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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
IX ヘルヘイム
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5 変革

 国家保安本部第七局――世界観研究局を率いるのは哲学博士であるフランツ・ジックス親衛隊上級大佐である。

 世界観研究という語感は、それそのものはひどく穏健なそれのようにも聞こえる響きであるが、その実態と言えばそんなものではない。国家保安本部に属する彼らがそんなに生やさしい存在であるわけがない。

 フランツ・ジックスはつい先頃まで国家保安本部長官代理を務めていた、第一局――人事局長のブルーノ・シュトレッケンバッハ親衛隊中将を「ヒトラー万歳(ハイル・ヒトラー)」と敬礼をして出迎えた。

 ジックスの指揮を執る世界観研究局は主として第四局と第五局と連携して捜査に当たっている場合が多い。

 つまるところ、”そういうこと”だ。

「相変わらず仕事に忙殺されているな」

「……こういった仕事は、現場の捜査官などには任せられませんからな」

 机の上に山と積まれた書籍や新聞などには、走り書きのされた紙が何枚も挟み込まれている。さらに、その横には中央記録所のファイルだろうか。膨大な情報を処理するジックスの手腕は大したものだ。

 確かに、捜査現場のゲシュタポたちに任せられるような業務ではない。

「ふむ」

 ジックスの言葉に相づちを打ちながら、シュトレッケンバッハはデスクの上に無造作に置かれた党の機関誌を指先でめくった。

上級大佐(オーバーヒューラー)は、現在の国家保安本部(RSHA)で最もこの分野に精通している」

 そう告げたシュトレッケンバッハにソファを薦めながらジックスは片方の眉毛をつり上げてから唇を引き結んだ。ジックスよりも七歳年上の男はなにを言おうとしているのだろう。相手をじっと観察しながら若い哲学博士は鋭い瞳にかすかに光を閃かせた。

「もちろんその自負はあります。中将」

 慎重に言葉を選びながらシュトレッケンバッハに応じたジックスに、四十歳の人事局長は考え込むような表情を見せてから頷いた。

「そうでなくては困る」

 三局のオーレンドルフ、六局のシェレンベルク。そして七局のジックスと言った面々は国家保安本部の現在を支える優秀な知識人たちである。特別保安諜報部に籍を置くベストやヨストといった面々も含めて、彼ら学識層の存在は国家保安本部にとって必要不可欠だ。

 そんな彼らをかつて、権力欲に取り憑かれたラインハルト・ハイドリヒは自身の邪魔になると判断した者たちを左遷、追放した。それは組織にとってなんたる損失か……!

「ところで」

 シュトレッケンバッハは長い時間考え込んでから話題を切り替えた。

 おそらくその切り替えた話題こそが「本題」なのだろう、というのがジックスの見解だった。

「……――」

「ところで、ジックス上級大佐。貴官は親衛隊上級大佐のメールホルン博士を知っているな?」

「もちろんです」

 告げられた言葉に即答したジックスは、それほど上背の高くない醜男(ぶおとこ)を思い出した。

 忘れていたわけではない。

 ヘルベルト・メールホルンは非凡な頭脳を持つ優れた法学博士である。

 かつて生前のラインハルト・ハイドリヒや、現在の特別保安諜報部に所属するヴェルナー・ベスト中将らと共に国家保安本部に名前を連ねた重鎮のひとりだが、ハイドリヒに反旗を翻したことにより二度の左遷を受けて完全に昇進の道を閉ざされた不遇の知識人だ。

「彼を国家保安本部(RSHA)に再び招き入れることになったのだが、どのように考える?」

 遠回しなシュトレッケンバッハの言葉に、フランツ・ジックスは肩をすくめた。

「長官閣下と、シュトレッケンバッハ中将が決定されたことに対して、所詮一局の長であるわたしが異議を唱えるわけには行きますまい」

 メールホルンは情報管理の達人だ。

 ごく初期の国家保安本部のあり方を、メールホルンが構築したと言っても過言ではない。彼の作り上げたその組織は、敵対する存在の全ての団体、及び個人の摘発を可能にしたのだった。

 それゆえに。

 その功労者たるヘルベルト・メールホルンの存在を、フランツ・ジックスが知らないわけがない。

 階級は今でこそジックスよりも低い「親衛隊上級大佐」であるが、メールホルンが国家保安本部に籍をおき続けその才能を遺憾なく発揮していれば、とっくにジックスなどよりも高い地位に上り詰めていたことだろう。

「それもそうだな」

 世界観研究局長の言葉を受けて、シュトレッケンバッハは同意するように頷くとそっと目を細めた。

「彼にも野心はあるだろう」

「そうでしょうとも」

 横暴なハイドリヒの権力によって昇進の道を完全に閉ざされたメールホルン。しかし、それをわかっていてもメールホルンに同情するつもりはジックスにはなかった。

 常に彼らは出世レースのただ中にいるのだ。

 優秀な知識人が国家保安本部に戻ってきたからといって、組織に役職があるわけではない。それは前国外諜報局長を務めていたハインツ・ヨスト親衛隊少将と同じだった。

 ヴェルナー・ベストも、シュトレッケンバッハの前の国家保安本部人事局長であるが、今は国外諜報局特別保安諜報部の首席補佐官を務めている。

「彼に相応しい部署があるわけでもありませんでしょう。中将はどうされるおつもりで?」

 問いかけたジックスに、シュトレッケンバッハは鼻から息を吐き出すと肩をすくめてから腕を組んで一蹴する。

「それは上級大佐が気に掛けることではない」

「……承知しました」

 では、人事局長がわざわざ自分の執務室を訪れた理由はなんだろう。

 ジックスは勘ぐるようにシュトレッケンバッハを見つめて一度まばたきをした。

「上級大佐は国内の出版物の調査の専門家だ。国内のありとあらゆる出版物に対する動向に気を配り、我らの”敵”に対しいっそう慎重に調査を進めてもらいたい」

「……我らの敵、というのはドイツの、という意味で?」

違う(ナイン)

 一言で即答されて、ジックスは数秒考え込んだ。

「了解いたしました」

 「ドイツの敵」ではない「我らの敵」ということは、つまり「国家保安本部の敵」である。ジックスは一瞬でブルーノ・シュトレッケンバッハの意図するところを理解した。

 国家保安本部に矛を向けようとする者、組織。それら全ての動向に神経を配れ。彼はジックスにそう言っているのだ。そしてシュトレッケンバッハがそんなことに気を配らなければならないほど、現在の国家保安本部はデリケートな問題を抱えているのだった。

 そんなものは確認するまでもない。

 ジックスは先日の会議の席で自分の隣に座っていた華奢な少女を思い出した。

 彼女は帰宅途中に暴漢に襲われて負傷した。彼女の存在がドイツ中に知られるようなことになれば国家保安本部そのものが危機に晒される。そんなことはシュトレッケンバッハに確認を取るまでもなくジックスは理解していた。

「……彼女は、弱すぎます。中将」

「仕方あるまい。”あれ”はまだ子供だ」

 なによりも、国家保安本部にマリーを配置したのは他でもない。

 ナチス親衛隊全国指導者――ハインリヒ・ヒムラーである。

「親衛隊長官直々の命令だ」

 そう言ってからシュトレッケンバッハは溜め息をついた。

 当初は、マリーの存在が鬱陶しくてたまらなかったものだが、彼女が配置されてからというもの、確執を深めつつあったゲシュタポのミュラーと、刑事警察局のネーベの間柄が円滑なものになりつつある。さらに、東部戦線での行動部隊アインザッツグルッペンの指揮を経験した若い国内諜報局長であるオットー・オーレンドルフは精神的な自信を取り戻しつつあるように感じられた。

 国外諜報局長のヴァルター・シェレンベルクは相変わらずどこか飄々としているが、シュトレッケンバッハの知己のひとりとも言えるハインツ・ヨストも、オーレンドルフと同じように変化が見受けられる。

 彼女の存在は、まるで春のそよ風のようだ。

「それに、彼女の存在が邪魔になるわけでもあるまい」

 言いながらシュトレッケンバッハはジックスを眺めやった。

「もっともアイヒマン辺りはあれに振り回されているようだが、上級大佐を煩わせでもしたかね?」

「……いえ、そうではなく」

 シュトレッケンバッハに告げられて、ジックスは口ごもった。

 正直なところ、国外諜報局に在籍するマリーとジックスには余り接点らしい接点がない。補佐官を務めるふたりの法学博士が優秀すぎて、十代の子供でしかないマリーの自分勝手な行動が押さえられているのだ。

「国家保安本部は、いつからに保育所になったのです」

 苦言を呈するようなジックスの言葉に、シュトレッケンバッハは苦笑いを浮かべてみせた。

 確かにジックスの言わんとするところは理解できないわけではない。

 パリの民生本部から召喚されたヴェルナー・ベストもマリーと出会ったばかりの時には、シュトレッケンバッハに対して似たようなことをこぼしていた。

 しかし、マリーの存在は邪魔になるどころか、自分を含めてぎすぎすとした主導権争いを繰り広げていた国家保安本部(RSHA)の空気感を変化させていっていることにシュトレッケンバッハは感じていた。多かれ少なかれ国家保安本部に所属する者たちは、いかに他者の鼻をあかすために策略を巡らせていた。

 そうしなければ、ラインハルト・ハイドリヒの作り上げた保安諜報機関の中で生き残っていくことなどできなかった。

 だから、彼らは熾烈な出世レースの中に我が身を投じてきた。

「全くもって、親衛隊長官の決定は狂気の沙汰としか思えん。だが、時には彼女のような存在も我々の中には必要なのかもしれん」

 ソファに深く腰を下ろしたシュトレッケンバッハが、フランツ・ジックスにそう告げると、告げられた青年はほんのわずかに眉をひそめてから「理解しかねる」とでも言いたげに瞳を閃かせた。

「とりあえず親衛隊情報部(SD)国防軍情報部(アプヴェーア)の連中と接触しやすくなったのは彼女の”手柄”だとは思わんかね?」

 花の家ハウス・デア・ブルーメンの事態について揶揄した人事局長が短く笑った。

「それは認めますが、国防軍情報部もハイドリヒ少佐を通じて我らの機密を入手しようとするのではありませんか?」

 慎重なジックスに、シュトレッケンバッハは胸の前で軽く片手を上げた。

「上級大佐が、彼女の存在を危惧しているのはわかる。だが、決定はわたしが下したものではない。親衛隊長官が直々に彼女を国家保安本部への所属を決めた以上、我らに拒否権などない」

 ――鶴の一声。

 同じような議論が、親衛隊全国指導者個人幕僚本部でも行われているだろうということは、シュトレッケンバッハにもジックスにも容易に想像がつくことだ。どちらにしたところで、マリーが在籍する二つの親衛隊本部――もっとも一方はほぼ諦め気味に容認しているのだが――が頭を抱える事態であることには変わりがない。

「……――承知しました」

 一瞬の逡巡の後にジックスはシュトレッケンバッハをじっと見つめてから頷いた。

 思うところは山ほどあるが、親衛隊長官が”彼女”の存在を親衛隊内部に認可している以上、中間管理職の自分がいくら議論を求めたところでどうしようもない。

 それほど長くはない対談の後に人事局長を自分の執務室から送り出して、フランツ・ジックスは無意識に紙巻き煙草の箱を手に取った。

「ヘルベルト・メールホルン博士、か……」

 かつて、ナチス党(NSDAP)が台頭しはじめた時期に、国家保安本部の屋台骨を支えた秩序と正義の法の番人を自負する男。

 ハイドリヒとはまた違う視点から、ナチス党のあり方を冷静に見つめていた法学博士で、その聡明な頭脳はおそらく、今の国家保安本部にあっても一、二を競うだろうと思われる。そんなメールホルンが、再び国家保安本部に迎えられるとブルーノ・シュトレッケンバッハはジックスに告げた。

 年齢はヴェルナー・ベストと同年のはずだ。

 集団の中でこそ意志決定力には欠けるものの、かつて国家保安本部の法学博士の中でも勇気のある男だったとジックスは記憶している。

 勇気がなければハイドリヒに楯突くことなどできるわけがない……!

 無論、当時のハイドリヒの権力は、後年と比べればそれほど拡大していたわけではない。

 おそらくメールホルンが再び国家保安本部に迎え入れられた暁には、組織内部に大きな変化が生じるだろう。

 とりとめもなくそんなことを考えながら、フランツ・ジックスはライターを手に取った。

「しかし、”あの”ゲシュタポの長官に女の子がなつくとはな」

 泣く子も黙るゲシュタポ・ミュラー。

 彼に対していつもニコニコと笑顔を向けている金髪碧眼の少女を、ジックスは思い出した。

「……いや」

 独白する。

「はたしてどちらが”なついて”いるのやら」

 煙を深く肺まで吸い込んだ世界観研究局長はそうして窓の外を眺めると、夏の日差しの注ぐ中庭のベンチを見下ろすのだった。

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