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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
I ラインの黄金
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6 滅びの乙女

 品の良いワンピースと丈の腰丈の生成りのカーディガン、そして靴下のふちに施されたレースの飾りと、踵はそれほど高くはないがやはりそれなりの品質らしい革の靴は爪先が丸くなっていて女性らしさを演出している。

 ざあっと木々の梢を揺らして吹き抜けた風が、背中の中程まで伸びる長い金色の髪を揺らして巻き上げた。

 乱れた髪を押さえたマリーは余りの風の勢いに思わず目をつむる。

 髪を縛るものなどなにも持っていない。もっとも髪を縛るものどころか今のマリーには所有物などなにひとつありはしないのだった。

 シェレンベルクに「髪を縛るもの」について相談を持ちかけたところで無駄だろう。

「……強制収容所(KL)?」

 青年に手を引かれて歩く彼女は、小首を傾げながらシェレンベルクにだけ聞こえるようにつぶやいた。

「……――」

 そんな彼女の様子に、シェレンベルクは前を歩くヒムラーに小さく声をかけて歩みを止めさせる。そうして、ヒムラーが足を止めたのを確認してから彼女をわずかに離れたところへ連れて行くとその耳元に耳打ちした。

「マリー、正直に答えろ。君は今、意識がはっきりしているか?」

 よくよく聞けば失礼極まりない問いかけだが、国家保安本部(RSHA)に属する親衛隊情報将校としての質問と捉えればまだ紳士的な質問かもしれない。

「……マリー?」

 呼び掛けられた名前に少女は眉をひそめる。

 これだ。

 彼女は時折話しが全く通じない。

 だから対応に苦慮することになるのだが、シェレンベルクは直感のようなものでその理由を察している。少なくとも、彼女がシェレンベルクやヒムラーをはめようとして発言しているわけではないのだ。

「マリー……」

 もう一度彼女は自分の名前を繰り返すように呟いてからうつむいて考え込んだ。

 シェレンベルクと違ってヒムラーは狭量だ。

 彼女のそんな様子を直に見ればおそらく彼女を精神異常者だと言うだろう。

「ごめんなさい、”わたしの名前”よね」

「マリー、君は今、”正気の君”か?」

「……ごめんなさい、大丈夫よ」

「そうか」

 言いながらシェレンベルクは制帽を頭から外すと、マリーの頭に無造作にかぶせてその腕を強くひく。

「いいか、ヒムラー長官の前であまり余分なことを言わなくていい。自分の身が大事なら聞かれたことだけに答えていろ。あと……、髪が乱れるのが気にかかるならそれをかぶっていろ」

 最後の帽子に関する言葉だけを聞こえるようにはっきりと告げたシェレンベルクに、勢いよく腕をひかれながらマリーは長い睫毛をまたたかせて目を見開いた。

 シェレンベルクが気に病んだことはマリーにとって本当のことになりつつあった。

 マリーの意識はどこか少しずつ書き換えられている。

 覚えていたことを思い出せない。

 知らないことを知っている。

 自分のことがなんなのかわからなくなり、そしてその境が曖昧になっていく。

 それほど遠くはない未来。

 きっと自分は自分でなくなるのかも知れない。

「失礼しました、長官。フロイラインが髪のことを気にしていた様子でしたので」

 悪びれもせずに言い放つシェレンベルクに、ヒムラーはどこかあきれたような眼差しを「不審な少女」に向けて鼻白む。

「女というのは面倒なものだな」

 神経質な瞳に睨まれてマリーは居心地が悪そうに首をすくめてから、シェレンベルクの手を強く握り直す。

 不安なのだ。

 シェレンベルクは彼女の緊張を感じ取ってことさらに胸をはってヒムラーと対峙する。それくらいの演技をすることなど彼にとっては朝飯前だ。

「閣下、そのように睨み付けていては収監するつもりがないと言っても説得力がありませんよ」

「……シェレンベルク中佐」

 なにか言いたそうに部下を見つめてから、嘆息したヒムラーは首の後ろを撫でながら頭上の空を仰いだ。

「年端もいかない女性から本音を聞き出したいのであれば、もっと優しく接しませんと」

 やんわりと、しかしさりげなく失礼な物言いをしたシェレンベルクに、マリーは反応しない。今のマリーは彼の言動にいちいち注意を払っていられるような状態にはなかった。

 ザクセンハウゼン強制収容所に到着して車から出て以来、マリーの様子がおかしいことにシェレンベルクはすでに気がついている。

「ようこそ、このような辺鄙(へんぴ)な場所へ」

 声が聞こえてヒムラーとシェレンベルクは振り返った。

 ハンス・ローリッツ親衛隊上級大佐。

「今日は視察にいらっしゃったとお伺いしております」

 ハインリヒ・ヒムラーに顔を向けたローリッツは、ややしてからじろじろと興味深げな眼差しを遠慮なくマリーに向けると、値踏みでもするかのような目になった。

「それで、こちらは?」

 短い間隔で焦点を結ばなくなる少女の瞳が、ハンス・ローリッツの言葉に反射したように力を取り戻すと、はっと我に返ったように収容所の所長を務める男を見上げた。

 その青い瞳……。

 まるで空のような、とも。

 もしくは海の碧とでも言えばいいのか。

 見ている者の意識を深い奈落へと吸い込むような眼差しだった。そんなマリーの眼差しに見つめられて硬直したのはローリッツのほうだ。

 なにかにぎょっとしたようにハンス・ローリッツは彼女の瞳を凝視してから数秒。ややしてから飲み込まれたように見つめていた瞳から自分の視線を引きはがす。

「……ローリッツ?」

 ヒムラーに呼ばれて、ザクセンハウゼン強制収容所の所長を務める男は苦く笑いながら内心の動揺を覆い隠すと制帽を直しながら瞳をしばたたかせる。

「いえ、なんでもありません。長官」

 時折不安定に体が揺れるマリーの肩を抱き寄せるように支えたシェレンベルクは、今の彼女の状態をヒムラーが怪しまないことを望むばかりだった。

 それにしてもとシェレンベルクは眉をひそめた。

 ハンス・ローリッツ。彼については大した男ではない、とシェレンベルクは思っているがローリッツはなにに驚いたのだろう。

 こうして、ハインリヒ・ヒムラー、ハンス・ローリッツ、そしてヴァルター・シェレンベルクの三人に囲まれるようにしてマリーは収容所内を回ることになった。ほとんど表情の変わらない彼女は時折うつむきがちになるのをヒムラーに咎められつつ収容所内を見渡した。

 シェレンベルクに余分な発言をするな、と忠告されていたからこそ自ら口を開くことこそしないが、彼女の顔色は悪くなるばかりだ。

 強制収容所内を行進している囚人たちのなかのひとりが倒れ、それを看守が問答無用の暴力を振るっている。ブーツの爪先で蹴り飛ばし、手にしている銃で殴りつけた。悲鳴もあげられずに体を縮めていたやせ細った男はやがてうめき声もあげなければ、身じろぎもしなくなった。それを見下ろした看守は舌打ちを鳴らすと銃口を足元に転がっている男の頭に押しつけた。

 ふらふらと歩く彼女はそんな銃声を聞いても反応しない。

 そこにある違和感を、シェレンベルクなどよりもずっと鈍いだろうヒムラーとローリッツも感じていたはずだ。

 そしてその異様な違和感を感じていたからこそ、彼女に誰もなにも言うことができなかった。

「……マリー」

「……はい」

 どこかぼんやりとした眼差しの彼女は強い力でシェレンベルクに肩を抱き寄せられて、マリーはなんとか意識を引き戻す。

 気を抜けば、自分の意識がどこかに飛んでいってしまいそうだ。

 退院する直前からその傾向が強まっていることはマリー自身が自覚していたことだ。

「大丈夫、です」

 応じた彼女は眉をひそめてから息をつくと収容所内を見渡してもう一度溜め息をついた。

 気が滅入る光景だ。

 彼女はそんな光景を見たことがない。

 いや、見たことがある……?

 けれどもどうしてだろう。

 ”わからない”のだ。

 自力でなんとか引き戻した意識が、ほんの数秒で混濁していくのを感じていく。深い、とても深い澪の彼方に沈み込んでいくような感覚だ。

 もがいてももがいても水面の上に顔を上げることができない。

 まるでなにかに足を取られて深い水底(みなそこ)に溺れていくかのようだ。

 強くシェレンベルクの制服の裾を握りしめた彼女は、焦点の合わない瞳で何度も左右にかぶりを振った。かろうじて戻ってくる意識で辺りを見渡しながら、時折覗うようにヒムラーとローリッツを見やる。

 それから小一時間ほどローリッツの案内で収容所内を巡回してから、処刑場にたどり着いた。

 今まさしく処刑が行われようとしており、壁際に立たされた囚人たちはやせ衰えた体で処刑人たる看守の前に立ち尽くしている。

 ヒムラーの顔色はますます悪くなっていくが、シェレンベルクはマリーの様子の方が心配だった。

 いや、心配というのは語弊があったかもしれない。

 看守として訓練されている親衛隊婦人補助員の女性隊員ならばともかく、ごく一般的な少女が人間の処刑の場面などに慣れているわけがないのだから。

 蝋人形のように白い顔の彼女は肩を小刻みに震わせながら、ただシェレンベルクのフィールドグレーの制服を掴んでいる。

 指揮官の命令と共に銃が火を噴いた。

 ばらばらと鈍い音が聞こえて、無抵抗の囚人たちがその場に崩れ落ちる。

 そうして次にまた別の十人が連れてこられて射殺される。

 その繰り返しだ。

 何度目かの繰り返しの後、シェレンベルクの横で嘔吐する音が聞こえた。その直後、今度は自分の腕の中で華奢な体が脱力する。

 膝から力が抜けてそのまま崩れるように倒れ込んだ少女の頭から、シェレンベルクの制帽が地面に滑り落ちた。

 親衛隊の下士官たちですら処刑するためには予備人員を用意するのだ。

 それほど精神的にひどい負担をかけるのが処刑という作業なのである。

 親衛隊全国指導者のヒムラーですらも倒れるのだ。まだ十六歳だというマリーが倒れてもおかしな状況ではなかった。

「……マリー」

「……――」

 慌てたように華奢なマリーを抱き留めたシェレンベルクに対して、ハンス・ローリッツはただ無言で青年士官と正体不明の少女を見下ろしている。

「刺激が強すぎたか……」

 シェレンベルクの独白を聞きながら、ハンス・ローリッツは嘔吐を繰り返すヒムラーの背中を軽くさすった。その間にシェレンベルクは彼女の体を抱き上げて歩きだす。

「閣下、小官は一足お先に管理棟に行かせていただきます」

「……わたしもすぐに行く」

「承知しました」

 嘔吐感をこらえながらよろめくように立ち上がったヒムラーは処刑場をそうして後にした。

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