10 地の底
「違うわ」
彼女は独房の扉に取り付けられた小窓から中を窺ってからそう言った。
「違う?」
「はい」
なるほど、と相づちを打ったハインリヒ・ミュラーは顎に親指を当てて考え込むように思案に暮れる。
彼女――マリーは時に大人の世界の常識の範疇の外にいることも多く、非常識な言動をとるが決して愚鈍ではない。その少女が「違う」と告げるのだ。
ならば疑うべくもないだろう。
「……そうか、違うか」
ミュラーは繰り返してからブーツの踵を鳴らすと背後を振り返る。
国家秘密警察の長官が訪れるということもあって、その部下であるフリードリヒ・パンツィンガー親衛隊中佐も同行している。
パンツィンガーは国家秘密警察の最重要部署でもあるA部――敵性分子排除部の部長で、要するにラルス・シュタインマイヤーの上官にあたる。丸い眼鏡をかけた男はじろりと少女を見やったがそれだけで、マリーに対しては特に発言をするわけでもなくミュラーの言葉を待った。
「パンツィンガー、捜査を続けろ」
「承知しました」
片腕を吊った少女の胸元に留められた鷲章のスカーフピン。彼女と顔を合わせるのはこれで二度目だった。
以前、顔を合わせたのは先日の会議の席だったか。
第七局――世界観研究局長フランツ・ジックスと国外諜報局E部の部長ヴァルター・ハマーに両隣を挟まれて、会議中に飽きて最後には眠り込んでしまっていた華奢な少女だ。
国家保安本部主導で行われる「再定住」のための計画に関する会議の席で眠り込んでしまうとは親衛隊員である自覚が足りないのではないかとも思ったが、今、こうして目の前に立っている細い少女を見ていると、何も言えなくなってしまうと言うのが実際の所だった。
プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセの国家保安本部のオフィスから帰宅途中、花屋に寄っていたという少女は暴漢に襲われて骨折をした。
白い三角巾で吊った左腕が痛々しい上に、膝丈のスカートと白い清楚な袋袖のブラウスから伸びた四肢は、まさしく折れてしまいそうで不安を感じる。パンツィンガーの上官でもある厳つい顔をしたハインリヒ・ミュラーの横に立っている少女は、細い指を伸ばしてミュラーの制服を軽く握っていた。
「現状の可能性のひとつとして、ですが……」
中将閣下。
フリードリヒ・パンツィンガーがそう切り出した。
「ハイドリヒ少佐の証言を参考にさせていただきますと、彼女を襲撃した輩は他にいる、と見て間違いないかと思われますが……」
「そうなるだろうな」
部下の言葉にミュラーは眉間を寄せたままで短くつぶやいた。
マリーが嘘を言っているとは思えないし、なによりも彼女には犯人の一味であると思われる男たちをかばい立てする利点がない。
それらを冷静に考えて、マリーが「違う」と告げた言葉に嘘がないと判断した。
もちろん国家秘密警察お得意の「身内」に甘い判断ととられてもやむを得ないのであるが、現実的な話としてはいくら組織として身内に甘くても、修道士のように厳格であることを好む親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーに事の子細を知られるといろいろと厄介な話も多い。
余分なことは、ヒムラーに報せないことに限る。
そんなとりとめもないことに思考を巡らせてから、ミュラーはパンツィンガーを横目に眺めてから口を開いた。
「今回の一件では刑事警察も動いているが、手柄をとられるなよ」
局長のアルトゥール・ネーベ率いる刑事警察局は優秀だ。元々、刑事警察として辣腕を振るってきたネーベはこの一ヶ月ほどで精彩を取り戻している。指揮官が精彩を取り戻した組織の強さは以前のそれとは比較にならない。
「はっ」
応じながら、それにしても、とミュラーの制服の裾を掴んでいる少女を改めて見直した。
とてもではないが、一部署の部長――要するに自分と同格の――の挙動には見えない。年齢は十六歳だと言うことだが、実際は肉体的な細さとあいまって実年齢よりも幼く見える。
大きな瞳のせいもあるだろうか。
長いストレートの金髪と青い瞳。白皙の肌はその年齢特有の透き通るような白さでともすれば見とれてしまいそうだ。
けれどもなぜだろう。
ドイツ女性によくあるような強さは余り感じられない。
まるでおとぎ話に出てくる深窓の姫君のようで、少女を観察しながらフリードリヒ・パンツィンガーはじっと目を細めた。
ゲシュタポ・ミュラーと、オーストリアの親衛隊及び警察高級指導者の地位にあるエルンスト・カルテンブルンナー。そして刑事警察局長のアルトゥール・ネーベ、各親衛隊中将たちから実の娘のようにかわいがられている彼女。
職務に忠実な警察官僚であるかつてのミュラーであれば、自分よりもずっと階級の低い親衛隊員にこうして制服の裾を掴まれたら激昂しただろう。しかし、パンツィンガーの目の前にいるミュラーはそうではない。
時折引っ張られる形になるのか、制服の裾をついと引かれて気がついたように振り返ると歩幅を緩める。
一見しただけでは骨折した少女を気遣っているだけのようにも見えるが、それだけではないことをパンツィンガーにはわかっていた。もっとも、ミュラーに対してからかうような言葉を吐けばどうなるか知れたものではないから、余分な言葉は口にしない。
「フロイラインの怪我の様子はどうなんですか?」
口にした台詞は無難なものだ。
フロイライン。
多くの国家保安本部の高官たちが、マリーのことをそう呼んだ。彼女と親しい者たちは「マリー」と呼ぶが、そうではない同格の者たちは「フロイライン」と呼ぶ。彼女を「ハイドリヒ親衛隊少佐」と呼ばないのは、幼い印象すら受けるマリーを見ていると、そんな堅苦しい言葉で呼び掛けるのが馬鹿馬鹿しくなるからだった。
パンツィンガーの言葉に、ミュラーが少女を見下ろすと、ふたりの視線を受けてマリーは顔を上げるとにこりと笑った。
「大丈夫ですよ」
なにがどう大丈夫なのかはとにかく、彼女はそう言って笑う。
骨折してからまだ一週間ほどしかたっていないわけだから、大丈夫なわけがないのだが、それは果たしてマリーが気丈に振る舞っているのか、それとも本当に痛みが軽減しているのかどちらなのかわかりにくい。
「……あまり無理はせんでいいぞ、そのためにベスト博士やヨスト博士が君を補佐しているのだからな」
年若い少女を補佐するふたりの法学博士。
彼らは共にかつての国家保安本部の高官だ。
「はい、ありがとうございます」
にっこりと笑う笑顔にしかめ面をしていたパンツィンガーは思わず苦笑した。
プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセで通りすがる彼女はいつも護衛官たちや、自分の部署の親衛隊将校たちに花が咲くような笑顔を向けていた。
かわいらしい少女の笑顔が不愉快だと思うほど、フリードリヒ・パンツィンガーの精神は荒んでいない。
誰だってかわいらしい少女の笑顔を見れば無意識に顔がほころぶだろう。だから、自分が苦笑したのは当然のことなのだと、笑顔を浮かべてしまってから誰にでもなく内心で言い訳がましいことをパンツィンガーは考えた。
ミュラーに無理をするなと釘を刺されてニコニコと笑っている彼女の笑顔をこうして間近で見るのは初めてだった。
パンツィンガーが彼女を見かけるときに限って、就業時間外に国家保安本部の廊下で足を投げ出してぼんやりと空を眺めているか、居眠りをしているかのどちらかだったのだから。
これはミュラーやネーベ、もしくはカルテンブルンナーがかわいがってもおかしくはない。パンツィンガーはそんなことを思った。
こうして、逮捕された男たちに対するマリーの証言が得られ、捜査はわずかに進展した。もちろんこの情報をミュラーは刑事警察を束ねるネーベに隠すつもりはない。ほんの数ヶ月前であればゲシュタポとクリポがこうして共同戦線を張るなどということはあり得なかったが事態が事態だ。
昼食をマリーと共にとってからオフィスに戻ったミュラーはその足でマリーを、彼女の執務室へと送り届けてからネーベの執務室へと向かう。
事件を迅速に解決するためには、情報の共有は重要なことである。
無造作に一冊のファイルを小脇に挟むと、ゲシュタポ・ミュラーは頭を切り替えた。
「ヒトラー万歳」
ミュラーの敬礼に、ネーベが右手も「ハイル・ヒトラー」と右手を挙げる。
「すでに子細は貴官にも入っているとは思うが」
ハインリヒ・ミュラーの切り出した言葉に、窓辺に立って外を眺めていたネーベが視線だけを冷徹なゲシュタポの長官に投げかける。
外見だけならばふたりは対照的だ。
仏頂面にも見える厳つい顔に不機嫌そうな冷たい光をたたえたミュラーと、黙っていれば穏やかそうな表情の下には、どこか抜け目のない光をその瞳の中にちらつかせるネーベ。
ちなみに、ネーベは東部戦線でアインザッツグルッペンの指揮を経験しているが、ミュラーはすでにポーランド戦が始まる前に自ら「真価の発揮」をしているため、アインザッツグルッペンの指揮官の任を拝命せずに至る。
国家保安本部の幹部の中では珍しい存在のひとりである。
「”例の”襲撃事件の件ですかな?」
「国境警察から移送された例の容疑者を確認してきたが、マリーがな、違うと言うのだ」
国境警察から移送された容疑者。
その言葉にネーベは足音を立てずにゆっくりと振り返ると、ミュラーが差しだしたルーン文字で「SS」と記された公用のファイルを受け取った。
「ミュラー局長はどう見られる?」
「おそらくスイスとの連絡役かなにかだろう」
「……ふむ」
ネーベはミュラーの言葉に相づちを打ちながらひとつ頷くと小さく紙のこすれる音をたててファイルをめくった。
マリーに彼らの顔を確認させたところ、彼女は「違う」と言った。つまるところ、それはマリーに怪我を負わせた人間は別にいるということになる。本当にただの傷害事件であれば本来は国家秘密警察の出るところではない。
「本来であればクリポも出る幕ではないな」
「……秩序警察、か」
ネーベの言葉にミュラーは応じるように呟いて首を傾げると、秩序警察の頭領の顔を思い出した。
秩序警察のトップを務めるのは現在、ラインハルト・ハイドリヒの死後を継いでベーメン・メーレン保護領の副総督に任じられているクルト・ダリューゲだ。
ハイドリヒ程有能ではなく、突撃隊上がりの無粋な男。
「あの男も大概欲求不満の嫌いがあるが、ああ舞い上がっていてはそのうち落とし穴があるのではあるまいか?」
ネーベの言葉に、ミュラーが小さく肩をすくめる。
ダリューゲは上級大将ではあるが、その実、治安、保安警察業務のほとんどをゲシュタポと刑事警察に奪われているという事態になっているため、彼にしてみれば国家保安本部の権力の大きさは頭の痛いところだろう。
要するにダリューゲの権限は、ミュラーのゲシュタポとネーベの刑事警察に大きく頭を押さえられる形になっているのだった。
「落とし穴、か」
そういえばとミュラーは思い出した。
ダリューゲはまだ四五歳のはずだが、すでに一度心筋梗塞を患っている。そうそう再発などすることもあるまいが、警察機構のボスのひとりであり、さらにベーメン・メーレン保護領の副総督であるという激務が彼の負担になるということも考えられる。
政府高官とはいえ人間なのだ。
病気に冒されることもあれば、事故で死ぬこともある。
昨年の末に飛行機事故によって命を落とすことになった空軍の高官のひとり、若き戦闘機隊総監のヴェルナー・メルダースのように。
そんなことを考えながら、ミュラーは話をもとに戻す。
「今回の事件において、事は緊急を要するし重大な問題だ。情報が流出すれば国家保安本部のアキレス腱として今後、彼女が狙われるやもしれん」
イギリスはともかくとして、アメリカは汚い手段も平然と選ぶ。
だから、とミュラーはネーベに警告した。
「ゲシュタポとしても情報を隠蔽するつもりはない、貴官の刑事警察にも最大の助力を願いたい」
もちろんマリーが狙われたということで躍起になっている部分もある。
しかしそれだけではないのだ。
華奢で力の弱い彼女が狙われるということは、今後彼女が国家保安本部のアキレス腱になるということを指している。
「了解した。現在、我々も捜査を続けているがこちらで得た情報はゲシュタポにも回すことにしよう。……ところで、ミュラー局長。マリーとの食事はうまかったかね?」
くすりと笑ってからかうネーベに、ミュラーは一瞬だけぶすりと不愉快げな光をたたえてから、目を上げる。
「もちろんだとも」
大概、プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセで朝から晩まで仕事に追われているゲシュタポの局長はなかなかマリーと歓談を交える暇がない。時には神経を休めたいときもあるのだが、時折マリーと食事を共にしているネーベが羨ましく感じることもあった。
そんなネーベのからかいにミュラーはフンと鼻を鳴らしてから、にやりと笑うとそう言った。




