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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
VIII ソドムとゴモラ
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14 ウラン・クラブ

 国家秘密警察(ゲシュタポ)刑事警察(クリポ)の執拗な捜査にかかわらず、国家保安本部に在籍するナチス親衛隊の中級指導者、マリア・ハイドリヒ親衛隊少佐を襲撃した犯人は逮捕できないまま八月も下旬に入った。

 捜査は遅々として進まないものの、襲撃を受けた当人はそれに余り関心がないようで、骨折をしたもののプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセで自由気ままに振る舞っている。

「マイジンガー大佐」

 呼び掛けられて国外諜報局特別保安諜報部に在籍するゲシュタポ上がりの捜査官であるヨーゼフ・マイジンガー親衛隊大佐は、肩をすくめるようにしてから声の主を振り返った。一通のファイルを手にした少女が小走りに駆けてくる。

 骨折をしている彼女が走ることに対して、護衛官も務めるアルフレート・ナウヨックス親衛隊少尉は余り良い顔をしないが、正直なところを言えばマイジンガーは走るくらい問題ないではないかと思う。

 子供は元気なことが一番だ。

 隙があればこんな子供はいつでも蹴落とすことができるだろう。しかし、今のマイジンガーには注意を払わなければならない人間が彼女の周りにいることも理解していた。

 裁判官出身のヴェルナー・ベストと、弁護士出身のハインツ・ヨスト。どちらも国家保安本部の初期を支えた知識人で極めて頭が切れる。なによりも面倒臭いのはヴェルナー・ベストがマイジンガーのことを好ましく思っていないという事実だった。

「どうした?」

 マリー。

 そう彼女の名前を呼んでから、マイジンガーは三度(みたび)溜め息をつくと肩を落とすと目の前で前方に思い切りつんのめった彼女を抱き留める。

 ヨストやベストらの彼女に対する呼び方に、すっかり毒されてしまったようだ。それが自分に関して良い変化であるかどうかはともかくとして、なにやらおもしろくないものを感じないわけでもない。

「蹴躓いてばかりいるからナウヨックスが良い顔をしないんだろう。少しは転ばないように気遣うということはできないのか?」

 小言のような言葉が出るのは、特別彼女を心配しているからではない。ごく一般的な注意の範疇だ。

 腕の中に降ってきたのはひどく軽い体だ。

 痩せすぎて年頃の少女らしい丸みがない。

「ごめんなさい」

 受け止められた拍子に骨折した箇所の痛みが響いたのか、少女は笑顔の次にわずかに顔をしかめてからマイジンガーを見上げた。

「それで、君が補佐官方を介さずにわたしに用事というのも珍しい。どうした?」

「あのですね」

 少女はマイジンガーに支えられながら立ち上がると、小脇に挟んでいたファイルを差しだした。

「大佐はワルシャワで大規模なユダヤ人の摘発を行って成功してますよね? それで大佐にお願いしたいことがあるんです」

 マイジンガーはかつてゲシュタポにあって多くの捜査に関わっていた。

「……わたしに?」

「はい」

 にこりと笑ってからつま先立ちになるとマイジンガーの手にファイルを手渡しながら手を口にあてて耳打ちする。

 まるで内緒話でもするような格好に、マイジンガーは思わず腰を小さく屈めてみせた。

 丁度そのときだ。

 こつこつと踵を鳴らすブーツの足音と共に、「マリー」と彼女の名前を呼び掛ける低い声が飛ぶ。

 第三局――国内諜報局長オットー・オーレンドルフ親衛隊中将は、きびきびとブーツをはいた足を進めながら、国家保安本部の廊下でマイジンガーに背伸びをしている少女に大股に近づいた。

「はい?」

「シェレンベルクが探していた。早めに行ってやれ」

 そう告げてからオーレンドルフは「それと」と付け加える。

「それが終わった後でいい。俺の執務室(へや)に来てくれ」

 事実上、ハインリヒ・ヒムラーの指揮下にあり、ほぼ完全な行動の自由を手にしているマリーは、しかし名目上はシェレンベルクの国外諜報局の指揮下にある。

「はーい」

 ヨーゼフ・マイジンガーは自分よりも階級の高いオットー・オーレンドルフに敬礼をするが、一方のマリーはと言うと親衛隊中将の元弁護士に頭をかき回されて、軽く目をつむってから首をすくめた。

 彼女は、とマイジンガーは思う。

 良くも悪くも自分本位で自由気ままだ。

 上官に対する無礼な態度も、当の高級指導者たちが容認してしまっているのだからしがない親衛隊大佐のマイジンガー如きが口を挟む問題でもない。

「なに、大した問題ではない」

 片手を肩の上で軽く振りながら、そう言い残したオーレンドルフはふたりの前を立ち去った。

「オットー・オーレンドルフ、か……」

 口の中でひとりごちたヨーゼフ・マイジンガーの言葉は誰に聞かれることもない。そっと冷たい目をすがめて男は自分の傍に立つ少女を目玉だけを動かして見下ろした。

 地位を望むわけでもなければ、名誉にも興味を持たない。無関心と思える程、執着心の薄いマリーは多くの国家保安本部の高官たちから非常な特別扱いをされている。

 それについては不審なものを感じることもあるが、問題になるのが親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの態度で、彼こそが一番にマリーを特別扱いしているとも言えるだろう。

「シェレンベルク上級大佐殿が待っている。早々にあちらに顔を出した方が良いだろい」

「そうします」

 踵を返して歩き出しかけた彼女にマイジンガーが言葉を放った。

「走るなよ」

「はい」

 にっこりと笑顔をたたえた彼女は、まるでセイレーン(ジレーネ)のようだ。ヨーゼフ・マイジンガー自身を含めて多くの者を虜にする。

「じゃ、そちらの件はお願いします」

 廊下を抜けて国外諜報局長の執務室へと向かったマリーは扉を開いてから、見慣れたヴァルター・シェレンベルクの瞳にかち合った。

「傷の様子はどうだ?」

 言いながら立ち上がって内線電話の受話器を取りあげた青年は、電話口に向かって茶と菓子の準備を命じると白い三角巾で吊された彼女の左腕を見つめる。

親衛隊長官閣下ライヒスヒューラー・エスエスが随分と心配をされていた」

「まだたまに痛みますけど大丈夫よ」

「そうか、警察(ポリツァイ)が捜査を進めているが、なかなか犯人の検挙までに至らないのは不甲斐ないことだな」

「……大変なんですね」

 襲撃されたのは自分だというのになんともトンチンカンな返事をするマリーをソファに座らせてから、シェレンベルクもゆっくりと彼女の向かいに座った。

「ところで、マリー」

 シェレンベルクは秘書の運んできた菓子を彼女にすすめながら長い足を組み直す。

「ウラン・クラブ、と言うのを知っているか?」

「……んー、物理はあんまり得意じゃないけど、極秘兵器開発計画のひとつよね?」

「よく知っている」

 マリーの返事に心地よい笑い声を漏らしたシェレンベルクに、少女はマフィンを手にしながら首を傾げると目の前の男をじっと見つめる。

「中央記録所にファイルがあったから少しは」

「あそこの記録は膨大だ。全部読んだのか?」

 シェレンベルクの問いかけにマリーは一瞬だけ視線を彷徨わせてから唇を尖らせた。

「……シェレンベルクは意地悪ね」

 中央記録所にある膨大な資料を全て読み切ることなどできるわけもない。ヴァルター・シェレンベルクはそれを知っていて彼女に問いかけたのはもちろんのこと、彼女の答えもわかりきっている。

「俺はSDだからな」

「それで、ウラン・クラブが”どうかした”の?」

 ウラン・クラブ――一九三九年からはじめられたドイツ第三帝国の新型爆弾の開発計画の暗号名だ。

 ドイツ本国、占領地区の全てから物理学者を招集して研究が続けられている。

「アメリカに亡命したカイザー・ヴィルヘルム研究所の物理学研究所所長の件もその分だと把握しているな?」

 そう告げられてマリーは甘いマフィンをくわえたままで目を上げるとシェレンベルクを観察する。

 ウラン・クラブ。

 カイザー・ヴィルヘルム研究所。

 不穏な言葉が飛び出す中でマリーは普段と大して変わらない表情のまま、マフィンと紅茶を口に運んだ。

「えーっと、アルベルト・アインシュタイン博士だったかしら?」

 一九三〇年にアメリカに渡り、二度とドイツに戻ることのなかったカイザー・ヴィルヘルム研究所の物理学研究所の所長を務めた高名な物理学者で、名前をアルベルト・アインシュタインという。

 彼は一九二一年にノーベル物理学賞を受賞した。

 しかしナチス党にとっては反逆者でしかない。

「そうだ。彼が今アメリカに住んでいることは知っているな?」

 問いかけられる言葉にマリーは花のような笑顔を向けた。

 ウラン・クラブと新型爆弾、カイザー・ヴィルヘルム研究所とアインシュタイン。その関係性を遠回しに語るシェレンベルクに対してマリーは臆することもない。

「つまり、シェレンベルクはドイツの秘密をアインシュタイン博士が握っているとでも言いたいの?」

 言いながら小首を傾げた彼女にシェレンベルクは大きく頷いた。

「おそらく、ドイツにとって大きな秘密が漏洩していると見ている」

「でも博士はアメリカで事実上保護されているようなものなら、手出しできないんじゃないかしら?」

「……そう、だがアメリカも黙ってはいまい。おそらく、アインシュタイン博士の提言を受けてあちらでも対抗手段を講じてくるだろうと思われる。どうだ? 少しでも興味があるなら物理学者共に会ってみるか?」

「つまり、新型爆弾対新型爆弾。そしてその威力は想像できないほど強大だ、と?」

「そうなるだろうな」

 物理学、と言われて想像が追いつかないのか小首を傾げたままの姿勢でマリーは何度か目をしばたたかせた。

「でもそんな人たちにわたしが会ってどうなるっていうの?」

 もっともな問いかけにシェレンベルクはかすかに笑う。

「そうだな、別に君が彼らに会ったからといってどうというわけでもないが、問題は別だ。情報を外国に漏らしている奴がいるかもしれないということが問題だ」

「つまり、彼らの反応を見たい、ということでいいのかしら?」

「俺と子供相手なら、奴らもガードが緩くなるだろう。そこを狙う」

 三十代前半のシェレンベルクと、十代のマリー。

 しかもふたりが共に中級指導者ならば相手の懐に潜り込むのは比較的容易なはずだ。そんな計画にマリーはしばらく考え込んだ様子だが、「子供」と一蹴されたことに対して腹を立てることもせずにこくりと頷いた。

 それが「局長」の命令であれば否やはない。

 それからシェレンベルクは、この計画について国家保安本部の新長官エルンスト・カルテンブルンナーの承認を得て実際の行動に移ることになるが、問題がドイツの新型兵器に関わることであるというデリケートな問題ゆえに国防軍情報部もシェレンベルクらに荷担することとなった。

 上官であるシェレンベルクとの面会を終えてから二時間ほど後、マリーはオーレンドルフの執務室に据えられたソファに横になったまま寝息をたてている。

「いいんですか?」

 秘書に問いかけられてオーレンドルフが苦笑した。

「骨折をして、男の俺たちと同じように毎日仕事をしているんだ。たまには休ませてやらんと病気になるからな」

 シェレンベルクの執務室でマフィンを。

 オーレンドルフの執務室で焼きたてのパンを食べてすっかり満腹になってしまった少女はやがてソファに横倒しになって眠っている。

 ここのところ忙しさのために顔色が余りよくないこともオーレンドルフも理解していた。ゲシュタポのアイヒマンなどはぶちぶちと文句を言いながらも少女の面倒をみてやっていて、それはなんともほほえましいのだが、この一週間ほどの間にマリーの足元の悪さに拍車がかかった。

 よくつまづいては特別保安諜報部の面々に支えられている。

 顔色の悪さとの最近の仕事量を考えればマリーが疲れていてもおかしくはない。それらの状況から判断してオーレンドルフは、少女が来る時間にあわせて小さな音でレコードをかけて、芳ばしいパンを用意したというところだった。

 案の定疲れていたのか、パンを食べ終わる頃にはオーレンドルフに寄りかかったままうとうとと船を漕いで眠りに就いてしまった。

「閣下が良いならそれで良いのですが……」

 潜めた声でオーレンドルフに告げた秘書はそう告げると彼の執務室を出て行った。

 静かにクラシックが流れる室内の明かりをわずかに落として、オーレンドルフは自分のデスクにつくと、そうして窓の外に視線を移した。

 たまには休ませてやらなければ、また過労で倒れるような事態になるだろう。

 革張りの椅子に背中を預けたままで、そうしてぽつりと彼はつぶやいた。

「……おやすみ」

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