第三までの騎士団長と副官がそれぞれ並び座っている。
王の傍に控える初老の男性、ナンディエル執政に呼ばれると、ルイは席を立って手元の書を読み上げる。
「属性を問わず、魔物の多くが苦手とするのが光魔法であるという通例が間違いだとする指摘がありました。光魔法の一切が通用しない魔物が存在する可能性があります。真偽は不明ですが」
ここで一度区切り、質問があればどうぞと言外に仄めかした。少々の間を置く。左隣のホーク魔術師長五十三歳も何も言わないので、続ける。
「魔術研究所では現在、魔物に対する光魔法の有用性を確かめるのと同時に、魔王に対抗し得る魔術師団の編成と訓練、強化に重きを置いて取り組んでおります」
「……第一級研究所を貸しているんだったね」
魔術師長の問いに、ルイは「はい」と頷く。
「ただ数種の属性と数百の種族全てを捕らえるのは不可能であり、進捗は芳しくはありません。お恥ずかしい限りです」
「否、恥じる必要はないよ、スティラス。人類史上で、魔物に積極的に手を出そうという試みすら初めてなのだからね」
ルイを労うのは国王陛下、その人だ。黒髪と緑色に透き通った瞳を持つ、王としては若い男だ。目元にどこか疲れが見えるが、それは政務と心労による疲れなのだろう。
「恐れ入ります」
「ああ。もう他に報告がなければ、騎士団の報告に移るよ。今後にも期待している」
「勿体無いお言葉です」
ルイが席に着いたのを見計らって、執政はまた別の名を呼ぶ。
「第二騎士団団長、クレア・ウィーヴィ」
ルイの真向かいに座っていた人物が、すっと立ち上が――ろうとして、「わっ」と小さく声を出した。
彼女の身長は剣を持つには心許ないほどで、椅子に座ると脚が床に届かないらしい。椅子から転げるように机に手をつき、すぐにはっと立ち直る。
その様子を呆れて見ていたルイと目が合うと、彼女は顔をさっと赤らめる。
「く、クレア・ウィーヴィより報告させていただきます! 我が第二騎士団の――」
会議室に響く声は、幼い女子のものだ。
朝議が解散されると、ルイは黒いローブを翻して己の研究室へ向かう。
背後から着いてくる足音にも気づいていたが、呼び止められない限り止まろうとはしなかった。
「おい、そこの。止まれ」
「…………」
「待てって」
「…………」
「お願いだ待ってくれ!」
流石に良心が咎めて、足を止めた。振り向いて視線を下に向けてやると、そこに年端もいかないような女子が腰に手を当て、ルイを睨みつけていた。
燃えるような赤い髪を後頭部で一つに括った、幼女である。というのは見せかけだけで、実はルイと同い年の立派な騎士だ。
身長はおそらく五年前から伸びていない。胸もささやか。
そんな彼女は道は違えど、腐れ縁の仲間だ。
「いつもいつも、何故素直に呼び止められないんですか。第二騎士団団長殿」
「……団長に素直さを求めてはいけない」
ぽつりと声を発したのはクレアの背後に佇む副官である。上司に思いっきり足を踏まれて「ぐ、」と唸った。
「踏むな」
「ふん」
クレアは腕を組んで顔を背けるが、やはり子供にしか見えない。
王家から直々に剣を賜った、名のある騎士の家系に生まれた彼女である。その才はやはり幼少の頃に見出され、ルイと同じ時期に宮仕えとなり、同じ時期に出世した。
魔物蔓延る戦場を駆け、オークロードを討ち取った凄絶なる初陣の功績が、勲章に形を変えて彼女の胸に光っている。それからも魔物討伐のたびに活躍し、つい数日前に第二騎士団団長の地位に昇進した。――剣の才女だ。
「遅ればせながら、昇進おめでとうございます。あの小さかったクレアがこんなに立派になって……、身長は伸びなかったようですけど」
「祝いの言葉は受け取っておくが、小さいとか言うな。同い年だ。わかるか、同い年だ」
「はいはい。それで何の用ですか」
クレアは「む」と唸り、
「……転移魔法の通行証をお願いしたくてな。新人の強化合宿で、西方の大河沿いの拓けた場所に野営地を置きたいんだが、移動を転移魔法で行おうと思う」
「構いませんが、強化合宿なら移動も全て自力でやらせた方が効果があると思いますよ」
「ああ。だから移動するのはその、負傷した場合とか、緊急事態の時にな。最近の魔物は活発化している。万が一を想定したい」
「じゃあ合宿なんて止めればいいでしょうに」
「伝統だから仕方がない。新人は毎年、この時期に扱かれるものだからな。研究所ではどうだか知らんが、こちらは先人を尊び追わねばならん」
「先人は親も師も我の踏み台である、というのがこちらの信条ですよ。だからといってそちらの意見も否定はしませんけど」
言うまでもなく責任は取りませんので、そちらのことはそちらで決めてくださいね。
と軽く言えば、クレアは真っ直ぐに「当然だ」と返してきた。騎士らしく、ひねくれていない強い意思が見える。ルイの周囲では貴重な人種だ。
「後で正式な依頼書を出そう。通行証は多く見積もって五十枚ほど必要になると思う」
「わかりました。では僕はこれで」
「あ、おい」
「はい?」
不思議そうにするルイを前に、クレアは僅かに口ごもった。頬に赤がさしている。その心情を知れる者は、この場に副官しかいない。
「今夜は、夕食、決まってるのか?」
「決まってると思いますよ。もしかしたら、もう下準備まで整えているかも」
ルイは外をちらりと見る。まだ朝といえる時間帯だけれど、料理に関して凝り性な家政婦は時々、朝から夕飯の下拵えをしている場合もある。
「……そ、か。わかった」
何故か残念そうにされるけれど、ルイもそこには踏み込まなかった。
今度こそ研究所へと足を運ぼうとしたけれど、また止める。彼女に言わなければいけないことがあったと思い出した。
「先日、ニルド丘陵でトロールを見かけました」
「トロール……。あれはたしか、この辺には生息しないはずだろう」
トロールは本来なら、深い迷宮で生活している。ニルド丘陵などという拓けた場所には絶対に現れない。
エレノアがそれに気付かなかったのは、おそらく彼女の常識では『トロールがニルド丘陵にいてもおかしくない』からだ。彼女の知るゲームの世界、つまり主人公という勇者が必要な時間軸。
――魔物が活発化し、人間社会を混乱に至らしめる世界。
その時が近づいている。ルイはそう考える。
「強化合宿とやらで意外な魔物と遭遇する可能性もありますので、気をつけてください。まあ雑魚は雑魚です。君なら一撃でのせる相手ですよ」
「そうか、覚えておこう!」
「何故嬉しそうなんですか」
「別に、なんでもない」
君なら一撃でのせる。それはルイの数少ない称賛だった。
騎士とはいえ、クレアも年相応の女子だ。想い人から褒められて、嬉しく思わないわけがない。
「褒められたって嬉しくなんか……!」と赤い顔を背けても、面隠しにもならなかった。
そんな彼女は知っていた。
想い人には想い人がいるのだと。
話を終えて、両者がそれぞれ持ち場に戻る。
後ろの方でまたルイの声が聞こえたので振り向いてみると、彼はまた呼び止められていた。
彼は人気者だ。その魅力は王様にも有効なのか、さっきまで重々しく会議に出ていた王が、ルイを熱心に誘っていた。久しぶりにお茶がしたいとかなんとか、そういう内容がちらっと聞こえた。
「……陛下とルイは仲が良いな」
「頻繁に呼ばれているようだ」
たしかにあの二人は、醸し出す雰囲気がどこか似ている。話しの内容だか価値観だか嗜好が似ていたりするのだろうか。
クレアはさして気にせず、進行方向に向き直った。
ギャルゲにありがちハイスペック幼女




