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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
VIII ソドムとゴモラ
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15 引き金を引け……!

 勢いに乗ったロコソフスキーのブリャンスク方面軍はスターリングラード方面の部隊の一部を飲み込みながら進撃する。さらに、そんな彼の部隊と挟撃する形でヴァシリー・チュイコフのソ連赤軍第六二軍に襲いかかったクズネツォフの別働隊の存在は、スターリングラード防衛を任されたチュイコフにとって致命的な脅威につながった。

 北方のスターリングラードにもうすぐ冬が訪れる……。

 それは昨年のバルバロッサ作戦を失敗を目の当たりにしているドイツ国防軍にとって、なんとしてでも避けなければならない事態であった。

 短い秋が来て、長い冬が訪れる前に決着をつけなければならない。

 それはドイツ軍首脳部にはわかりきっていたし、ドイツ軍の実力を認めるフルシチョフを擁立するソ連革命軍の首脳部にもわかりきっていた。

 冬のソビエト連邦で戦うだけの力をドイツ軍は持っていない。

 結論だけを言うならば、冬の戦争に持ち込めばソ連軍に勝機は見える。しかし、ヨシフ・スターリンに対抗するためには、不本意ながらドイツの力を借りなければならないのも事実だった。

 自分たちの力だけで革命を成功させることができれば、これ以上のことはないのだが、いかんせん軍と政治の全てを掌握しているスターリンを相手に戦うには、フルシチョフやクズネツォフの力は小さすぎる。

 レンドリース法による、スターリン・ソ連との条約を遵守(じゅんしゅ)しようと躍起になるアメリカ合衆国は、北アフリカ地方、及び東南アジア方面で拡大する天然痘の脅威に及び腰になりつつもスターリンに対する軍事支援を続けている。

 今のところはまだ、アメリカにとってスターリンはソビエト連邦の政治的指導者なのだった。

 丁度この頃、ニキータ・フルシチョフはモスクワのごく近い小さな街であるコロムナからヨシフ・スターリンことヨシフ・ジュガシヴィリはソビエト連邦最悪の犯罪者であるとして、自分こそがソビエト連邦を正式な国家元首であると世界的に発表した。

 世紀の犯罪者であるスターリンに対し、これ以上の支援を行うことはソビエト連邦人民に対する犯罪である。

 こうしたフルシチョフの言動に激怒したスターリンは、アメリカ合衆国に対してこれまで以上の軍事的支援を要求し、さらにフルシチョフらの一派に加わった多くの人間たちを強制収容所(ラーゲリ)に追い込んでいた。

 これらの事情から米ソの関係は悪化の一途を辿っており、再三、スターリンに対して国民に対する人道的な扱いを要求するアメリカに、スターリンは内政干渉であるとその要求を突っぱねていた。

 曰く――君らはドイツの味方なのか、それともわたしの味方なのか!

 そう激昂したスターリンに、難色を示したのはフランクリン・ローズヴェルトの後継者となったヘンリー・ウォレスだ。

 イギリス、フランスと同盟を組んでいるアメリカにとってみれば、もちろんドイツの味方などであるわけがない。しかし、フルシチョフらによって暴露された数多くの残虐なスターリンの圧政と国民に対する卑劣な弾圧は、自由と博愛を旨とするアメリカ合衆国にはとても受け入れられるたぐいのものではない。

 米ソ関係に深刻な亀裂が深まりつつある頃、ドイツ国防軍フリードリヒ・パウルス大将のもとを数名の部下に守られたひとりのソ連政治将校が訪れたのは八月の下旬だった。

 スターリングラード方面軍の反スターリン派をとりまとめたブリャンスク方面軍コンスタンチン・ロコソフスキー将軍の伝令だ。

 自分は元内務人民委員部(NKVD)の政治将校であるとその男は告げた。

「現在、フルシチョフ同志の率いるクズネツォフ将軍の別働隊とロコソフスキー将軍の部隊によってスターリングラードの防衛を任されているチュイコフ将軍を包囲しつつあることは、パウルス将軍にも理解されているだろうと思われる」

 堂々とした物言いにパウルスは気難しげな眼差しを上げてから、自分よりも年下のソ連の政治将校を見つめた。

 彼らは将校とは呼ばれているが正確には軍人ではない。

 パウルスはそう考えていた。

「現在、第六二軍に対する物資、兵員の補充が滞っておりその戦力は大幅に低下している。これを受けてロコソフスキー将軍とクズネツォフ将軍は、チュイコフとジューコフに対する総攻撃を八月二五日に開始するとのことだ」

 淡々と言葉を綴る政治将校はロシア訛りのドイツ語でそう言った。

「……わたしの役目はドイツ軍への伝令だ。事の真偽を疑われているだろうから、わたしのことは拘束してくれて構わない。クズネツォフ同志は……」

 政治将校の男はそこで一度言葉を切った。

ドイツ軍(あなたがた)に理性ある判断を求めたい、とのことである」

「なるほど……」

 ロシア人の政治将校の言葉を受けて、長く考え込んでいたパウルスはぽつりとそうつぶやいた。

 陸軍参謀本部東方外国軍課からの報告では、ソ連赤軍内部で深刻な勢力争いが始まっているらしいということは聞いていた。つい先頃、ソ連革命軍を名乗るふたりの将軍の手によってコーカサスと南ウクライナの軍事的要所が制圧された。

 これらの地域はドイツ側に引き渡されて早急に武装解除が行われて、現在はドイツの占領下にある。ヴォルガ川からの物資の補給を立たれた赤軍第六二軍は孤立し、状況は逼迫しつつあった。

 そこにきてスターリングラード防衛線の一翼を成していたはずのブリャンスク方面軍の裏切りだ。

 ドイツにとって大きく有利に働く材料に対して、フリードリヒ・パウルスは都合が良すぎるものと疑惑を向けていた。

 ソ連革命軍を名乗る彼らの存在こそ、スターリンの思うところなのではないのか、と。

 確かに、情報を分析すればするほど八月の末こそがスターリングラードに対して総攻撃をかけるチャンスなのではあるが、問題もある。

 空軍の猛爆撃によって都市部に機甲部隊を投入することが困難となったのだ。

 伝令を任された政治将校がパウルスの前から退室し、執務室に残された彼はテーブルの上に広げられた地図を見下ろして腕を組んだままでうなり声をあげる。

 空軍の突出した考えなしの行動の結果が、陸軍の不利益として働いている。もちろんゲーリングもこんな結果になるとは思っていなかったというところもあるだろう。

 だが、作戦行動とは常に最悪の結果を想定してはじめなければならないのだから。



  *

 今に始まったことではないが、マリーの行動は謎が多い。

 順序立てて考えているのかと思えば、とてもではないがそうは思えないこともある。

 アドルフ・ヒトラー警護隊から引き抜かれたナチス親衛隊の護衛官を伴って、マリーはひとりでベルリン市内の屋敷を訪れていた。

 きょろきょろと辺りを見回している様子はどう見てもただの不審者だ。

 困惑した様子で彼女の後ろについているフィールドグレーの親衛隊の制服を身につけた長身の青年は、何度目かの溜め息をついてから口を開きかける。

 唐突に持ち上げられた日傘に、青年は驚いて手をかざすとその先端を柔らかく受け止めた。身長の関係から、危うく青年の顔に日傘の先が刺さるところだった。

少佐殿シュトゥルムバンヒューラー……っ!」

 危ないと苦言を申しつけようとすると、少女は青年に「ごめんなさい」と笑いかける。

 発育の悪い十代半ばの痩せた少女と、屈強な親衛隊の下士官というふたりの姿はひどく人目を引きつけた。

 良くも悪くも目立つのは、青年の袖に「SD」の袖章が縫い付けられているからだった。

 一介の下士官などに、マリーがなにを考えているのか知りようもない。なにせ、彼女を補佐するベストやヨストにすら知り得ないのだ。

 実働部隊であり、護衛官でもある下士官などにわかるわけがない。

 それにしても、と下士官の青年アドルフ・ヘルマーは思った。

 ――彼女(マリー)はどうして陸軍参謀本部(こんなところ)を訪れたのだろう。

「……あ!」

 青年がそんなことを考えていると、マリーは目的の人物を見つけたのか叫ぶように声を上げると骨折のしていない右手を挙げる。

 肩に置かれた品の良い日傘はマリーの身じろぎにあわせて小さく揺れた。

ハルダー上級大将ゲネラール・オーバースト・ハルダーー!」

 ぶんぶんと右腕を振っている少女にフランツ・ハルダーは視線を留める。

 まるで祖父に会いに来た孫娘かなにかのようだ。

 丁度、参謀本部の入り口から出てきたハルダーは背後に控えている自分の副官に横目に目配せをしてから、大股に少女へと歩み寄る。

 先日のヒムラーとの会談に彼女がいたことを考えると、さしずめ親衛隊全国指導者の切り札といったところなのだろう。

 もっとも老練なハルダーからしてみれば、どうすればこんな少女が切り札になるのか理解に苦しむところだ。

「親衛隊の将校殿がこんなところに何の用かね?」

 現在の逼迫した北アフリカと、東部の状況に陸軍参謀本部総長のフランツ・ハルダーは多忙を極めている。これに加えて、国家元首であるアドルフ・ヒトラーとの関係も悪化しつつある。

 ヒトラーが国防軍の重鎮たち――戦争のプロたちを好ましく思っていないことは知っている。

 その原因はせいぜいアドルフ・ヒトラーの経歴によるものなのだろうが。

 そうハルダーは思う。

 もっとも、優れた選手が優れた監督ではないということは周知の事実なのだから、戦争などプロに任せておけばいいではないか。

 事細かに作戦行動に口を出してくるヒトラーの存在がハルダーには面白くない。面白くないと言えば、 国防軍最高司令部(OKW)総長のヴィルヘルム・カイテル元帥もそうだ。

 ヒトラーのイエスマン。

「わたしは子供の相手をしている程暇ではないのだが」

「ごめんなさい、ハルダー閣下」

 つけつけと告げるハルダーににっこりと笑ったマリーは、相手が自分の頬を張った”おっかない”陸軍高級将校だということも気に掛けていないようだ。

「閣下が忙しいのはわかってたんですけど、どうしてもお話しがしたくて」

 にこにこと笑っている彼女に毒気を抜かれて肩を落としたハルダーは、背後で時間を気にしている副官に片手を振った。

「そういえば君は先日暴漢に襲われて骨折したのだと聞いたが、傷はもういいのかね?」

「たまに痛いですけど、大丈夫です」

 強面(こわもて)のハルダーに気後れもせず応じたマリーは、邪魔になる日傘を閉じながら初老の男を見上げた。

「少しなら時間を作れるな、こっちに来なさい」

「ありがとう」

 病的に顔色が悪い少女を気遣ったハルダーが、参謀本部の応接室へと案内すると少女はハンカチで額の汗を拭いながらソファに腰を下ろしてから息をついた。

「それで、どうしたのかね?」

 本来であれば、参謀本部の長官であるハルダーに対して礼儀を払った言葉使いをしなければならないのだが、マリーは階級に頓着をすることもせずにハルダーの瞳をじっと見つめる。

 ちなみに、フランツ・ハルダーは婦女子とは言え無礼千万な相手に「威勢の良い奴だ」と寛容になるような悪趣味はない。

 マリーのそれは、本人としては礼儀を払っているつもりなのだということを、ハルダーは理解しているし、相手が世間を知らない子供となれば、いかに国家保安本部に所属しているとは言え認識も甘くなるというものだった。

 差しだされた氷の落とされた水を注がれたコップを受け取ってマリーは、口元に指先をあてると数秒だけ考え込んだ様子だ。

 平凡な少女であれば、以前会った時に自分のことを張り飛ばした年上の男にこうして笑顔で会いに来るなどしないだろうが、マリーはそうではなかった。いや、少女でなくても参謀本部の長官に殴られれば萎縮するというのに、彼女はそんな気負いはかけらも見せない。

「わたしは軍人さんじゃありませんから、戦線の事情なんて知りませんけど……」

 またその話か、とハルダーが眉をひそめかけるとマリーが続ける。

「もしも閣下が”国益を損なうような”情報をお持ちでしたら、”わたしは”いつでも協力します」

 そう告げた彼女の言葉をハルダーは一瞬理解し損ねる。しかし、その言葉は「どうとでもとれる」内容を含んでいて、老練な参謀総長はぎょっとした様子で肩を揺らした。

「国家保安本部は警察です。それは閣下も知っていると思いますが、創設された頃から、わたしたちは大ドイツの味方であってそれ以上でもありませんし、それ以下でもありません」

 数ヶ月前に死んだラインハルト・ハイドリヒに率いられた強大な権力機構。

 国家保安本部(RSHA)

 その権力は時に、政府高官や党高官たちのそれをも凌ぐ。

 たったひとりの親衛隊大将オーバーグルッペンヒューラーは、恐怖の代名詞だった。

 ドイツ国内にあって粛正を一手に引き受ける悪辣な組織は、新長官に就任したエルンスト・カルテンブルンナー親衛隊大将の手によって息を吹き返しつつあった。

「……君は、誰の味方なのだね?」

 問いかけるハルダーの声が知らずに掠れる。

「……”わたし”は、”わたし”のために。閣下ゲネラール・オーバースト?」

 応接室にはフランツ・ハルダーとマリーしかいない。

 ぞっとするほど静かに響いたマリーの言葉に、そうしてハルダーは言葉を失った。



 スターリングラード戦線の戦局が最終局面を迎える中、陸軍参謀本部東方外国軍課のラインハルト・ゲーレン大佐のもとに重大な情報が舞い込んだ。

 ――ソビエト連邦内務人民委員部(NKVD)の長官、ラブレンチー・ベリヤが行方不明となったらしい。

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