恋より疾く
悪い夢にうなされるように目を開いた望月ユウタは、教室にいることを思い出して舌を出した。居丈高な教師の声が、寝起きの頭に痛いほど響く。かと言って文句などいえるはずもない。勝手に寝て文句を垂れるなど、子供の駄々よりも質が悪い。
「そういえば、皆城はどうした? 今日も来ていないようだが」
教師が、眼鏡の奥の目を光らせると、教室の中が水を打ったように静かになった。もともと騒がしくはなかったのだが、閉じた窓の外の音が聞こえるほどの沈黙が場を支配した。だれもが、この陰険眼鏡教師の恐ろしさに辟易している。
鋭い眼光は、百戦錬磨の進学の鬼という異名が伊達ではないことを示している。
「望月、おまえなにか聞いていないのか?」
教師の目が、ユウタに注がれた。突き刺すような視線だったが、ユウタは意にも介さなかった。同時に、同級生たちの注目を浴びたのだが、そちらのほうが煩わしさでは上だった。
「いえ、なにも聞いていませんが」
「おまえ、皆城と仲いいんじゃなかったのか? これだから友情とやらは当てにならんな」
あきれたように吐き捨てて話題を変えた教師に舌を出そうかと思ったが、やめた。そんなことで教師の不興を買っても仕方がない。確かに腹の立つ言い方だが、理がないわけでもない。
皆城ヒカルは、ユウタの幼馴染みで気の置けない親友だった。それが、ここ数日連絡も寄越さず学校を無断で休んでいる。向こうから連絡が来ないのはまだいいのだ。こちらから電話をしても出ないし、メールをしてもあやふやな答えしか帰ってこないのだ。これではユウタにもなにがなんだかわからなかったし、彼自身、友情とやらの存在に疑念を抱き始めるのも無理はなかった。
そして、くだらない噂がある。
と、後ろから背中を叩かれる。そういうときは決まって、くだらないメモ書きの回覧だったりする。教師に注視したまま、そっと後ろに手を差し出すと、やはり紙切れが握らされた。書いてある内容まで想像がつく。うんざりとした気持ちになりながら、机の影に持っていく。可愛らしいメモの切れ端を開くと、思っていた通りのことが書かれていた。
皆城くん、駆け落ちしたって本当?
ユウタは、知らないよ、と走り書きして後ろの席の女子に渡した。
やもやしたものを抱えたまま、その日の学校は終わった。
皆城ヒカルが駆け落ちしたらしい、という噂がまことしやかに囁かれるようになったのは、彼が学校を休むようになって三日目くらいだった。別の教室の女子生徒が、皆城ヒカルが女性と連れ立って電車に乗るのを目撃したからだ。ただそれだけなら彼女でもできたのだろう、という話で済んだのだろうが、どうやらただごとではない雰囲気だったらしい。女は美人だったらしく、美女によりかかられて、皆城ヒカルも満更ではなさそうだったということだが。
そういう噂ほど、広まるのは早い。
あの教師も耳にしていないはずはないのだが、言及してくるようなことはなかった。その点では、あの教師は信用に足りる。噂を噂と断じ、自分の目で見て、耳で聞いたものしか信用しないところがあった。それはつまり、結果がすべてということでもあるのだが、今回ばかりは助かっていた。
ユウタは、皆城ヒカルのことを問い詰められると冷静でいられなくなる自信がある。
いまだってそうだ。学校に蔓延するくだらない噂に振り回されて、自棄になりつつある。皆城ヒカルへのいわれのない誹謗中傷は、親友である(と思い込んでいる)ユウタの心まで傷つけたし、確証のない噂話は、ユウタの中のヒカル像をも歪めかねない。
そういう日が、数日続いている。
(全部、ヒカルが悪い)
そう決めつけると、多少はすっきりするのだが、かといってそれでなにもかも解決するわけでもない。ヒカルは学校を休んだままだし、連絡してもはっきりしないし、明確な答えが出ないまま、日にちだけが過ぎていく。
ユウタの胸が苦しいのは、幼馴染みの親友の評判が落ちていくのを目の当たりにしているからだ。とは思うのだが、それ以上に悲しくもある。たとえ彼女ができて、本当に駆け落ちしてしまったのだとしても、相談くらいしてくれても良かったのではないか。物心ついたときから側にいて、ずっと一緒にいたのは、なんのためだったのか。困難のときに助けあうためじゃないのか。
そう思うと、余計に腹がたった。
そして、ユウタは、学校の帰りにヒカルの借りているアパートの前にまできてしまった。幽霊が出ると噂されるオンボロアパートで、その噂ゆえに格安の家賃で借りられるらしく、ヒカルはユウタにもこのアパートを進めてきたほどだった。学校からほど近く、風呂もトイレもついている。問題は、確かに幽霊が出るということだけらしいが、実際に幽霊がでるところに住みたくなどはない。
アパートの前に立つと、躊躇いが生まれたものの、すぐに考えなおした。駆け落ちしたのなら、ヒカルはいないはずだ。
二階の突き当りが彼の部屋だった。表札には皆城と記されていて、部屋を空けていないらしいことがわかる。駆け落ちなんて勢いでするものだろうし、手続きをしていないだけかもしれない。
妙な不安にむねがざわめいていた。彼がいてくれてほうがいいのか、いないほうがいいのか、ユウタ自身にもわからなかった。
インターホンを押す。
反応はない。
「……」
もう一度、押す。
しかし、またしても反応はなかった。
(いない……か)
駆け落ちしたという話は本当なのかもしれない。そう考えると、胸が張り裂けそうになった。なぜかはわからないが無性に腹が立つ。自分に相談もしないで出て行くなんて、親友の風上にも置けないやつだ。しかし、怒りの源泉はそこにはない気がした。足取りも重く、きた道を引き返そうとドアに背を向けた。途端、がちゃりとドアノブが回った。
「え……?」
「おかえりー!」
振り返ると、目の前に女性の胸があって、抱擁された。下着姿だったようだが、衝撃的すぎて記憶からすっ飛んでいる。予期せぬ事態。想像もつかない状況。思考が追いつかない。ショートする。
ユウタをたっぷり数十秒ほど抱き締めてから、女は異変に気づいたようだった。
「って、あれ?」
女がユウタを少し離して、顔をまじまじと見つめてきた。噂以上の美女だった。染めた髪は緩いウェーブで、大きな目は宝石のようだ。化粧は濃くなく――むしろしていないように思える――、眉目秀麗、美女と呼ぶにふさわしかった。スタイルもいい。均整の取れた肢体に出るとことは出て、引っ込むところは引っ込んでいる。そしてその死体を惜しげもなく晒している。女が身につけているのは下着だけだった。
「わわわわわわっわわわ!」
ユウタは、驚きのあまり動転して後ずさりしようとしたが、こけた。尻餅をつく。臀部に走る痛みに顔をしかめながらも、頭を打たなかったのは幸運だったかもしれない。
「君、だれ?」
女は、あられもない格好を気にする様子もなく、ユウタの顔を覗きこんできた。舐め回すように顔を見られたものの、不快感はなかった。雰囲気が、よく知る誰かに似ているからだろう。
「ふーん……可愛い顔してるわね。ヒカルの友達?」
「え、えっと……」
しどろもどろになったのはきっと、ヒカルの名前を出されたからだろう。それに、顔が近い。いつの間にか、目の前で屈みこんでいた。近くでも見ると、余計に彼女が美人だとわかった。ヒカルがこの女性に夢中になるのもわかる気がする。恋愛に興味のないユウタでさえ、はっとするほどの美人だったのだ。
「ただいまーって、またそんな格好でうろついてんのかよ。痴女罪で訴えられるぞ」
声に振り返ると、皆城ヒカルが立っていた。手にはコンビニのレジ袋。買い物に行っていたのだろう。いつも以上にさらさらの髪も、シャツにジーンズという簡素な出で立ちも、彼らしいといえばらしいのだが。
「痴女剤ってなによ。痴女になる洗剤? どこに売ってるのよ」
「なんでだよ、罪だよ、罪」
「王手!」
「詰みじゃねえよ……ってあれ、ユウタ?」
ようやくこちらに気づいたヒカルは、ユウタを見ながら目をぱちくりさせた。突然の訪問に驚いたに違いなく、それだけで多少の溜飲は下がった。しかし、美女と同棲しているという事実に直面したいま、その程度で収まるものでもなかった。
「この子、やっぱあんたの友達?」
「うん。なんでここに?」
「学校に全然来ないし、メールしてもよくわかんないからだろ……」
恨み事のようになってしまったが、ユウタは別に構わないと思った。この際、とことん困らせるしかないのだ。でなければ、こちらの苦悩などわかってもらえない。自分がどれほど心配し、不安だったのか、ヒカルには思い知らせたかった。無論、ユウタの感情など知ったことではないだろうが。
「だからきたのか……まあ、いいけど。ほれ、お代は後でもらうからな」
「へーい、まいどありー」
「それこっちの台詞だろ」
レジ袋を手に部屋の中に消えた美女に、彼は肩を竦めて嘆息した。尻に敷かれているらしいのが、その一幕でよくわかった。あんな美女だ。彼も文句もいえないだろう。男なんて、なんて単純な生き物なのだろう。ユウタは自分のことを棚に上げてため息を浮かべた。
「じゃ、行くか」
「どこに?」
「どこでもいいよ」
ぶっきらぼうな言い方は、実にいつものヒカルらしくて、ついついユウタは跳ね起きた。はしゃぎすぎたとは思ったが、もうどうにもならない。ヒカルはユウタの反応がおかしかったのか、くすりと笑った。笑うな、と怒ると、さらに大袈裟に笑った。いつものことだ。
ようやく、ユウタの日常が戻ってきたのだ。
「心配すんなっていったはずだけどなー」
「そりゃメールにはそう書いてあったけど」
それでも、心配はするものだ。言外にそういいながら、ユウタはヒカルの隣に座った。
結局、行く宛てなんてものはなく、辿り着いたのは街の真ん中に横たわる川だった。土手に座り、夕焼けの照り返す川面を眺めている。風は穏やかで、まるでいまのユウタの心模様のようだ。ヒカルの隣にいるというだけで、ここ数日の不安が嘘のように消えてしまう。
彼が隣にいるということが当たり前になりすぎたのかもしれない。だから、彼のいない数日間が辛くて、苦しかったのだろう。くだらない噂話や誹謗中傷に胸が傷んだのだろう。もっとも、駆け落ちこそ噂だったものの、彼の部屋には美女がいたのは事実だった。それはやはり、辛い。
隠し事をされていたのが辛いのか、ヒカルに恋人がいることが辛いのか。
それはユウタにもわからない。
「ま、学校に連絡入れなかったのはまずいけどさ」
「俺に説明してくれたら、俺からいってあげたのに」
「おまえがいったってどうにもならないよ」
「そりゃそうだけど」
ユウタは、ヒカルの冷たい態度に頬を膨らませた。もちろん、そんなことをしても彼の意見は覆らないだろうが。
広い河川敷には、どこかの学校の吹奏楽部員が集まって、演奏の練習をしていた。それ以外にも、ジョギングをしているひとや、犬を連れて散歩しているひともちらほら見受けられた。
「なんつーか、こっちだって色々大変だったんだよ」
そういって話を終わらせようとするヒカルを横目に見ると、彼はここに来る途中の自販機で買った缶コーヒーに口をつけていた。横顔を見ると、睫毛が長いのがよくわかる。そして、澄んだ目をしている。鼻筋も綺麗で、唇の形も悪くない。横顔を見る度に思うのだ。素材はいいのに、と。
口をついて出たのは、別の感想だったが。
「ふーん……あっそ」
「あ、信じてねーな、おまえ」
「あの女の人、綺麗だったね」
ヒカルが横目に見てきたので、ユウタは慌てて視線を逸らした。夕焼けの川辺に、軽快な音色が流れている。
美女のあられもない姿が、ユウタの脳裏に焼き付いていた。衝撃的に過ぎたのだ。いつもあんな格好で部屋の中をうろついているのだろうか。だとしたら目のやり場に困るどころの話ではないし、ヒカルが無断欠席してしまうほど熱中するのもわからなくはない。いや、わからないのだが、心情として理解できない話ではなかった。
「……あー、そういうことか」
「なに」
なんとも得意げな言い方が気になってヒカルに視線を戻すと、彼は、不敵な笑顔を浮かべていた。
「妬いてるんだろ」
彼が告げてきた言葉の意味を理解するのに要した数秒は、いままでに感じたことのないほど長い数秒だった。そして理解した瞬間、ユウタの頭が沸騰しそうなくらい熱くなった。理由はわからないが、思考回路が暴走し、自分でもなにをいっているのかわからなくなる。
「なっ、なにいってんだよ、馬鹿じゃないの!?」
「はっはっは、そう焦んなって。図星刺されて驚くのは無理もないけどよ」
「なんで俺がおまえのことで妬かなきゃならないんだよ」
「そりゃあ、俺のことが好きだから」
真面目くさった顔でヒカルが吐いた決め台詞には、さすがのユウタも冷静さを取り戻した。
「自惚れんな」
「冗談だよ、冗談」
「ったく……」
なぜか全身が汗だくだったが、そんなことはどうでもよかった。彼の軽い言動に一々反応していては身がもたないことくらい重々承知だったはずなのに、いつの間にか、彼のペースになっている。これだからヒカルと一緒にいるのは疲れるのだ。が、気持ちの悪いものではない。
「拗ねんなって、俺が悪かったよ」
「今度そんなこといったら本気で怒るからね」
「わかったよ」
彼の口ぶりから明らかに理解していないのがわかるのだが、それを突っ込むとまたややこしくなるので、ユウタはなにもいわなかった。元の話題に戻す。
「で、あの美人さんは彼女なの?」
「まさか。姉貴となんか付き合うかよ」
ヒカルが苦笑するように告げてきた答えに、ユウタは心底驚いた。
「え!?」
「え……っておまえ、まさか本気でいってたのかよ」
「姉貴ってことは、キラリさん?」
驚きを隠せぬまま確認する。ヒカルに年の離れた姉がいるのは事実だった。小さい頃は可愛がってもらっていた記憶もある。優しくて、穏やかな人だったはずだ。
「うんまあ、驚くのはわかってた。俺も驚いたし」
「だってキラリさんってもっとこう……おしとやかっていうか」
ユウタは、記憶の中の皆城キラリとさっき彼の部屋から出てきた半裸の女性が、どうしても同一人物に思えなかった。外見からして重ならないのだ。記憶の中のキラリは、良家のお嬢様といった雰囲気を纏っていて、身なりに気を使い、常に品のいい笑顔を浮かべていた。しかし、さっき目の当たりにした女性は、それとは真逆の路線を突き進んでいるに違いなかったのだ。
こちらの反応から考えていることを察したのか、ヒカルが苦笑をもらした。
「社会に出て、いろいろ弾けちゃったみたいよ」
「そう……なんだ」
「信じられないだろ」
「うん」
「俺だって、信じられなかったよ。姉貴があんな風になってるなんて。けどまあ、なんかいろいろあったみたいでさ、疲れきってるんだと。だからいまは充電期間。なんで俺んちにきたのかしんないけど」
「実家だと辛いからじゃないの」
「それもそうか」
納得してコーヒーを一飲みする親友を尻目に、ユウタはそっと息を吐いた。安堵しているのがわかる。ヒカルは隠し事をしていたとはいえ、大したことではなかったのだ。姉の面倒を見るためにごたごたしていたのかもしれない。それでも学校を無断欠席するのはどうかと思うのだが、この際どうでもよかった。あの美女がヒカルの姉で、噂は勘違いからきたものだということがわかったのだ。それだけで十分だろう。
ふと、ヒカルがこちらを見ていたことに気づく。熱視線、というほどではないが、なにか含んだようなまなざしだった。
「……なに?」
「いや……」
「なんだよ?」
「やっぱり、安心してる」
「してない」
速攻で否定するが、ヒカルはこちらの言い分を聞き入れてくれないようだった。
「そうかそうか、そんなに嬉しいのか。俺の彼女じゃなかったっていうことが、そこまでおまえを安心させるのか。そんなに俺が好きか?」
最後の問いのとき、彼はなぜか真剣な顔をしてユウタを見つめてきた。綺麗な眼だ。男同士だというのに見とれてしまいたくなる。いや、見とれてしまうのだが。このまま、時が止まってしまっても悪くはない気がした。が、このまま彼のペースに飲まれてはいけない。それではいつもと同じだ。
ユウタは、わざと半眼になった。
「そういうふうにかっこつけるの、やめたら?」
「なんだよそれ。ひとがせっかく――」
「せっかくもなにも、似合わないって」
「似合うだろ、俺ってイケてるだろ!」
「及第点レベルだよ」
「どこがだよ! いってみろって」
「そうだね」
ユウタは、川面を見た。夕日を反射する水の流れが、いつにもまして輝いて見える。練習中の吹奏楽部の伴奏も、良いBGMになっている。まるで青春映画の中にいるかのような錯覚すら覚える。
「人の気も知らないで、のほほんとしているところとか」
「それって見た目の話じゃないだろ」
「元々見た目の話じゃないよ」
ユウタは、笑った、ヒカルの容姿には問題点はひとつもない。彼の髪も、彼の眉も、目も、睫毛も、鼻も、唇も、顎も、全部気に入っている。耳の形だってそうだし、首も、鎖骨も、肩も、腕も――言い出したらキリがない。女子生徒にモテるのもうなずけるし、なにより、美女と駆け落ちしたという噂が半ば本気で信じられたのは、彼の容姿が抜群だからに違いない。
「じゃあ、見た目はいいってわけだ」
「まあね」
「へー」
まるでどうでもいいようなヒカルの反応に、ユウタは少しむきになって口先を尖らせた。
「嘘をついてもしょうがないでしょ」
「おまえの嘘はすぐに顔に出るもんな」
「ヒカルにしかバレないよ」
それは必ずしも嘘ではなかったが。
ヒカルが、笑いながら同意してくる。
「そりゃそうだ。俺が世界で一番、おまえのことを見てるからな」
ヒカルの言葉を聞いた瞬間、ユウタは、世界中の時が止まったような感覚を抱いた。いや、実際、一瞬だけでも世界は止まったのだ。頭の中が真っ白になって、なにも考えられなくなった。
気づくと、空を見ていた。
後ろに倒れこんだのだろう。夕日に照らされた空は、赤く燃えているようだった。動悸がする。空気を求めて喘ぐのだが、一向に収まる気配がなかった。その上、体が燃えるように熱い。まるで体中の血液という血液が沸騰しているかのようで、生きた心地がしなかった。服を脱げばましになるかもしれないが。
「おい、だいじょうぶか?」
ヒカルが心配そうに覗きこんできたが、ユウタはなにも答えられなかった。むしろ、動悸が激しくなってしまった。ヒカルの顔が、至近距離にあったからだ。
「貧血か? いや、違うか。顔赤いしな……風邪か?」
そういいながら、彼はさらに顔を近づけてくる。ユウタは驚き、逃れようとしたが、体がいうことを聞いてくれなかった。力が入らないのだ。ヒカルの額が、ユウタの額に触れる。それはたったの数秒だけの接触だったのだが、ユウタにしてみれば、何時間にも感じられる数秒だった。
「うん? 熱はない……か?」
ユウタは、ヒカルが額を離していくのを見つめながら、自分はなにを意識しているんだろう、と思わないではなかった。それもこれもヒカルが悪いのだ、という結論に至るまで、数秒もかからなかった。彼があんなことをいわなければ、気にすることもなかったはずだ。きっと、いままで通り、ただの親友として楽しく過ごせたはずなのだ。
ユウタは、中々引いてくれない体の熱を抱えたまま、額に手を置いた。確かに、そこまで熱くはない。きっと感覚的なもので、実際の熱量とは関係がないのだ。錯覚ともいう。しかし、鼓動はまだ早い。が、少しずつ、元の速度に戻りつつあるようだ。そのうち熱も感じなくなるのだろう。それはそれで寂しいかもしれない。が、この想いが消えるわけでもない。
雲が流れていく。BGMは聞こえなくなっていた。練習が終わったのだろう。
「俺、ひとを好きになったかもしれない」
なぜ言葉にしたのかはわからなかった。いや、単純に彼を困らせたかったのかもしれない。今回の件で、まったく説明もせずユウタの不安を煽った男なのだ。少しくらい、困らせてしかるべきなのだ。とは思うのだが、具体的にどうすれば彼が困るのかはわからない。
ヒカルの反応はというと、鈍かった。聞こえていないふりをしているのかと思ったくらいだ。
「……相手は?」
ユウタは寝転がったままで、ヒカルの横顔は見えず、彼の背中からしか反応はうかがえない。その背中がいつもより小さく見えたから、困らせることには成功したのかもしれない。そう思うと、少しは許せそうな気がした。だから、さらに困らせたなら、彼のすべてを許せるだろう――そんな馬鹿げた結論に至った理屈なんてものはないのだろう。ただ、口が動いていた。
「ヒカルだよ」
ユウタが冗談のつもりでいった言葉は、彼の動きを止めた。項が紅く染まったように見えたのは気のせいだろうか。
「本気にするぞ……」
ヒカルはぼそっとつぶやくと、ユウタの顔を覗きこんできた。ユウタが反応する暇もない。彼の綺麗な顔が、いつもよりも輝いて見えたのは、どういう理由なのだろう。余裕がない時ほどくだらないことを考えるのだと、ユウタはひとごとのように思った。
ヒカルの顔は、互いの鼻息がかかるほどの距離にまで近づいていた。