4 懸念
――正直なところを言えば諸手を挙げて賛成することはできん。
国家保安本部長官に就任したエルンスト・カルテンブルンナー親衛隊大将は、人事局長ブルーノ・シュトレッケンバッハに対して苦虫を噛みつぶすような表情になった。
「……そうでしょうな」
タバコを口にくわえたシュトレッケンバッハは、カルテンブルンナーに肩をすくめてみせる。
「だが、情報将校として確かに”侮られる”ための素質を持っているのも確かだ。ウラニウム・クラブの物理学者共なら、たかが医学をかじった弁護士と、高等教育を受けてもいない女子供相手であれば気もゆるむだろう」
「気になるのは、国防軍の動きですが……」
カルテンブルンナーの言葉に相づちを打ちながらシュトレッケンバッハが応じると、腕を組んでうなり声を上げた国家保安本部の長官はそっと目を細める。
以前は、アルコールと煙草に浸かった生活をしていたエルンスト・カルテンブルンナーだったが、シュトレッケンバッハの見るところプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセに執務室を移して以来そうではなくなったような気がする。
少なくともブルーノ・シュトレッケンバッハが見ているところで煙草を吸っているところなど見たことがなかった。
「国防軍か」
ナチス親衛隊。
こと、国家保安本部は決して軍事組織ではない。
例外として武装親衛隊が国防軍陸軍と共に行動をしているが、あくまで例外だ。
おそらく、とシュトレッケンバッハは思う。
一般親衛隊に属する警察組織の親衛隊員たちとは違って、武装親衛隊員たちは自分たちを軍人、もしくは兵士であると思っているだろう。
ドイツが勝っている分には問題にならない事実であるが……。
シュトレッケンバッハはそんなことを思ってから、カルテンブルンナーの執務机の上に置かれた灰皿に煙草を押しつけるようにしてもみ消すと目を上げる。
「ところで、カルテンブルンナー大将閣下。煙草をやめられたのですかな?」
揶揄するようなシュトレッケンバッハに、長身の国家保安本部長官は顎に手を当てたままで小さく首を傾げた。
「ことさらにやめたわけではないが……、いつのまにか以前のようには吸わなくなったな。そう言えば」
ふと思い出したように笑った彼は、自分の椅子に腰を下ろしてから机の前に立っているシュトレッケンバッハを眺めた。
たった数ヶ月前までのぎすぎすとした印象を漂わせていたカルテンブルンナーとは違いすぎる印象は、いったい誰の影響なのだろうか。なにせ、親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーが再三、カルテンブルンナーに自分の健康状態に気を遣うようにと口酸っぱく言っても行動を改めようとしなかったのだ。
そんな男の態度の変化がブルーノ・シュトレッケンバッハには興味深かった。
「……マリーが、わたしの制服に触れる」
ややしてからカルテンブルンナーがぽつりとつぶやいた。
「は?」
何を言おうとしているのかがわからずに、シュトレッケンバッハが間抜けな声を上げると、カルテンブルンナーは軽く片手を顔の前で振ってから柔らかくほほえんだ。
「いや、なんでもない」
応じた彼の言葉に、シュトレッケンバッハは「あぁ」と合点がいった。
マリー――国外諜報局の特別保安諜報部に名前を連ねるマリア・ハイドリヒは、カルテンブルンナーとミュラーの制服の裾を掴む癖がある。少女がカルテンブルンナーの制服の裾を掴めば、紫煙のしみこんだ制服を掴むことになり、そのせいでマリーの指に煙草の臭いが移ることを気に病んだのだろう。
そんなエルンスト・カルテンブルンナーの、なんとも稚拙な気遣いにシュトレッケンバッハは内心で苦笑した。
もちろん国家保安本部の新長官として任命されたカルテンブルンナーに、面と向かって「稚拙だ」などと評価してしまえば、自分の首が危うくなる事態は避けられないから、シュトレッケンバッハも余分なことは口にしない。
しかし、ラインハルト・ハイドリヒにその権限を抑圧され続け、欲求不満に陥ってがちがちに凍り付いていた事例を考えると、驚くべき変化と言えるのかも知れない。
「それにしても、軍事上の案件に対して親衛隊情報部は関与しないことになっている分、国防軍の横槍が入りそうではあるな」
もっとも、どちらがより”横槍”だと思っているだろう。
足を組んだカルテンブルンナーは法学博士独特の鋭い眼差しをシュトレッケンバッハに向けながら息をついた。
彼の心配はそこにあった。
国防軍――特に陸軍――は、反ナチス派の急先鋒とも言える。それらしい動きはすでにハインリヒ・ミュラー率いる国家秘密警察が掴みつつあるが、それらの動きは非常な多岐にわたっており、どれほどの規模の反ナチス派が国内に潜伏しているのか計り知れない。
ごく最近まで、カルテンブルンナーは国家保安本部には在籍せず、大管区ドナウの親衛隊及び警察高級指導者を務めていたが、ゲシュタポ・ミュラーの適切な報告を受けて短時間で事態を正確に把握した。
「問題は、マリーが国家保安本部の人間として他機関の大勢の者と関わることだ」
おそらくそれこそが、カルテンブルンナーの危惧なのだろう。
最初に「諸手を挙げて賛成すること」はできないと言ったのはそれこそだろうと思われた。
「多くの者と接触すればするほど、マリーが国家保安本部所属の親衛隊員であるということが広まるだろう。万が一、その情報が敵に漏れた場合、それこそが我らのアキレス腱として狙われるに違いない」
彼女は、秘書や通訳とは違う。
ナチス親衛隊の一員として、中級指導者の階級すら所持している。
「ですが、よもや彼女が部長級の役職持ちだとは思いますまいが」
心配するようなカルテンブルンナーにシュトレッケンバッハが眉をひそめると、国家保安本部の長官は考え込むような仕草を見せた。
「情報の扱いに疎い者であれば、そう思うかもしれないが」
シュトレッケンバッハは、カルテンブルンナーがマリーを実の娘のようにかわいがっているのを知っている。だから、ともすれば公私混同しているのではないかとすら勘ぐることもする。
しかし、それでもカルテンブルンナーの言うことはもっともなこともある。
たった短い間にマリーが襲撃されたのは二回。一度は、まさしく彼女自身が狙われ、今一度は連合国の乱暴な情報収集のための餌食にされた。
やり方を見る限り、アメリカ合衆国かソビエト連邦、もしくはフランスの情報部――恐ろしくその可能性は低いが――かと思われる。
消去法で考えるならば、マリーの腕を折ったのはアメリカ合衆国の戦略情報局と言ったところだろう。
「貴官も知っているだろうが、アメリカの情報部はそれほど甘くはないぞ」
遠く大西洋の向こう側で、なにかを画策している。
それがエルンスト・カルテンブルンナーの見解だ。
「……わかっています、長官」
危険なのは、その情報部だけではない。
「どうせ、国内の矢面に立つのは我らが親衛隊長官閣下だから問題はなかろうが、問題は国外の鼠共だな」
フンと鼻を鳴らしたカルテンブルンナーは、それから数秒じっと考え込んだ。
「ですが、親衛隊長官閣下は矢面に立たされることは好まないのでは?」
「……立ってもらわねば困る」
「確かに」
マリーを直接の指揮下に置いているのは他でもない、国家保安本部なのだ。いざとなれば、国内からの批判など国家保安本部の知識人を終結すればなんでもないことでもあるが、そう言った事態にならないように手回しをするのが組織のトップに立つ人間の役目ではないか。
カルテンブルンナーの言外の言葉に同意したシュトレッケンバッハは、ちらりと目の前の大男を見やってから口を開いた。
「七局のジックス上級大佐に”彼女”に対する情報の操作を行わせましょうか?」
「……それと同時に」
シュトレッケンバッハの提案に、カルテンブルンナーは軽く人差し指を立ててから言葉を続けた。
「クルムホーム強制収容所のメールホルン上級大佐を招集しろ。彼は、情報管理の天才だ」
「……メールホルン上級大佐、ですか」
ヘルベルト・メールホルン親衛隊上級大佐は国家保安本部のごく初期を支えた知識人のひとりである。
かつて、ラインハルト・ハイドリヒに反旗を翻し、紆余曲折を経て現在は占領地となっているポーランドのクルムホーム強制収容所で最終的解決のアドバイザー的な立場にあり、その指揮に当たっている。頭の回転が速い聡明な男だが、集団においては若干意志決定力に欠ける、というのがもっぱらの評判と言えばわかりやすいだろう。
「メールホルン博士にも確執はあろうが、今は幸いなことにハイドリヒはいない。招集に応じるだろう」
「……やってみます」
人事局長のシュトレッケンバッハはカルテンブルンナーに対して言葉を返すと、踵を打ち鳴らした。
「ところで、メールホルン上級大佐が招集に応じる場合、所属はどうなさるおつもりで?」
今さら部署を新設するわけにもいかない。
国内情報を統括する三局はオーレンドルフが指揮をとっていたし、そこにメールホルンが専門家として配置されれば、若い親衛隊中将は良い顔をしないだろう。
「……彼はプライドの高い男です」
「法律家などみんなそんなものだ」
意志決定力に欠けるとは言ってみても、メールホルンは元検事だった。そんな彼は自尊心がひどく強いことを、シュトレッケンバッハは知っていた。
人事局長の言葉を一蹴してからカルテンブルンナーは黙り込んだ。
「マリーは、厄介事を押しつけられたとして、嫌な顔をすると思うか?」
「……マリーのおもりはベスト中将と、ヨスト少将がするから問題はないでしょうが、問題はメールホルン上級大佐のほうかもしれませんな」
「そのあたりについてはこちらでなんとかしよう。とりあえず、メールホルン上級大佐を早急に招集してくれ」
「了解しました」
国家保安本部長官の執務室を出たシュトレッケンバッハは踵を高く鳴らしながら廊下を進んで考え込んだ。
一度、国家保安本部から左遷された男を自分の指揮下に宛がわれたとしても、マリーは嫌な顔などしないだろう。しかし、経験の浅い少女のもとに配置されることを、果たして頭の回転の速い優秀な元検事が良しとするだろうか?
国家保安本部のごく初期を支えた学識層。
彼らは一様にプライドが高く、厳然とした自己を確立している。
問題が起こらなければ良いのだが、と思いながらシュトレッケンバッハは深い溜め息をついた。
七局――世界研究局長、フランツ・ジックスの執務室にブルーノ・シュトレッケンバッハは立ち寄ることにした。
人事局長としてやらなければならないことは山ほどあった。
当面はマリーの安全を確保してやらなければならないが、さてどうしたものか。たったひとりの親衛隊少佐に対して人手を割かなければならないというのは、少数精鋭で国内と占領地区の治安維持に携わる国家保安本部にとって大きな負担になる。
六局の局長、ヴァルター・シェレンベルクの要請と、国家元首アドルフ・ヒトラーの好意によってマリーに対する警護には「総統警護隊」から武装親衛隊の下士官が選抜され、加えてゲシュタポの警察犬が提供されているが、それでも尚、危険が伴わないわけではない。
若干の油断があったとは言え、高官だったラインハルト・ハイドリヒはテロリストの手によって殺害されたことを考えると、絶対に警護が充分であるとは言い切れないというのが正直なところなのだ。
もちろんマリーがそれでもなおテロリストによって殺害されてしまうような事態になるのであれば、それはそれでやむを得ない。
だが、大人たちを信頼し、屈託もなく笑っている少女を見ていると心が痛むのだ。彼女が類い稀な才能を持っていることはわかっているが、それでも、愛らしいドイツ人の少女がテロリストの手によって無残に殺されることを想像するのは余り心楽しくなれるものではない。
「勝手なものだな」
ぽつりとつぶやいてシュトレッケンバッハは苦く笑った。
自分がポーランド戦の際に行ったことを思い出す。
女も子供も、年寄りも関係などなく彼はユダヤ人やポーランドの学識層を追い立て、殺害したのではないか。そして、ハイドリヒが死んでから、東部で展開される行動部隊の指揮を、一時的にとは言えベルリンで執っていたのは誰でもないシュトレッケンバッハ自身だ。
警察には秩序が必要なのだと内心で言い訳をしていた。
マリーと同じ年頃の娘たちを何十人と殺していて、マリーだけは殺したくないと思うのだ。
――勝手なことだ。
唇だけでそうしてブルーノ・シュトレッケンバッハは繰り返した。




