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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
VIII ソドムとゴモラ
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12 企てる者と見張る者

 東部戦線でスターリングラード防衛を任されたヴァシリー・チュイコフのソ連赤軍第六二軍は窮地に立たされていた。

 ヴォルガ川を挟んだスターリングラードの対岸にある工業地帯と、スターリンの名前を冠した都市を結ぶ渡船場はドイツ空軍の徹底的な爆撃を受け、さらに、兵器生産を一手に担う南ウクライナの工業地帯はドミトリー・パブロフの機械化部隊が制圧、スターリングラードの対岸に位置する工業地帯はクズネツォフの手下(てか)による部隊の迅速な行動によってこちらも制圧された。

 そして対ドイツ軍包囲網の一翼でもあるブリャンスク方面軍による”背後からの一撃”によってチュイコフの第六二軍はスターリングラード市内に孤立しつつあった。その上、クズネツォフとロコソフスキー両将軍がスターリングラードに送り込んだ狙撃手部隊によってその指揮系統は真に壊滅的な被害を受けるに至っていた。

 拳を固めて木製のテーブルを強く叩いたチュイコフは唇を真一文字に引き結んだままで窓の外を睨み付ける。

 ヴォルガ川を挟んだ輸送の要――渡船場はドイツ空軍によって破壊された。物資も、兵員もその補充は絶望的で反旗を翻したコンスタンチン・ロコソフスキーの大軍は自らの航空勢力の後押しを受けて一気にスターリングラードに侵攻した。

 その勢いはヴォロネジ方面軍と南西方面軍の一部を飲み込む勢いだった。

 こうした勢いに、パブロフとポポフは自らが制圧したコーカサス及び南ウクライナの地域をドイツ軍に移譲して、ロコソフスキーに助力するべく全力でとって返した。

 偉大なるソビエト連邦という国土と自治を守るためには一部地域の割譲もやむなしというのが、フルシチョフらの思惑でもあった。

 ――敵はヨシフ・スターリン。

 一九四二年の八月も半ばを過ぎた頃、これらのソ連内での動向にアメリカの第三三代大統領に就任したヘンリー・A・ウォレスは、国内情勢の悪化を理由に対ソ支援を大幅に縮小させることになった。

 これに併せて、アメリカ合衆国のレンドリース管理局長官のエドワード・ステティニアスが国際的に見てもナチス・ドイツと同じほど悪辣なスターリンの君臨するソビエト連邦の政策を後押しする結果となり、さらに人道的な側面から見てもソ連を支援すべきではなかったという批判もあってこれらの責任を取る形となり事実上失脚した。

 もっとも一方的な条約の破棄は国際問題にも発展するデリケートな問題であったから、形としてはごく小規模な形でソ連に対するアメリカの支援は続けられていたものの、南ウクライナ、コーカサス地方のドイツの占領はイラン、イラク、シリアなどの国を親独路線に大きく舵取りを指せる結果となり、このためにペルシア湾から海上輸送した物資をバスラを経由し、テヘランからバクーなどのソ連地域に運び込むことがほぼ不可能となった。

 レンドリース管理局長官の失脚がなくとも、東南アジア、北アフリカ地方の天然痘の流行や、この一帯をドイツが占領したことによってアメリカ合衆国は対ソ支援を縮小せざるをえなかったのではあるが……。

 この頃、フルシチョフを擁するモスクワ方面のフュードル・クズネツォフの軍団は、スターリン派の赤軍と一進一退の攻防を繰り広げていた。

 スターリングラードを中心とした赤軍内部の様相はまさに泥沼の内戦と化していたのである。



  *

 ぱらりと執務室に紙をめくる音が響いた。

 少女は窓際にある自分のデスクに頬杖をついてファイルをめくっている。

 窓から吹き込むぬるい風が、冠水瓶(かんすいびん)の蓋になっているグラスが外されているせいか、時折柑橘系の香りを室内に漂わせている。

 熱さのせいだろう。

 額に汗の玉を浮かべた少女は、どこかうんざりとした様子で指先で汗を拭って溜め息をついた。

 彼女がなにを考えているのか。

 国外での戦況は日々移り変わっている。

 北アフリカも、ソ連での戦争も。

 しかし、マリーにはそれらのことには余り関心がないようで、いつもと変わりなく中央記録所のファイルを持ち込んではじっとなにかを考えている様子だった。

 彼女は多くの政府高官に関するファイルをいつも読んでいる。しかし、表情がほとんど変わらないのが不気味なところでもある。

 ヨーゼフ・ゲッベルス、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ、ヘルマン・ゲーリング、ハインリヒ・ヒムラー、マルティン・ボルマン、その他大勢の政府、党高官たちのファイルだった。

「なにを考えている?」

 問いかけたのは首席補佐官のヴェルナー・ベストだ。

 しかし、マリーは相変わらずの様子で唇の前に人差し指を立てて静かに笑うばかりだ。「内緒です」と。

 彼女は、ドイツ第三帝国総統に対する不穏分子の摘発を手がけているため早い段階でヒトラーの覚えが良い。けれどもマリーにとってそんなことはどうでも良いことのひとつでしかないのか、もしくは、他の思惑があるのか権力とは関係のないところで伸び伸びと振る舞っている。

 国家保安本部中央記録所のファイルは、それだけで武器となる。そして、それらのカードを最も効果的に扱ったのはかつてのラインハルト・ハイドリヒ。彼が死んでから、それらのファイルを効果的に使える者はどこにもいない。

 そしてそれは、諸刃の剣だ。

 使い方によっては相手を滅ぼすが、ひとつでも間違いを犯せば自分が窮地に陥る。それだけの危険性を秘めている。

「……ベスト博士。メールホルン博士を”覚えて”います?」

 メールホルン。

 その名前にヴェルナー・ベストはぴくりと片方の眉を引き上げた。

 名前はヘルベルト・メールホルン。オットー・オーレンドルフやヴェルナー・ベスト、ハインツ・ヨストらと同じく法律畑の人間で、オーレンドルフ、シェレンベルク、ヨストが弁護士、ベストが裁判官であるなら、メールホルンは検事の出身だった。そして彼はベストやオーレンドルフらと共にごく初期の国家保安本部の中枢に君臨した法学博士のひとりである。

 そのヘルベルト・メールホルンの名前が唐突にマリーの口から飛び出して、ベストは表情こそ変えなかったが、眉毛を動かすだけにとどめると大きな溜め息をついた。

 彼は、一九三九年のポーランド戦におけるグライヴィッツ作戦の指揮を命じられていた人物だが、紆余曲折の後にハイドリヒに作戦指揮の辞退を請い、成功した直後に東部に左遷された人物である。

 そしてそれ故に、メールホルンのファイルは中央記録所におさめられてもいる。

 だけれども。

 どうして彼女がヘルベルト・メールホルンを知っているのだろうか……?

「彼は随分とでたらめを総統閣下に吹き込んだのね」

「でたらめ?」

 どういう意味かと問いかけたベストに、少女はひっそりと笑ってから汗で額にはりついた金髪を指先でかきあげる。

 ラインハルト・ハイドリヒにとって、堅物の法律家であったヴェルナー・ベストとヘルベルト・メールホルンは目の上のたんこぶも同然だった。

 だから、組織が固まるが早いが、最初に検事のメールホルンを。そして次に裁判官のベストを国家保安本部から追放した。

「だってそうでしょう? メールホルン博士はとても優秀なのに、アメリカとその同盟国に対する傾向と報告はまるででたらめだわ。これなら、猿に報告させた方がまし」

 すらすらとよどみなく告げるマリーの言葉は非常に辛辣だが、表情は相変わらずで屈託のない笑顔をたたえていた。

「……――」

 机の上に放り出されているのはタイプされた報告書だ。

 それは本来、アドルフ・ヒトラーに提出されたもの。

 そのコピーだった。

 そんなものが国家保安本部に存在するという事実にヴェルナー・ベストはぎょっとした。おそらく、用意周到なかつての国家保安本部長官のラインハルト・ハイドリヒが、中央記録所に保存していたものなのだろう。

 ラインハルト・ハイドリヒという男は、どんな些細な相手の弱みでも中央記録所に保存して然るべき時に効果的に使用した。

 ヘルベルト・メールホルンのそれもそうして収拾されたものだとベストは推察する。

 あの男――ラインハルト・ハイドリヒとはそういう男だった。

「それで、マリー。君はメールホルン博士になにを期待しているのかね?」

 自分の表情を取り繕うようにして、ヴェルナー・ベストはそう言うと、マリーは小首を傾げてから数秒考え込んだ。元裁判官のベストには彼女の思考スタイルがわからない。どこまでなにを考えているのだろう……。

「別に、なにかを期待しているってわけでもないんですけど」

 無邪気にころころと笑っている彼女を見つめていると、深い沼の底を見極めようと必死になっているような感覚にベストは陥ることが多くあった。

 彼女は、ただ無邪気なだけではない。

「なんとなく、ファイルを見ていたら”思い出した”だけです」

 言っている事がトンチンカンなのかと思えば、鋭く物事の核心を衝くこともあり、また唐突にこうしてかつての国家保安本部に所属した人間の評価をしたりもする。異様な少女は罪の意識を感じることもなければ、後ろめたさを感じるわけでもなく、また不審に思われることも恐れずににこにこと笑っているのだ。

 まるで底が知れない。

 それがベストのマリーに対する評価であった。

「なるほど」

 ベストは少女の言葉に相づちを打ってから、マリーの見ていたファイルに手を伸ばした。彼女が誰のファイルを見ているのかを知っているのは、補佐官のベストとヨストだけだ。それ以外の人間は誰も彼女の行動を知りはしない。しかし、彼女が誰のファイルを見ているか知っていたとしてその思惑までは補佐官たちにも計りかねるものがあるわけだが。

 どちらにしたところで、それらのファイルはゲシュタポやSDたちが相手を陥れるために使用する情報群であって、見ていて心地よくなる類のそれではない。

「マルティン・ボルマン、か……」

 一度マリーは彼と話をしたことがある。

 それはベストがまだ彼女の補佐官として就いたばかりの頃だ。

 自分に権力があると心の底から思い込んだ大した能力もない小男だ。

「ベスト博士はどう思います?」

「メールホルンのことかね?」

「いいえ」

 ベストが問い返すと、マリーは即答しながらかぶりを振ると、自分の頭の上から長い腕を伸ばしてファイルをめくる彼を見上げた。

「官房長のことです」

「叩けば埃くらいは出るだろう」

 そうでなければ該当人物の記録が中央記録所に保管されるわけもないのだから。

 中央記録所にファイルが存在するということは、つまるところ”そういうこと”なのだ。

「ヘスを陥れて、一番得したのは彼でしょうね……」

「……陥れる?」

 ルドルフ・ヘス。

 一年前にイギリスに単独飛行して行方不明になり、さらに現在イギリスに囚われの身になっている副総統の名前にベストは彼女の言葉を復唱した。

「もちろん、官房長に陥れるつもりはあろうがなかろうが、結果的にはそうなっている、ということですけど」

 彼女の物言いは時にひどくぞんざいだ。

 それが、余計にマリーの不安定さを実感させる。

 このくらいの年齢の青少年にはありがちだが、マリーの場合特に不安定なのは両親がいないせいなのかもしれない。

 そんなことをヴェルナー・ベストは思った。

「政府要人には、おかしな連中も多いからな」

 ベストの独り言のような言葉を受けてマリーはフフと笑ってから、自分の隣に立っている男の体に頭をもたれさせた。

「それでも副総統はとても純粋……」

 クスクスと笑っている彼女は自分の目の前にあるマルティン・ボルマンのファイルをめくる男の手を、華奢な手で押さえてからベストを再び見上げると形の良いピンク色の唇で柔らかくほほえんだ。

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