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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
IX ヘルヘイム
95/410

2 Siesta

 赤いシェパードを伴って出勤してきたマリーは、痩せすぎた体型を隠すためか布の量の多いスカートに清楚なブラウスという出で立ちで、長い金色の髪を両サイドで年頃の少女らしく三つ編みにしている。

 頭にかぶったトップハットは新緑色で造花のコサージュが添えられていた。

 左腕を痛々しく吊った彼女は、ナチス親衛隊の捜査官や情報将校たちに気軽な挨拶を受けて青白い顔でにこりと笑う。

 この年代の少女であれば、頬はバラ色であるべきなのだがマリーは違う。

 病的な程悪い顔色は、ともすれば本当に病気を患っているのではないかとも思わせるが、本人については体に異常を感じていないらしく、一向に普段通りに振る舞っていた。

 けれどもそんな彼女の異常を見抜いたのが、泣く子も黙る国家秘密警察(ゲシュタポ)局長のハインリヒ・ミュラーだった。

おはよう(グーテン・モルゲン)、良い朝だが随分と眠そうだな」

「……おはようございます(グーテン・モルゲン)

 恥じらいのかけらも見せずに大きなあくびをしたマリーは、右手の甲で目元をこすってからミュラーを見上げる。この愛想が悪く、無骨なゲシュタポの長官にマリーは物怖じもせずに抜けるように青い瞳でにこりと笑った。

「最近、あんまり眠れないんです」

 溜め息混じりにつぶやいたマリーに、ミュラーはぴくりと片方の眉毛をつり上げる。

 ナチス親衛隊において、親なしのマリーに対してそれこそ本当の父親のように振る舞っている――もちろん公私の別はある――のは、国家保安本部新長官のエルンスト・カルテンブルンナー、国家秘密警察局長のハインリヒ・ミュラー、刑事警察局長のアルトゥール・ネーベだ。

 突撃隊の幕僚長であるヴィクトール・ルッツェもマリーのことをいたく気に入っていたが、彼はナチス親衛隊員ではない。

「神経的なものかね?」

 それとも最近の国外諜報局の忙しさのせいで神経が(たか)ぶっているのか。

 そんな心配を滲ませたミュラーにマリーは困惑したようにかぶりを左右にふってから、自分の隣に立っている制服姿の男に背伸びをした。

 手のひらを口元にあててミュラーに潜めた声で告げる。

「……それはいかんな」

 中腰になってマリーの囁きのような言葉を聞いたミュラーは、顎に指をあててから軽くうなり声を上げた。

「お隣さんがそんなでは、さぞ眠れんだろう」

「そうなんです」

 わずかに頬を紅潮させたのは、恥ずかしさに頭に血がのぼったせいのようだ。

 両手で口を覆った少女はうろうろと視線を彷徨わせてから、今度は伺うように彼を見上げる。

 幼く見えてもマリーは年頃だ。”そういった”世俗的な事柄にも興味も持つのが普通であるだろうが、彼女はあくまでも国家保安本部に属する人間で、集中力を欠くような事態は好ましくない。

「なに、心配はいらない。そのうちなんとかなるだろう」

 ミュラーの言葉に不安そうな光をマリーは瞳に浮かべる。

 疲れた様子で溜め息をついた彼女は、寝不足が続いているせいか足をもつれさせてミュラーの隣でふらついた。

「そうだといいんですけど」

 眠れないせいで、マリーがだいぶ神経的に参っている。

「マリー、九時になったらわたしの執務室に来なさい」

「はい」

 ちらりと見下ろした少女はふらふらと歩きながら、国家保安本部の階段を自分の執務室へと向かって歩き去っていった。

 自分の名札をひっくり返し、ロートを執務室の所定の場所に待機させるとマリーは自分の荷物を執務机の上に置いて時計を見やる。

 時刻は午前八時。

 丁度、多くの捜査官たちが出勤してくる時刻だった。



  *

 今さら言うまでもないことだ。

 マリーは時間の管理がひどく苦手なことをヴェルナー・ベストは知っている。

 もっとも、彼女が時間にルーズなわけではない。

 趣味らしい趣味もない彼女はプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセの国家保安本部に出勤すると日がな一日中央記録所のファイルを読んでいるか、気ままに各局長、部長級の役職者たちの間を渡り歩いているかである。

 時には外務省や、調査局に出向くこともあるようだったが、自由気ままであることには変わりがない。

 前もって予定が入っていても、そんなことを気にして行動するマリーではなかったから、彼女の周囲の高官たちが苦労する羽目になるのだが、本人に至ってはマイペースなものだった。

 首席補佐官のヴェルナー・ベストは手帳を開いてから小さな溜め息をつく。

 そろそろ十一時になろうかというのに、執務室の主人は不在のままだ。

 すでに出勤はしているのだろう。執務室の名札はひっくり返されており、ロートも所定の位置にいるから明らかだった。

 国外諜報局長ヴァルター・シェレンベルクの要請を受けて、午後からライプツィヒに向かう予定になっている。それを当の特別保安諜報部長は理解しているだろうか?

「まぁ、いる場所はたかが知れているか」

 吐息をつきながらベストの独白に、室内にデスクを構えるハインツ・ヨスト少将はちらりと目を上げた。

「また中央記録所のファイルを持ち出していなければいいんだが……」

 ひとりつぶやきながら内線電話の受話器を上げたベストは、手短に秘書のソフィア・ショルとハンス・ショルにマリーの捜索を命じてあきれたように憮然とした。

 一方のヨストは苦笑してからペンを置く。

「もちろん」

 次席補佐官の声にベストは肩をすくめてみせた。

 ヨストの言葉の続きを、ベストにはわかっている。

「もちろん、中央記録所のファイルを持ち出しているだろうな。ベスト中将」

「……だろうな」

 勢いよく自分の執務机についたヴェルナー・ベストは、目の前に放り出した自分の手帳の隅を指先で叩いてからややすると目を上げた。

「もっとも、危機管理意識が少々低いとは言え、別にその辺の子供のようにすっ飛んで歩くわけでもあるまい。大概の居場所はわかっているのだからそれほど目くじらを立てなくても良いだろう」

 ハインツ・ヨストの指摘はもっともで、マリーが執務室にいないことが多々あるとは言っても、国家保安本部内にいることには変わりがない。

 中央記録所のファイルを中庭のベンチに持ち出して、しょっちゅう人事局長のブルーノ・シュトレッケンバッハから小言を食らっているが、一方で新長官の任に就いたエルンスト・カルテンブルンナーはそんな自由な少女の挙動にやや甘い傾向があった。

 ヴェルナー・ベストにしてみれば、重要書類を感慨に持ち出すことについては賛成しかねるところだ。

「カルテンブルンナー大将が、マリーに甘いのは困ったものだな」

 不機嫌そうに告げたベストに、ハインツ・ヨストは小さく含み笑いを漏らした。

「……なにか?」

「……いや、なんでもない。ベスト中将」

 ヨストはそう応じてから目の前に広げた書類に視線を落とした。

 彼女に甘いのはカルテンブルンナーだけではない。とつとつとした話し方をする愛想の悪いハインリヒ・ミュラーや、いかにも警察官僚然としたアルトゥール・ネーベもそうだが、ヴェルナー・ベストもヨストの見るところ充分にマリーには甘い。

 もちろん、そんなことを思っているヨスト自身も、マリーに対して甘くなっている自覚はあった。

「ハイドリヒ親衛隊少佐殿をお連れいたしました」

 執務室に響いた声と共に扉が開いて、ソフィアに連れられた少女が眠たそうな目をこすりながらあくびをかみ殺している。

 ショートカットのよく似合うソフィアは、形式的な礼をしてから親衛隊高級将校らの前から姿を消した。

 彼女と、彼女の兄のハンスはゲシュタポから目をつけられていたミュンヘン大学の学生運動の中心的な人物である。

 そんなリーダー格の彼らが国家保安本部の所属となって以来、ミュンヘン大学を中心とした学生運動組織――白バラ(ヴァイス・ローズ)の活動は小康状態を保っていた。

「どこへ行っていた?」

「……ミュラー局長のところに行ってました」

「ふむ」

 ベストに追及されても、特に後ろめたさを感じさせることもなく応じたマリーは、紳士的に差しだされたベストの腕に取りすがって眠りに落ちかかるように瞼を閉じる。

「眠れていないのかね?」

「……少し」

 放っておけば寝息でも聞こえてきそうな彼女の様子に、やれやれと溜め息をついたベストはマリーの体を支えながら執務机へと案内すると軽い音をたてて彼女の目の前に書類の束を置いた。

 そんなベストの様子には、さすがにヨストが短く笑ってしまう。

 甘いんだか、厳しいんだかわかりにくい首席補佐官に、マリーは書類の束がたてた軽い音にびっくりした様子で両目をしばたたいている。

「君がマイジンガー大佐に任せていた調査の報告書が一部上がっている」

 ぎすぎすとした権力にしか興味のない男だと思っていたヨーゼフ・マイジンガーには、マリーが全幅の信頼を寄せているというわけでもないのだろうが、警戒心のかけらもなく「ワルシャワの殺人鬼」と呼ばれるゲシュタポの捜査官に接している。そんな冷徹で冷酷な殺人の先導者は少なくともマリーに対してだけは雰囲気が柔らかくなったようにも感じられた。

 もっとも相変わらずその挙動はぶっきらぼうで、がさつそのものだ。

「……はい」

 観念したように今にも眠りに落ちてしまいそうな目を擦ってから、書類に視線を落とす彼女の頭はすぐに船を漕ぎ始める。

「マリー」

 背後に控えているベストから咎めるような声が飛んで、マリーは恨めしげな様子で特別保安諜報部最高階級の元裁判官を見上げた。

 上の瞼と下の瞼がくっつきそうになっている少女は、必死で眠気と戦いながらマイジンガーの書類を眺めているがはたして内容が頭に入っているかは謎が多いところだ。ヨストは肩をすくめながらそんなマリーに助け船を出そうとするが、彼の思惑はベストの視線でさえぎられてしまった。

 あくまでも仕事は仕事だ。

「ライプツィヒに向かう前に、その報告書だけは読んでしまうように」

 ベストの言葉は、まるで父親が娘に命じてでもいるかのようでもある。

「せっかくマイジンガー大佐が君の仕事のために徹夜で仕上げたのだ」

 無粋な男かと思えば、少女のことを思いやるようなところもあるものだ、とベストはどこか感心したようにヨーゼフ・マイジンガーのことを考えた。

 眠気に揺れる頭をこらえながら、マリーは「はい」とベストに応じるが、眠すぎるせいか「あい」とも「ふぁい」とも聞こえる。

 幸い、マリーの執務室に待機しているのはヨストとベストだけで、無粋な捜査官や血気盛んな親衛隊員は蚊帳の外にされていた。ふたりは思慮の浅い親衛隊の下士官や下級指導者たちとは格が違う。そんな彼らであればこそ、あるいは自分たちにとっても諸刃の剣になるような情報を扱って顔色を変えずにいられるのかもしれない。

 ベストに小言を重ねられながらも、睡魔に負けるのか時折完全に目を閉じて首を傾けている少女は体が揺れた衝撃に驚いたように目を開いた。

「……回復期に入っているというのに余り眠っていないというのは感心できないが、眠いなら少しコーヒーでも飲むといいだろう」

 ベストにアイスコーヒーを差しだされて、マリーはどこかぼんやりとした眼差しで彼を見上げてから「ありがとう(ダンケ)」と笑った。

 濃いめにいれたコーヒーはベストの秘蔵の品なのか、代用コーヒーの香りではない。

「よくそんなものが手に入ったな」

 感心した様子のヨストが口を開くと、ベストは余り動かない表情のまま親衛隊少将に振り返って首の後ろを手のひらで撫でる。

「シェレンベルク上級大佐が少し譲ってくれたのだ」

「なるほど」

 結局、そんなことをしてみてもマリーは睡魔から解放されずに、執務机に頬杖をついたままで眠ってしまったのだった。そんな少女に「やれやれ」と溜め息をついたベストだったが、彼女を無理に眠りの底から引きずり出すことはせずに、腕時計を見やってから首をすくめただけだ。

「わたしもマリーには甘い、というわけか」

「あれだな、顔色の悪い女の子が必死で仕事をしてれば、多少は甘くなってもやむを得まい」

 ヨストがさりげなくベストを援護するが、当の首席補佐官はその言葉に対して何のコメントもせずにかぶりを振っただけだった。


 余談になるが、マリーの隣のアパートメントの部屋に住む新婚夫婦はこの数日後に転居をしたのだと、彼女はミュラーから報されることになる。

 代わりに彼女の部屋の両隣には、独身のゲシュタポの捜査官である親衛隊員が入居したといういきさつがあったが、それはマリーの知るところではなかった。一説には、ゲシュタポの長官――ハインリヒ・ミュラーが手を回したのだともっぱらの噂である。

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