失楽園 ―ロスト・サーカス―
声劇用に書いた台本を、小説に直してみました。
大幅に加筆修正をいたしました。
儚い浪漫を描けたら幸いです。
*久しぶりに読み返し、稚拙な言い回し、誤字脱字に猛反省をいたしました。序盤を大分修正いたしました。
拙い作品を読んで下さり、感想をくださった方に申し訳ない気持ちでいっぱいです。これに懲りず、華宵の作品をかわいがってやってくださいませ。
サーカスが来ると聞こえてくるジンタ。
誰かが言っていた。
――良い子で居ないと、サーカスに売られるよ――
それなら、サーカスに居る子供は、悪い子なのだろうか。
「お疲れさまです」
進学したとはいえ、裕福でもない実家からの仕送りでは足らず、酒場の手伝いに明け暮れる毎日。
起きて、学校へ行き、夜の仕事、そしてくたくたに疲れ帰り、泥のように眠る。
そんな毎日。
毎日が消耗させる、夢、希望。
イヤ、そんなモノが初めからあったかさえ、もうとうに忘れてしまった。
そんな二年目の秋。
ひんやりとした風に運ばれて足元で止まったチラシは、奇異な動物、空中ブランコ、そして道化師たち。
「サーカス……へぇ」と呟いて足を止めた。
「ぁ」と聞こえた小さな声に顔を上げると、綺麗に結ったポニーテールを揺らし、少女がそこに立っていた。
風に飛ばされたその一枚を追いながら駆けて来たのか。
その胸に同じチラシの束を、しっかりと抱えていた。
「ああ、これですか?」と声を掛けると「いえ、あの……。どうぞ、風で飛んじゃったものですけど良かったら……」と言った瞬間に目があった。
彼女の瞳が大きく見開かれ水晶のようにきらめいて見えたから僕は、いいや彼女も、二人揃って俯いてしまった。
「あ、ありがとう。貰うよ」
薄く薔薇色に萌える愛らしい頬に一瞬目を奪われた僕であったが、作った笑みはぎこちなくとも、何とか声を出せた。
すると、彼女は顔を上げ「それ、私なんです」と真っ直ぐに僕を見詰めた。
その瞳が何だか眩しく思え「ああ、空中ブランコ……凄いな、これ」と頓狂な返事を返してしまった。
そんな僕にくすぐられたかのように、いや、むしろ「ふふ、良かったら来てください」と云う彼女の声が僕の耳を甘く、くすぐる。
「うん、行くよ」何の決意かと思えるほどに力強く僕が応えると、少女は「ほんとう? あの……」と心なしか不安そうに眉を寄せると、少し口ごもった。
思わず聞き返す僕に、小さく首を振り「ううん、お待ちしています。きてくださいね」と優しく微笑んだ。静かに、甘く。
その声があまりに耳に心地良く「必ず」と、つられて僕も微笑んでしまう。
笑顔で見詰め合うと不思議と懐かしく温かな思いが心に湧いた。
「それじゃあっ」といって走り出したその背中に、僕は慌てて声を掛けた。
少し離れて振り向いた彼女に「名前、キミの名前は――」何と云うのかと問う。
「……!」
その時彼女が一瞬、泣き出すのかと思えた。小さく、叫ぶのかと。
しかし彼女は、ほんの少し開きかけた口元を飲み込むようにきつく結ぶと深々と頭を下げ、そのまま走り去っていってしまった。
風に渡された一枚のチラシ。
殊更に大きく描かれている、奇異などうぶつ、心躍る催し物。
朧気に写されたブランコ乗りの少女。
大きな空き地の小さなサーカス。
翌日、酒場を早めに上がらせてもらうと、僕は早速、出かけていった。
貧しい学生の身の上に、けして安くは無いチケット。
それでも、どうしても、行きたかった。
目も眩む頭上のブランコ、揺れて舞うアノ娘を思う。
其れはきっと夢の舞台。
チラシの文句がそのままに僕の頭に妄想となって広がる。
そうして僕は、実際にこの目で彼女のその姿を見たいと強く願ったのだ。
いいや……。
ただ、もう一度逢いたい。あわよくば言葉を交わしたいとそう願っていただけなのかもしれない。
夕暮れ時、お馴染みの楽曲が流れる広場には、老若男女が寄り集う。
親に手を引かれはしゃぐ子供たちに、嘗ての自分をついと重ねる。
楽しみの少ない、そんな時代に其処はまるでお伽と魔法の空間。
道化師たちの白い顔に怯えた幼い自分が、テントの影で泣いている様な甘く気怠いセピア色の幻想。
日々を忘れ、懐古で甘いその雰囲気に浸りぼんやりと人々を眺めていた。
「あの」と鈴のような声で呼びかけられて振り向くと、先日の薔薇色の頬の少女が青紫のオーガンジーの衣装に身を包み、微笑んでいた。
仄かに透ける蜻蛉の薄羽を思わせる生地の下に、すらりと伸びた華奢な肢体。散りばめられたビイズはさながら夜空に流れる銀河のように輝いていた。
化粧に彩られたあの清らかな表情は、華やかに花開く白い薔薇。甘い香水の香りと共に、僕の胸と脳は彼女の美で満たされゆく。
けれども意気地のない僕は「ああ、やぁ……。」とやっと声を出す。
弱々しくぎこちない笑顔を作りながら。
「来てくださったんですね」
「きたよ」
「嬉しい」
「その、毎日はこれないけど……」
「いいえ、いいんです。あの、この後、私の出番なんです」
「そ、そうなんだ。良かった、間に合って」
「ぇ」
「だって、キミを……キミに」と言いかけたその時に、相対していた彼女が僕の背後に誰かを見とめ、僕の言葉を遮るように声を上げた。
「……あ、はいっ、今行きます」と僕の肩越しにその【誰か】に応えると、駈け出してゆく。
彼女の向かうその方向に、黒いシルクハットに黒い燕尾服を着た紳士が此方に向いて立っていた。
駆け寄る彼女に目もくれず、紳士は僕にほんの少しハットを上げて会釈をした。
嗤った……ように僕は感じた。そう、彼が、僕を、嗤ったように。
「君を観に……。逢いにきた……って云えなかったな。ははは……」情けなく僕も嗤う。
気弱な僕を。
ふと見ると、足元に黒い水鳥の羽が一枚落ちていることに気付く。
『これはまた、白い羽であったら、まるで天使じゃあないか』などと、負け惜しみのように皮肉に意地悪く口を歪めてこんどはハッキリと自分を嘲笑う。
それでも、なけなしの金で買ったチケットを握り、僕はテント小屋へと入っていった。
娯楽の世界、虚構の空間が華やかに幕を開ける。
百科事典から抜け出たような珍しい動物たち、賑やかにおどける道化師と小人。
美しく装飾された上海壷に、ぬるりと納まってしまう美少年。
まるで骨を抜かれたように、ぐんにゃりと身体を歪め壺に収まってゆく。
最後に彼の銀糸に縁取られた碧の衣装のシルクの裾がスルスルと壺に落ちるその様が、絹で出来た細蛇と見紛うほどに美しかった。
何もかもが驚嘆の数々と沸き起こる歓声の中、楽団が奏でる不思議な音楽と共に流れてゆく、幻想の舞台。
虚飾に彩られた異界。
大人も子供も満面を紅潮させ魅せられてゆく。
一瞬の暗転が、夢を遮断する。
終幕の予感。
否、お待ちかねの大舞台の始まり。
暗闇の中に一条の光。
誇らしげに中央でスポットライトを浴びる、黒ずくめの紳士。光を浴び、誇らしげに立つ。チラシに顔が載っていた。このサーカス団の団長である。
小人が数人駈け出して銀粉を撒き散らかす。暗闇に撒かれた其れが光を帯びて煌き輝く。
漆黒の彼の燕尾服に、夜空に光る星のように纏わり付く銀の粉。
一際に胸を貼り、真に胡散臭く悪魔的なその双眸をぎらぎらと大きく見開いて観客を見渡すと、男が声高に口上を述べる。
「紳士淑女(レディス アンド ジェントルマン)の皆々様! ようこそ、我が宵闇のサーカスへ! 今宵も始まる空中ショー! お待たせいたしましたっ。その背に羽の有る如く、華麗に飛び、舞う至上の美少女! さぁ、魅惑のショーをご覧あれ!」
彼の声だけが会場に響き渡る。
静まり返って息を呑む観客を男がもう一度満足気に見渡す。
すると楽団の曲調が一際華麗に流れだす。
高く、遥か頭上に張られた綱、頼りなげな簡素なブランコ。
高台より下を見下ろす彼の美少女は誇らしげに胸を張り、真っ直ぐに腕を掲げて嫣然と微笑んでいた。
暗いテント内に、男と彼女を照らすスポットライトが燦然と光の筋を作る。
まず片側に、演技の相手であろう男性が、そして次にあの、彼女が。
空中で行きつ戻りつ、揺れるブランコをしっかりと掴むと、其々が勢いをつけ飛び台を蹴った。
「おおっ」と声を漏らした観衆が、期待と緊張で喉を鳴らす。
天空であちらから此方へと軽々と飛び移るその度に、僕は握る拳に力を込める。
「素晴らしいっ、なんと美しい! 驚きめさるな会場の皆々様! あなおそろしや、なんと、命を救うあの網、安全網を外して飛ぶ美少女の勇気! これぞ、まさに天上の舞! とくとご覧あれ! 無事に飛べるかそれとも果たして、その儚い命が摘み取られてしまうのか! さ~てご静粛に! 緊張の、一瞬でありま~す!」
燕尾服の団長の台詞に、観客の誰しもが耳を疑う。
宙を舞う彼女たちの唯一の救済である、安全ネットが外される? なんということだ。なんということだ。
会場がどよめく。
空中の美しい姿に。溢れる程の溜息を、恐るべき彼の企みがざわざわと人々の心をかき乱す。
彼らの不安と期待の波に、高台で高く手を上げ見下ろす彼女は……美しく微笑んでいた。
ライトに白く照らしだされたその微笑みに。
これから繰り広げられるであろう彼女の危険極まりない身の上に、僕は戦慄する。
道化師たちが、面白おかしくネットを取り外してゆく。
大きく、小さく揺れて、行きつ戻りつする彼女を、見てはいられぬ。
――いや、見ていなくては――
僕は『もしひと時でも彼女から目を離してしまったら、彼女がアノ冷たい地面に打ち付けられてしまう』
なぜだか、そう信じ、祈るように目を凝らして見詰めていた。
ショーが終わり、サーカスの明かりが、一つ一つ消えてゆく。
それぞれが、それぞれの生活に戻ってゆく。
幻想の夜は、彼らを今宵の寝所で如何な夢に誘うのだろう。
僕は、どうしても、彼女の声が聞きたくて、ただ聞きたくて、いつまでも去ることなく留まっていた。
「何か、失くし物でもなさいましたか」
後ろから声を掛けたのは、誰あろうあの、悪魔的な団長であった。
あれ程に可憐な彼女に、あのような危険極まりないショーを課すとは。人間の所業とは思えない。
僕は、否、今宵集った観客の全てが、彼を悪魔そのモノの様に感じたことであろう。そうに違いない。
そんな風に胸のうちで憤りながらも、弱気な僕は「え、あ、いや。ぼ、僕は……」と口ごもってしまう為体。
そうして、そんな姿は大抵一番見られたくはない相手に、見られるモノと相場が決まっている。
御多分にもれずこの時も、やはりそうであった。
聞き覚えのある小さい声は、ブランコ乗りの少女が思わず漏らしたささやかな叫び。
僕はやっぱり、俯く他はなく。
「や、やぁ」と何とか声を出してはみたものの、本心は駆け出したいほどに恥じていた。
何を。
そんな自分を。
彼女の雰囲気もどこかぎこちなく、気まずそうにさえ感じられた。
「ふむ、ほう」と芝居がかって僕たちを見比べるように数分を使い「それでは、おやすみ」と仰々しく一礼をするときびすを返し、団長は一つだけ異色な赤いテントの中へと入っていった。
その姿は、あくまで悪魔的に。
彼女も彼の後ろ姿に応えて少し頭を下げる。
「おやすみなさい」掛けた声が気のせいか、少しだけ掠れて聞こえた。
だが、珍しく僕は気を取り直すことに努力した。
せっかく、大枚はたいてショーを見に出かけてきたのだ。そう、僕は、彼女のショーを見に来たのだから。
そう思い、心はそう努め、気を、話題をと頭を巡らそうとも、気の利いたセリフというものが何一つ見いだせなかった。
今、思い出せばあの時「あの、その」と、繰り返し、中々次の言葉が出ない僕に、彼女はきっと助け舟を出してくれたんだろう。
「どうでしたか?」と、切り出してくれた。
それなのに僕は間抜けな声で「え」と聞き返してしまった。
「私の、ショー」
「あ、ああ! 素晴らしかった! とっても…美しかった、まるで、天女のよぅ……あ、いや、ごめん」
「……良かった」
「え」
「嬉しいです。ありがとうございます」
「あ、いや……ホントの事だから……」
「……」
「じゃ、じゃぁ、それだけ伝えたかったから」
「あ、はいっ」
「じゃ」
「あのっ」
「うん?」
「おやすみ、なさい」
「おやすみ……。あ」
「はい」
「夢のようでした。キミも、良い夢がみれますように」
「ありがとうございます」
彼女はまた、深々と僕にお辞儀をする。
振り返ると、いつまでも、こちらを見ていた。
大きく蒼い月を背に、白い衣装がぼうと夜空に滲んで見えた。
僕はなんだか、背中の温まるのを感じながら、下宿へと帰った。
その夜。僕は久しぶりに、子供の頃の夢を見た。何をしに行ったのか、それともただ、なんとなく歩いていたのか。
何処にでもある川原。
遠く、いいや、直ぐ近くで何かの泣き声が聞こえる。
「うぇ、う、ひぃっく……」
僕は、しゃくり上げるその声を、猫か犬かの小さいのかと、声のほうへ近寄ってゆく。
四つ、五つ……? ああ年齢の認識が曖昧な夢の中、小さくてか細い女の子が、小枝で水面を叩いている。
「ん、ああ、とどかない……グス、うう」とべそをかくその小さな女の子を僕はぼんやりと眺めている。小さい身体で懸命に腕を伸ばすその横顔が、水面を照らし煌く光に染まり輝いて見えた。
光の中で愛らしい三つ編みが揺れる。だがそのうちに、夢中になる女の子の身体が揺れて危なげに思え声を掛けた。「ねぇ」と呼びかけるが、産毛の様な眉根をよせて一心にある一点を見詰めている。
僕は「ねぇ、どうしたの?」と少しだけ強く言って、その子の肩を掴んだ。「……ふぇ、ふぇええん」驚くように僕の顔を見上げ、まるで紙風船をつぶしてしまうみたいに、くしゃりと顔を歪める。
「あ、ああ、泣かない、泣かない。ね、泣いてちゃあわからないよ。どうしたの?」と慰めながらも、僕はセルロイド人形のようだったのにと、至極勝手なことを考えていた。
「げ、下駄が……」泣きながら訴えて伸ばす、砂糖菓子と見紛う指の先を見ると、橋げたの木の杭に小さな下駄が、浮きつ沈みつしているのが見て取れた。
「あ、ああ、ホントだ。ぷかぷか浮かんでる。ね、あの、赤い鼻緒のでしょう?」と云うと、うんうんと小さな頭を何度も振ってうなずいた。
そんな姿を見ながらも、酷い僕は、またも勝手なことを考える。まるで張子の虎だな、と。
なので「でも、なんで川に……」と呟こうとも、実は大して考えてはいない言葉であった。今思うとそれほどに僕は幼かったと云う事なのか。
夢は続く。
僕の呟きに彼女は「投げたの……」と消え入るように答えた。
「え、キミが?」と話す自分と、それを見詰めているもう一人の自分。そして、この無神経な幼い僕に呆れるもう一人の自分。
そうしてその時まで疑問にも思わなかった夢の世界の色彩が 一転して琥珀色に染まる。
無機質なカタカタという映写機の音と共に、全てがキネマのように流れてゆく。
僕も彼女も無声の世界、刹那いサーカスのジンタだけが聞こえている。
そして、映像に流れる白い文字が会話する二人の代弁者となってゆく。
「ウウン、知ラナイ男ノ子」
「エ、ドウシテ」
「ワルイコダカラッテ……」
「可哀想ニ。ボクガ、トッテアゲルカラ」
「ホントウニ?」
「ソウトモ、ダカラ、泣クノハオヨシ」
「ウン」
僕は女の子が持っていた小枝より、幾分長い棒切れを探し、少しだけ水に浸かって難なく彼女の下駄を取り戻した。
場面は夕焼けが紅く萌える河川敷へと移る。僕の着物の裾が大分濡れてしまったのを気にした風で「濡れちゃったね……」とすまなそうに少女が僕の目を覗く。
「うん……」と、つい残念そうに頷いてから慌てて「あ、ああ、でも大丈夫、これくらい直ぐに乾いてしまうから」と、精一杯優しく微笑んで返す。
「あの、ありがとぅ」
「うん」
「えへへ。よかったぁ。これ、ひとつしかないから……」
「そう、よかったね」と僕に言われ「うんっ」と嬉しそうに顔をほころばすと、足を伸ばしてまだ少し濡れた赤い鼻緒の小さな下駄を、コツコツと合わせて音を出す。
「でも、なんで……」こんな可愛い小さな下駄を、小さな彼女から取り上げたのか、どうして川に投げ込んだりしたのだろうと、僕の胸にもやもやと雲がかかる。
「ワルイコだから」
「え、でも、どうして?」
「わかんない」
「そう……」幼い僕は何故だろう、そうなのかと納得をしてしまう。
「サーカス……」消え入るようなか細い声に、思わず僕は聞き返す。
「なんて?」
――サーカスノコ、ダカラ――
「えっ」と叫んで目を開くと、身体がぐっしょりと汗ばんでいた。「夢……か……。だが、あれは……」
確かに、アノ少女の声であった。久しぶりのサーカス。あの幻想と煌びやかなショーに、浮かれて見た妄想か。
だが、あの時の下駄の真っ赤な鼻緒がはっきりと目に焼きついて離れない。あれは確かに子供の頃の記憶。覚えていた。いや、忘れていた。
その日僕は、初めて学校を休んだ。
つましい暮らしの中、爪に火を灯す思いで母が送金してくれる学費を考えると、とんでもない親不孝に胸が痛んだ。
だが、それ以上に、どうしても、夢の顛末を確かめたかった。あれは、あれは、キミナノカ。いや、それも彼女に会う口実であったのか。
親の恩を忘れたサボタージュ。
僕の足は真っ直ぐにあの広場へと向かう。
昼間のサーカスは別の空間。
そこで蠢くのは、幻想の住人たちが化粧を落とし、衣装を脱いだ抜け殻である。
白粉焼の肌と眠らぬ彼らの瞳はどんよりと澱み、動物たちは檻の中で憐れにうずくまっている。
酒と煙草の臭いの中、冷たい水で髪を洗う、みすぼらしい痩せっぽちの少年が、あの中国の壷の彼であると誰が気がつく事が出来ようか。
「あ」と聞き覚えのある鈴のような声に振り向くと、初めて会ったあの時と同じ可憐な少女が立っていた。
「やぁ、おはよう」僕は何かにとても安心して、そして誇らしげに彼女に笑いかけた。
「おはようございます」
「昼ひなかは、忙しいかな」
「え、あの、お稽古が……」
「あ、ああそうか、そう、だよね」
「あの、ちょっと待っててくださいっ」
「え、あ、ああ」
彼女は、走って、あの赤いテントに入ってゆくと、直ぐに戻ってきた。
「ダイジョブです、今日、お休みくれるって」ほんのりと紅潮した彼女の頬と、隠し切れずに嬉しさを見せる声が、僕の鼓動を早鐘と変える。
「そ、そうかっ」
「はいっ」
「それなら、せっかくだから、どこかに行こう!」
「あ、それなら、私、キネマに行ってみたいっ」とっさに、金のことが頭に浮かぶ。卑しい僕はきっとそんな表情を彼女に見せてしまったに違いなく……。
「あの、連れて行ってくださるんですもの、私、お代は払います、払わせてください」
「いや、そんなことは」
「じゃあ行きません」
「待って、僕に考えがあるから」
あてがあった。
夜間に手伝っている酒場の残り酒を、いつも空き瓶に溜めてやっているサンスケの爺さんがいる。
彼が酒に焼けた赤ら顔で「俺の働く銭湯から、表通りのキネマに忍び込める」と、自慢げに話していたのを思い出したのだ。
「大丈夫、安心したまえ」
「は、はいっ」
僕らは行きがけに店へ寄って、裏口によけて置いた残り酒を集めて空き瓶に溜めた。
手土産持参で頼った僕らを、酒好きの爺さんは快く迎えてくれた。
そうして二人で、湯釜の脇を通り抜け、キネマの裏口に潜入することに成功したのだ。
それは、貧しい花売り娘とおどけた心優しい男の、哀しい恋の物語。
胸を打つ音楽と、映像に、驚き、笑い、そして泪する彼女の横顔を、僕はきっと生涯忘れない。
始まって話も中盤というところで、何故か僕らは、もぎりに見咎められ、ほうほうのていで逃げ出した。
「っはぁはぁはぁ。もう、大丈夫でしょうか」
「ああ、もう大丈夫だろう」
「ぷっ、ふふ、あはははは」
「っはははは、面白かった、実に愉快だった」
「あはは、ホントウ、生まれてはじめて観ました。でも、それより、お顔が……すすだらけ」
「え、あ、キミだって、鼻が真っ黒だ」
「え、あら、やだわ、はずかしいっ」と声を上げはつらつと笑う彼女は、どこにでもいる若く健やかな一人の女性であった。
類まれなその美貌を除いては。
「今日は、ホントウにありがとうございました」
「なんだい、あらたまって」
「だって、ホントウにこんな風に楽しい事なんて、ございませんでしたから」
「少し、歩こうか」
「はい」
僕らは連れ立って、川岸を歩いた。そう、あの夢でみた、橋げたの近くへ。
「あ、ここは……!」
「やはり、やはりそうだったんだね」
「覚えていて、くださったんですか……! あんなに、小さかったのに」
「忘れていた」
「え」
「正直、忘れていたんだ。しかし、昨日夢を見た、赤い鼻緒の下駄を投げられて、泣いていた女の子の夢を」
「夢を……」
「あれは……キミだったんだね、キミの名前を忘れていた自分がふがいない」二人で観たキネマの主人公のように、僕は仰々しく頭を振って見せた。
「凄い……叶っちゃった」芝居がかった僕は彼女の言葉に少しだけ現実に戻る。
「うん?」
「私、アノ時は小さくて、ちゃんとお礼もいえなくて……。だから、お地蔵様に、お願いしていたんです。もう一度、貴方に逢えますようにって……」
「キミ……。いや、お礼なんて……」僕は浮かれていた自分を少しだけ恥じた。夢に見るまで忘れていたあの出来事とサーカスの夜の幻想、僕にとってその二つは一晩の興奮。
だが、あの可哀想な女の子は、ずっとそれを胸に想っていた。そうして今、僕の目の前に立つその現状を、これ程喜んでくれているのだ。
「いいえ、アノ頃、売られたばっかりで、どこに行っても虐められて……。おっとうやおっかあが恋しくて、毎日泣いていました……。だから、本当に嬉しかった嬉しかったんです……」
「辛い思いを……」したんだねと、云いたかった筈なのに言葉に詰まる。情けない自分を僕は胸のうちで罵る。なんと云うお気楽な馬鹿者なのだ。何が貧しさだ、何が苦学生だ。
この美しく儚げな少女の日々を思えば、お前はどれ程に恵まれていたのか……! そうして何も云ってやれぬ己の頬を、何度でも打ちのめしてしまいたい衝動に駆られた。
「いいえ。がんばって、お稽古したから、またこの街にこれました。あなたとこうして、お話しすることが叶いました。辛くなんて……なかったです」
【儚く可憐】と僕の妄想は、彼女という人形を作り上げてしまっていた。なんと彼女の強いことか。なんと彼女の健気なことか。
あの夢の少年となんら変わっていない、成長していない。僕は彼女をセルロイドの人形にしてしまうところだったのではないか。
「抱きしめたい」
「え」
「キミを、抱きしめてもいいですか」
「……はい」
華奢な身体を、しっかりと、包むように抱きしめた。
可憐で健気なこの少女が、幸福に値するであろうこの少女が、小さな胸を、どれほど痛めてきたのだろうかと。
サーカスの夜と昼など、子供でも解る。彼女にとってそこは、決して幻想のお伽の国では無かった筈なのに。
あれ程に小さく愛らしかったその頃に、親元を離れ、そして売られる。あれからどれ程の年月を一人で過ごしたのだろう。
投げられたのは、赤い鼻緒の下駄だけでは無かったかも。傷ついたのは一度だけではなかったかも。
精神と身体は、どれ程に痛めつけられたのだろう。あの胡散臭い悪魔的な団長は、彼女を大切にしていたのか。
そう思うと目頭が、胸が熱く震えた。
ふと気付くと、彼女の髪を一つに束ねる赤い色に見覚えがあった。
「これは……」
「あ」と彼女が小さく叫ぶと同時に、不器用な僕の指先が、それをあっさりと解いてしまう。
はらはらとほぐれ落ちた髪が僕の指に触れる。黒い羽扇を広げたように美しい弧を描いて漆黒の髪が彼女を包む。
腰まであろうその黒髪は、いっそう白く、彼女の顔を浮かばせた。
僕は、もう一度しっかりと、強く彼女を抱きしめた。嗚呼、そのまま彼女を我と我が身に取り込めてしまえたら、どんなにか幸せだっただろう。
強く、強く抱きしめながら、僕も初めて祈る。
――どうか、どうか彼女を、この美しい人を――
どれ程そうしていただろう。
静寂を彼女の寂しげな声が破る。
「明日……街を発ちます」
「え」
「興行が終るので、南へ」
「それは……」
「今夜、最後のショーを、観にきてくださいますか?」
「ああ、必ず」
「必ず……きてくださいませ」
行くな、と云えなかった。
云える筈も無い。
貧しい苦学生風情に、何が云えようか……。冷たく吹く風に、現実が僕の魂を凝らせる。
もしこのままさらって逃げることが叶うならば。是こそが妄想、是こそが幻想。
年老いた母の顔が、幼い兄弟の声が。
団長のじっとりとした声が僕の魂を刺し貫く。
お前のできることは、なんとか金を工面して、今宵、最後の彼女の晴れ姿を、観にゆくこと…だけであると。
僕は、彼女の身体をゆっくりと解放した。
「さてもご来場の皆々様、短き間ではござりますれば、格別の御厚情、御贔屓のほど真にありがとうございました。
今宵限り、我が宵闇サーカスは、別天地へ巡業とあいなります! どうぞお忘れなきように!
必ず再び舞い戻り、お会いできる日を夢見て、今宵最後最大のショー! 優美に舞い飛ぶ、現世の天女!
細腕に己の運命を預け、挑戦いたします!
さぁ! 道化師諸君っ、救いのネット(あみ)を外したまえ!」
静まり返る緊張の観客席。鳴り響くドラムロール。
彼女の掴むブランコが、大きく小さく、きしみながら揺れてゆく。
僕は、再び目を凝らす。
まだ胸に残る、彼女の温もりを感じながら。
きっとまた逢えると信じ、最後のショーを見逃すまいと……。
必ずまた逢える、こんな風に再会を遂げた二人だもの。
薄幸の少女を、きっと幸せにして見せよう。
生まれや育ち、身分などと、気にする家柄ではない僕だから、しっかりと学び、金を稼ごう。
そうして、彼女と温かい家庭を細々と、だが、幸せに年をとってゆくのだ……。
揺れるロープの音が、益々僕の心を早鐘のように波打たす。
――その時――
「さぁ! ご覧あれ、我が麗しき愛妻の、幻想のショー!」
――え――
時間が、止まる。
僕の目に映る、惨劇のフィルム。
まるで、射られて墜ちる黒鳥のように、彼女の身体が宙より落下する。
けたたましい叫び声と、恐怖と混乱に満ちた混沌の観衆に揉み流されながら、僕は目を閉じる事が出来ずにずっと彼女を見詰める。
目を、目を閉じてしまったら、彼女が消えてしまう、認めてしまう、これは夢だ。これは夢だろう? 夢に違いない。夢でなければ。夢であってくれ。
――誰か、神か、悪魔か、誰か、誰か、どうか、夢だと――
なぜ、それが起きたのか。
それは、単なる事故であったのか。
それとも、あの団長が放った言葉ゆえなのか。
それとも、それは最初から決まっていた。決めていたことなのか。
今となっては分かりようもない。
サーカスは、何事もないように、翌日テントをたたみ、次の興行へと旅立ってゆく。
遺体は夫である団長の故郷で埋葬されるという。
僕は、せめてもの手向けに、アノ日、手に残った赤い紐を届けに行った。
取り次がれ、団長が赤いテントより顔を出した。中へと誘われたが、僕は「いいえ、ここで」と断った。
――恐ろしかったのだ――
彼女の夫である団長の赤いテント。そこは、その中に入る勇気など僕には無かった。
「そうですか」とそれ以上強く勧めぬ団長に、僕は目的の物を渡した。
彼はそれを受け取ると、しばらく僕の顔を見詰めていた。間近に見る彼の顔は、思っていたよりも若く見えた。
だが、夜の華やかな衣装のままであっても、明らかに憔悴し日ごろ感じられたあの、悪魔的な、魅惑的な雰囲気が、毛ほども感じられなかった。
そこに居るのはただ、妻を亡くした憐れな夫であった。
「なぜ、それをあなたが? いや、いいのです。どうかそれは、そのままあなたがお持ちください。アノ夜、妻が云っていました。自分の髪を結わく紐を、覚えているかと」
「これを……?」
「そうです。それは、アレがまだ子供の頃からずっと大切にしてきたモノで、なんでも願掛けに使っていたと……云っていました」
「願掛け……」
「そのようです」
「それで……、その、奥様はアノ夜なんと……?」
彼は数秒僕の顔をじっと見つめると「もし」と、僕の目を、いいやその奥の何かを見つめながら言う。
「もし?」と聞き返しながら、僕の中の何かがその彼の眼差しに怯えた。
「失くした紐を持ってきた人がいたら、こう伝えて欲しいと、硬く約束させられました」そう語る彼が、一度も瞬きをせずに僕を見つめている事に気づく。
何故なのか、彼女の言葉を知りたくて尋ねた僕のはずなのに、僕は彼の双眸に、何かの念を押されている様に感じずに入られない。
彼の言葉のその先を、聞くのか、尋ねるのかと。
そうしてやはり、僕は尋ねずにはいられない。
「いったいなんと……なんと、彼女は……」
彼の眼が暗く光る。
抉る程に強く覗く、何を?
そうして、告げる。
彼女の言葉を。
「【取るに足らないモノでございます。下駄の鼻緒でございますから】と」
――嗚呼……! なんと、なんと云うことだ――
それ程に、君の覚悟はあったのか。
それに引き換えこの僕の、何と云う勇気の無さよ。
薄情なことよ。
「どうか、どうか御遺体にひと目……!」
「……。確かに伝えました。ですが、遺体はご遠慮いただきたい。誰が見ても、親子ほど年の違う妻でしたが……。
子供のときに買ったほどに、私なりにアレを……愛しておりました。
どうか、遺体はご遠慮いただきたい……。今そうして泣き崩れていらっしゃる、あなたを私が責めぬように、あなたも私を責めないで欲しい」
「……わかりました」
「では……」
「ああ、どうかもう一つ、お聞かせください」
「なんでしょう」
「夕べのあなたの口上、アレは」
「ええ」
「アレはいつもと違ったようでしたが」
「ああ。あれは最終日には必ず使う口上です。それが、なにか」
ふと、彼の瞳が、いっそう強く、暗く、煌いたように思えたが、きっとそれは僕の気のせいであろう。
「いいえ、いいえ……」
「それでは……ああ、私も後一つ」
「はい」
「アノ日、妻が笑っていました。
なぜでしょう……それは最早知る術はありません。ですが……アレの嬉しそうな笑顔を、始めてみたような気がします。
ありがとう」
どれほど、男泣きに泣こうとも。
もがれた翼は戻らない。
天にあれほど悲しい人があるだろうか。
地にこれほど美しい人があるだろうか。
宙を舞い跳舞その姿、永遠に霞み薄れること無く、焼き付いて残る。
君の名はこの魂の核となって、イマモ、ココニ、アルヨ。