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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
IX ヘルヘイム
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1 愛国者

 ――ひたひたと。

 ひたひたと、忍び寄るかのような。

 そんな足音を響かせる。

 ともすれば、不穏な、とも表現してしまえそうなその足音は、まるで雨の暗がりの中を歩いているかのようでもある。

 それとも、と彼は思った。

 もしくはどこか、深い闇の奥から誰かに見つめられているのではないか?

 男はそんな不気味さを感じて軽くかぶりを振った。

 ”誰か”が自分のことを見つめている。

 ”誰か”が自分のことを監視している。

「……いや」

 違う。

 そうではない。

 得体の知れない、姿の見えない「誰か」にとっては「彼という自分」は、観察対象のひとりではないのだろうか。

 不快感のように彼の真後ろに這い寄るその感覚にアルベルト・シュペーアはひとり執務室のデスクについたままでぞわりと肩を震わせた。

 ――なにかが、おかしい。

 ……けれども、”何”が?

 自問自答するシュペーアは自分のデスクの鍵の掛けられた引き出しにそっと指先で触れる。

 数秒間黙り込んだままで考え込んだ彼は、小さな溜め息をついてから額に落ちてくる前髪を指先でかき上げると机に頬杖をついた。目の前の中空を見据えて考え込んだ彼はややしてから、窓の外に視線を向けてから机上の書類の角に指で触れる。

 そうしてシュペーアは再び視線を机の上に向けると、無造作に置かれたままのファイルの文字にそっと片目をすがめた。

 ルーン文字でSSと記されている。

 確かにシュペーアはナチス党の幹部であり、現在は軍需大臣――正確に言えば兵器・弾薬大臣――の任にあるが、決してナチス親衛隊の隊員ではない。

 もっとも、シュペーアが入党したばかりの頃、当時はまだ突撃隊(SA)の下部組織であった自動車運転手連合(NSKK)に入団してはいたから、親衛隊と全く無関係だというわけでもないのではあるが。

 何度目かの溜め息をついてから彼はファイルを開いた。

 ナチス親衛隊と言えばその長官の職にあるハインリヒ・ヒムラーの顔が思い浮かぶ。ヒムラーは小心者で器が小さな男だが、そんな彼が束ねる組織は強大な権力を有している。中でも恐るべきはドイツ全土の警察権力のトップにいるということだった。

 ファイルを開いたシュペーアは黙り込んでから、そこに記された文面を目で追うと、それから考え込むように視線を室内に彷徨わせた。

 ヒトラーを含めた政府高官が新型爆弾の研究に対して理解が乏しいのは言うまでもないが、このままではドイツの負けが込んでくるような事態となるだろう。

 東部戦線におけるソビエト連邦の内乱は思わぬ不確定要素ではあったが、だからといって全ての事態が好転するほど楽観的な話でもない。現状、ソビエト連邦とアメリカ合衆国の間に亀裂が深まりつつあるが、それでも、いつなんどき事態が変化するとも限らないというのが現状だった。

 このままではドイツという国に待っているのは破滅だけだ。

 ファイルの中に挟み込まれた書類を睨み付けたままで考え込んだアルベルト・シュペーアは、やがて立ち上がりながら電話の受話器を取りあげた。

 ――ドイツの兵器開発の重大な問題について。

 ファイルの書類の出だしにはそうタイプされていた。



「問題が山積みだな」

 ティルピッツ・ウーファーを訪れたシェレンベルクに、カナリスは独白するようにそう告げるとやれやれと溜め息をつく。

「……ところで、シェレンベルク上級大佐。君の見立ては間違っていないとは思うが、それが果たして軍需大臣を説得する材料になるという確証はあるのかね?」

「少なくとも、軍需大臣は他の”御方々(おんかたがた)”とは違い、遠方もよくご覧になれる方であると思っております。ですから、このたびの重大な問題となるであろう可能性が発覚しているとなれば、必ず興味を引かれることと思いますが」

 告げられたヴァルター・シェレンベルクの言葉に、国防軍情報部(アプヴェーア)の長官を務めるヴィルヘルム・カナリスは顎に手を当てると「ふむ」とつぶやいてから、目の前に差しだされた親衛隊(SS)のファイルを受け取った。

「原子爆弾開発計画情報の漏洩の可能性、か……」

 確かに戦局は悪化の一途を辿っているし、状況も思わしくない。

 占領地区が増えれば増えるほど、不穏分子は増えていくわけであるし、不満を抱える多くの人間がいることもまた事実だ。それらを考えると、どこから情報が漏洩してもおかしくなはかった。

 目先の利く一部の者は、ナチス党(NSDAP)が権力を握った一九三〇年代初頭に外国へと逃亡を果たしていた。それらを併せて考えると、すでに多くの情報は英米仏の連合国へと流出していると考えたほうが賢明だろう。

「問題が問題でございますので、アプヴェーアと連携を持つべきかと思いまして」

「手回しが早いな」

 短い言葉でシェレンベルクの判断を評価したカナリスは、年若い親衛隊情報部の将校が持ち込んだファイルをめくって視線を走らせる。

「どこまで流出していると貴官は思う?」

 問いかけたカナリスに、シェレンベルクはぼろぼろのソファに腰掛けたまま膝の上に肘をつくと、数秒の逡巡を挟んで口を開いた。

「おそらく、かつてのカイザー・ヴィルヘルム研究所の所長を務められましたアインシュタイン博士の亡命を考慮しまして、我々が思う以上の情報が漏洩しているものと」

「……ユダヤ系知識人、か」

 カナリスは眉をひそめるとファイルをテーブルの上に置いてから腕を組み直す。

 ナチス党の指導のもとで、多くのユダヤ系知識人たちがその職を解雇された。それらについてカナリスもシェレンベルクも多くのことは語ることをしない。

 あえて話題にしなかった、と言えば良いのかもしれない。

「アーリア化、とは言ってもあれだけの人数となれば党も国民の目をそらすことは不可能だろうからな」

 言葉少なにそう告げたカナリスに、シェレンベルクは「えぇ」と頷いてから、机の上に投げ出されているファイルをめくる。

「現在のところ、イギリスは海軍(クリークス・マリーネ)による通称破壊工作によって大きくその力を削がれつつありますので問題は小さいかと思われます。内戦状態に陥っているソ連も同様です。フランスについては、本国が占領されておりますので、レジスタンスが頭痛の種ではありますが、シャルル・ド・ゴールの亡命政府が我が国の新兵器開発計画を妨害するような力は持たないものと思われます」

 スイス連邦は、先日の赤いオーケストラ(ローテ・カペレ)の摘発に際して、親衛隊情報部によって恫喝を加えているから連合国と同調して動くと言うことはないだろう。

「回りくどいな、結論を言いたまえ。シェレンベルク上級大佐」

 カナリスに促されて国家保安本部の国外諜報局長は静かに笑った。

「申し訳ありません」

「つまるところ、君は、問題はアメリカだ、とでも言いたいのかね?」

「……はい、提督」

 問題はアメリカである。

 言われるまでもない。

 それはカナリスにもわかっていた。

「アメリカの武器貸与(レンドリース)法の適用についてですが、ソビエト連邦に対する援助は、スターリンの”圧政”が暴かれるに従って縮小の一途を辿っています。ですが、ソ連に対する支援が縮小されたからと言って、アメリカ国内の武器、及び兵器の生産数が減少するわけではありません。北アフリカ戦線へのアメリカの支援については、現地での伝染病の蔓延によって滞りつつありますが、それについても同じです。要するに、アメリカの生産力に影響が出るほどの話ではないと、小官は考えております」

「つまり、貴官は今でもアメリカが強力な瞬発力を秘めている、と考えているのだな?」

 シェレンベルクに、カナリスが言葉を返すと青年は無言のまま頷いた。

 アメリカ合衆国の驚異的な瞬発力。

「提督はそのようには思われませんか?」

「……もちろんわかっている。なによりもアメリカ本土は巨大な海の存在によって戦争から免れている。奴らは常に安全な場所から正義の使者を気取っているだけだ。だが、そういった(やから)が我が国の原子爆弾開発計画を掴んでいるとなれば危険な話だぞ?」

 カナリスもシェレンベルクも連合国側の知識人たちを過小評価するつもりなど全くない。

 楽観主義的な政府首脳部と比較すれば、彼らはいっそ残酷な程現実的だった。

「そうです。ですから、わたしはこの件についてウラン・クラブに探りを入れたいと考えておりますが、提督のご意見を伺いに参りました」

「……裏切り者はどこにでもいる、というわけか」

 老練な諜報部員は視線を床に落としたままでシェレンベルクの言葉に耳を傾けた後にそう告げると、自分のことを見つめている青年に視線を投げかけてからソファに深く背中を預けると、腕を組み直した。

「仮にドイツとアメリカで同じ新型爆弾が完成したとする。その新型爆弾は、爆弾である以上戦争の道具となるだろうが、この報告書を見る限りその性能は既存の爆弾を大きく上回る殺傷能力を持つということになる。この場合、この新型爆弾は、互いの戦争行為に対する”抑止力”にはなるともとれるが、それについて貴官はどのように考える?」

 真剣なカナリスの言葉に、シェレンベルクは小首を傾げた。

 その新型爆弾は、試算の上ではおそらく街ひとつを簡単に吹き飛ばすことになるだろう。それを運ぶ手段も問題となるが、それはそれだ。

「戦闘行為の抑止力のひとつにはなると思われます」

「……恐ろしいものだな」

 想像したのか、わずかに血の気のひいたカナリスの顔は青白い。

「ですから、我が国の研究成果を流出させてはならないのです。もしも、それをアメリカが知れば、ベルリンは最悪の場合、火の海に飲み込まれることになるでしょう……」

 現在、国防軍の主導で進められている新型爆弾の開発計画。

 その計画の一部が流出している可能性がある。そう告げたシェレンベルクにカナリスは口元に手を当てて考え込んでから、しばらくすると小さく頷いた。

「わかった、こちらから国防軍最高司令部(OKW)に連絡を取ろう。だが、なにぶん高官共がこの計画には乗り気ではない、余り期待はしないでおいてくれ」

「お気になさらないでください、”彼ら”が、情報戦についても理解がないことは存じておりますので」

 苦笑したシェレンベルクはそうして、カナリスに差しだされた手をしっかりと握りかえして立ち上がった。

「シェレンベルク上級大佐」

 失礼します、とブーツの踵を鳴らしたシェレンベルクをカナリスが呼び止める。

「なんでしょう?」

 そんなシェレンベルクの足元に、年老いたダックスフントがまとわりついた。

「マリーによろしく。たまには遊びにおいでと伝えておいてくれ」

「伝えます」

 告げてから陸軍式の敬礼をしたシェレンベルクは今度こそカナリスの前から姿を消した。

「裏切り者、か……」

 執務室にひとり取り残されたヴィルヘルム・カナリスは、ソファに座り込んだままでシェレンベルクの持ち込んだファイルに視線を落とす。

 ――裏切り者。

 それは果たしてどういう意味か。

 国家に対する裏切り。

 国民に対する裏切り。

 それとも、ナチス党(NSDAP)に対する裏切りなのか、アドルフ・ヒトラーに対する裏切りとなるのか。

「失礼します」

 考え込んでいるカナリスの耳に聞き慣れた声が、扉が開く音と共に聞こえた。

「よろしいんですか? 提督」

 首席補佐官、ハンス・オスターの声にカナリスは目を上げる。そうしてシェレンベルクのファイルを手にした彼は、それをオスターに差しだした。

「彼は、純粋な”愛国者”だ。気に病むことはない」

「……承知しました」

 シェレンベルクのファイルを受け取りながら、オスターはこつりと踵を鳴らす。

「ですが、それでもああした若い知識人たちがナチスの手先になっているということは、国家の損失です」

 淡々と言葉を綴ったオスターは、それ以上の感情をことさら表に出すことをせずに国防軍情報部の長官を見つめた。

「全くだ」

 ありとあらゆる手段を使ってナチス党は多くの知識人たちを自分たちの組織へと引き込んだ。ナチス党が実権を握る前からの知識人たちの一部はまだ分別がある者もいるから、そのあり方に疑問を持つ者もいる。

 しかし若者たちが問題だ。

 世界中を巻き込んだ大恐慌と、それにまつわる政治的混乱。さらに社会的な安定を欠いた時代に青少年期を過ごした若者たちは、それらの社会的熱狂に飲み込まれ多くの者がヒトラー率いるナチス党のカルト的な思想に影響を受けた。

「だが、国家保安本部の一部の高官共は、ナチスの思想など屁とも思っていはしまい」

「……彼もまたそうだ、と?」

 オスターに問いかけられたカナリスは、テーブルの端に置かれた新聞に手を伸ばしながら目を伏せた。

 ラインハルト・ハイドリヒ。

 死んだあの男が”そう”であったように。

 ヴァルター・シェレンベルクもまた冷徹なほど計算高い。

「その資料の分析を”任せ”た」

「はっ」

 カナリスに告げられて敬礼をしたオスターは、シェレンベルクのファイルを小脇に抱えたままで国防軍情報部長官の執務室を退室した。

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