11 泥沼
ドイツ第三帝国の中枢で警察権力の実権を握るナチス親衛隊全国指導者――ハインリヒ・ヒムラー。
この日和見で小心者の男が、このところ”また”どこか落ち着きを失っているように感じられる。もっとも、彼が落ち着きを失っていると感じていて、さらに理由を知っているのは側近たちだけであって、多くの人間は小心者のヒムラーがまたなにやら妙なことに心を傾けているのではないかと思うだけだ。
コーヒーのカップを傾ける親衛隊作戦本部長官である武装親衛隊のハンス・ユットナー親衛隊大将及び武装親衛隊大将はじっと考え込んだままで、ジャーンと鳴った音に驚いて思わず腰を浮かしかけた。
「……ユットナー突撃隊大将閣下からお電話です」
そう告げられてハンス・ユットナーはつなげられた電話にほっと胸をなで下ろす。
考え事の真っ最中であったから何事かと思った。
ハンスよりも六歳年上のマックス・ユットナーは突撃隊大将で、現在の突撃隊幕僚長ヴィクトール・ルッツェの参謀長を務めている。
忙しそうだな、と兄のマックスに言われてハンス・ユットナーは電話であるために相手に姿を見えないのを良いことに肩をすくめてから苦笑する。
「それなりに。ですが、俺が武装親衛隊の連中を直接率いているわけではないので、特別負担が大きいわけでもありません」
心配事はないわけではない。
彼の心に引っかかっている心配事の類。
「今の突撃隊は武装組織ではありませんがそれで良いと思います。ただ、また”事情”が変わってくれば突撃隊の手を借りることにもなるかとも思いますが。ですが、兄貴も知っていると思いますが親衛隊と突撃隊の確執は深い……」
親衛隊作戦本部長官のハンス・ユットナーと、突撃隊参謀長のマックス・ユットナーが兄弟であるからと言って、それだけで両組織の関係がうまくまとまるわけではない。
「……なんですって?」
告げられた兄のマックスの言葉に、弟は素っ頓狂な声を上げた。
しばらく兄と弟は電話越しに言葉を交わしてから、やがて受話器をおろした。
呆然とする。
兄のマックスが告げた内容は、驚くべきものだった。
もちろん、突撃隊の隊員であるからと言って親衛隊の関係者と親睦を深めてはならないわけではないし、その逆もまた然りだ。
突撃隊と親衛隊という組織上の関係が、個人の関係に軋轢を生むわけではないのだから。
革張りの椅子に深く沈み込みながら、ハンス・ユットナーは目を細めると考え込んだ。
――曰く、突撃隊のオフィスで何度かナチス親衛隊の国家保安本部に所属するSDの姿を見かけたというのである。それは一介の中級指導者や下級指導者ではなく、将官クラスの高級指導者だという。
袖につけられたSD章で、国家保安本部所属の高級指導者であることがすぐにわかったらしい。
そうマックス・ユットナーは弟に告げた。
ハンス・ユットナーは武装親衛隊の高級指導者であって、一般親衛隊の事情にはそれほど詳しくはない。しかし、それが国家保安本部となれば話は別だ。
彼らは通常の一般親衛隊とは言え、強大な権力を握っていた。
その国家保安本部に限定したの高級指導者となれば、一般親衛隊であるとは言えそう数は多くない。
現在、国家保安本部の高級、中級指導者の一部は行動部隊を――苦々しい話ではあるが――指揮して東部戦線に展開している。そうなると、ベルリンのプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセにあって自由に動き回れるような高級指導者となれば数が知れていた。
「……SD章にリッツェンがなかったから、おそらくゲシュタポ上がりのSDではなかろう」
マックス・ユットナーはそう言ったが、実のところSD章にリッツェンがあるかないかという事実はそれほど重要な事柄ではない。実際、ゲシュタポ上がりの国家保安本部所属の親衛隊員がリッツェンのないSD章をつけていることはごくまれであったから、兄の見立てが間違っているわけではないが。
そこは親衛隊全国指導者個人幕僚部に所属する人間がつけるカフタイトルに三種類のそれが併用されていることと同じように、国家保安本部のSD章も例外ではない。
腕を組んでからうなり声を上げたハンス・ユットナーは、ちらりと壁にかけられた時計を見やってから、やれやれと溜め息をついた。
そろそろヒムラーとの連絡将校であるクルト・クノブラオホ親衛隊中将が訪れるはずだ。
ユットナーの記憶では、クノブラオホはつい最近、親衛隊作戦指導本部B総局長に就任している。
もっとも、ヒムラーを含めた政府高官及びナチス党幹部たちの怪しげな動きに対しては不信感を持たざるを得ない。
――……彼らはいったいなにを考えているのだろう。
そこまでユットナーが考えた時、扉を叩くノックの音に我に返った。
「失礼します、クノブラオホ中将閣下がお見えになりました」
彼は親衛隊作戦指導本部B総局長という肩書きを持つが、実質的にはヒムラーと武装親衛隊の間を取り持つ連絡将校だ。
「通せ」
秘書の女性が告げた言葉に、ユットナーは立ち上がりながら時計の示す時刻を確認した。
時刻は十五時。
約束の時間ぴったりである。
ナチス親衛隊の将校はよほどの事がない限り、時間には恐ろしく正確だ。
階級としては、ユットナーよりもクノブラオホが下になるのだが、それでも年長者であるクルト・クノブラオホに礼儀を払わなければならないということを彼はわかっている。
「いつもご苦労様です、クノブラオホ中将」
「全くだ、親衛隊長官もなかなか気苦労が絶えないらしいですからな」
ハイル・ヒトラーと敬礼を交わしたふたりの武装親衛隊高級指導者は苦笑する。
クノブラオホがいつもユットナーのところを訪れる時に手にしている書類がたくさん入った大きな黒い革のカバンは、最近では彼のトレードマークになりつつあった。
「そういえば、ユットナー大将はご存じですかな?」
クノブラオホはヒムラーの側近のひとりであり、彼の影のように付き従っている。そんなクルト・クノブラオホの穏やかな仮面の下には抜け目ない眼差しをたたえていることもユットナーは知っていた。
一説には、クノブラオホと親衛隊全国指導者個人幕僚部のカール・ヴォルフが互いにうまくいっていないらしい。
「最近、親衛隊長官閣下が国家保安本部に配属された女の子の親衛隊将校に随分とぞっこんのようで」
そう告げたクノブラオホの言葉に、ユットナーは先日カルテンブルンナーやベストと共に彼を訪れた少女将校を思い出した。
自由気ままな振る舞いをする金髪の少女――マリア・ハイドリヒ親衛隊少佐。
国家保安本部に所属する親衛隊員で女の子となれば、ドイツ国内でもだたひとりしか存在しない。
「……情報将校のハイドリヒ嬢のことでしょうか?」
「そうそれだ。武装親衛隊にも話は届いていたか」
感心した様子のクノブラオホにユットナーはかすかに笑うと、年上の親衛隊中将の差しだすファイルを受け取った。
「なんでもつい何日か前にその子が襲われたらしい」
世間話のついででもあるようなクノブラオホの言葉に、ユットナーは一瞬だけぎょっとしたようにわずかに目を見開いた。
「……そういった話はまだこちらには届いていませんが、性犯罪かなにかですか?」
女の子が襲われたとなれば、まず第一に性犯罪を想像してしまってもユットナーに罪はないだろう。
「いや、とりあえずただの傷害事件らしいが、どうにも妙な話でな」
含みを持たせた年上の男の言葉にハンス・ユットナーはかすかに眉間を寄せた。
世間にレイプ事件などあふれかえっている。なによりも女性を傷つけるならばレイプが最も手っ取り早い手段だ。
「傷害事件……」
「とは言っても、骨折程度らしい。主治医はゲープハルト少将らしいから問題はなかろう」
骨折程度と割り切ってしまえるのは、クルト・クノブラオホにしろハンス・ユットナーにしろ彼らが軍事組織――武装親衛隊の指揮官のひとりであるからでもあった。
そこまでクノブラオホが告げた時点で合点がいった。
先日の国防軍の参謀長、フランツ・ハルダーが親衛隊長官のところへ詰めかけた時のマリーの怪我だ。おそらくそれが暴漢に襲われた時に受けた怪我だったのだろう。
「全治三ヶ月だそうだ」
特別に感情をこめることもせずに言葉を続けたクノブラオホは、ひとつ咳払いをしてから「それにしても」と言葉を続けた。
「彼女は国家保安本部の六局の部長だそうだからな。拉致されるような事態にならずに済んだのが幸いだ」
多くの情報を知る高官が敵の手に拉致されるような事態を考えると恐ろしいことだった。特に国家保安本部の国外諜報局ともなれば、それこそ多くの国内外の情報の集積所でもある。
そんな部署の幹部のひとりが拉致されるなど考えただけでもぞっとした。
「骨折で済んだのは幸いですが、彼女はまだ子供でしょう? 余程痛かったのではありませんか?」
「……そりゃ痛いだろう。だが、そういった事態も覚悟の上で親衛隊に所属しているのであろうから、それは同情の余地はないな」
ばっさりと切り捨てるようなクノブラオホに、ユットナーは声も出さずに小さく笑う。
「その小娘に関する話だが、ユットナー大将。親衛隊長官閣下がだいぶ彼女を心配されているようだが、なにか心当たりはないかね?」
問いかけられてユットナーは数秒考え込んだ。
正直なところ、そうした世間話に該当するような話は個人幕僚部の長官を務めるカール・ヴォルフ親衛隊大将か親衛隊人事本部長官のマキシミリアン・フォン・ヘルフ親衛隊少将のほうが詳しいのではないかとも思いもする。
「さて、そうした話には疎いので……」
ユットナーは多くの武装親衛隊に関する案件を抱え込みすぎている。
一般親衛隊の事情など知ったことかとも思いつつ、クノブラオホが訪れる直前にかかってきた兄からの電話を思い出した。
「ところで国家保安本部の方はどうなっているんです? 前長官のハイドリヒ大将がいない今、人事局のシュトレッケンバッハ中将が代理を務めているとは聞きますが」
「……国家保安本部長官、か」
数ある親衛隊本部。その長官の職を狙う者は多い。
「今のところ、”閣下”は何人か選抜している様子だが、さてどうなることやら」
ユットナーの言葉を受けてクノブラオホは丸い顎に手を当てて考え込むような仕草を見せた。
――ベルリンのプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセで、妙な動きがある。
それがマックス・ユットナーの言葉だ。
ハンス・ユットナーの兄、マックスの上官にあたるヴィクトール・ルッツェのもとを何度か国家保安本部の高官が訪れていること。
突撃隊と親衛隊。
そのふたつの組織の軋轢はかつての事件――一九三四年六月三十日の長いナイフの夜事件以来のもので、この大規模な粛正のために多くの突撃隊幹部が殺害された。この事件を裏で糸を引いていたのは、ヒムラーとハイドリヒではないかと影で囁かれているが、表だって彼らを非難する者はいなかった。
そうした対立のあるふたつの組織の高官が接触しているとはどういうわけか。
おそらく、と彼は思う。
マックスが見かけた子供連れの親衛隊高級指導者というのは、ヴェルナー・ベスト、あるいはハインツ・ヨスト辺りであろう。
つい先日、ユットナーのところをマリア・ハイドリヒが来訪するとハインリヒ・ヒムラーから連絡があった際に、一通り彼女の身の回りのことは書類上で調査済みだ。
彼女が所属するのはヴァルター・シェレンベルク親衛隊上級大佐率いる国外諜報局であり、特別保安諜報部は実質的にハインリヒ・ヒムラー直属の私設警察部隊とされる。その部長であるマリア・ハイドリヒを補佐するのが、親衛隊中将であり元裁判官のヴェルナー・ベストと、弁護士である親衛隊少将のハインツ・ヨスト。彼らの手足となるのはゲシュタポ出身のヨーゼフ・マイジンガー親衛隊大佐、そしてつい最近まで武装親衛隊のエリート部隊でもある武装親衛隊第一装甲師団――アドルフ・ヒトラー親衛隊に所属していたSDのアルフレート・ナウヨックス親衛隊少尉。他には、ヒトラー直属の警護部隊から選抜された何人かの下士官たちだった。
軍隊式の礼儀など知らない彼女であれば、屈託もなく突撃隊の本部を訪れるかもしれないが、それがマックス・ユットナーには不気味に感じたのかもしれない。
ハンス・ユットナーの見た限りでは、彼女はなにも考えていないだけなのだ。
考えているようで考えておらず、考えていないようで考えている。マリア・ハイドリヒの考え方は、一度しか彼女に会ったことのないユットナーにはさっぱり理解できない。
「そう、そちらのファイルは個人幕僚部の最近の動向だ。長官は随分と武装親衛隊の部隊の再編の進み具合を心配しておられたから、早急に報告書を上げるようにとのことだ」
言いながら歩きだしたクルト・クノブラオホに、ユットナーは手にしたファイルをめくってから視線を横に流した。
「承知した。数日で仕上げて中将にお渡しできるようにしておきましょう」
軽く片手を上げてから、扉の外へと出て行ったクノブラオホを見送ってユットナーは窓の外を振り返ると鼻から息を抜く。
――ヒムラーの腰巾着。
それがハンス・ユットナーのクルト・クノブラオホに対する評価だ。
親衛隊全国指導者個人幕僚部長官のカール・ヴォルフがクノブラオホの罠にはまるようなことがなければ良いが……。
ユットナーはそんなことを考える。
ヒムラーは小ずるい男だ。
クノブラオホのような”忠実な”古狸を操って、親衛隊本部に属する高官たちを監視している。
そして不祥事や、ヒムラーに都合の悪いことが起これば、ハンス・ユットナーを含めた彼らを左遷してしまおうと企んでいる。
「……愉快ではないな」
ぽつりとつぶやいて、ハンス・ユットナーは眉をひそめた。




