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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
VIII ソドムとゴモラ
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9 巡る車輪

「どうも国家保安本部(こういったところ)というのは余り心楽しくなれる場所(ところ)ではありませんな。少将閣下(ブリガーデヒューラー)

 そう言ったのは、レオデガー・クリューガー医師だ。

 循環器が専門の外科医で、親衛隊に名前を連ねる事をやんわりと断り続けている腕の良い医師だった。

「彼女の名前はどうかご内密に」

 クリューガーは、国家保安本部国外諜報局長にやけに警戒心に満ちた瞳で告げられて肩をすくめた。

 秘密を漏らすな。

 そうヴァルター・シェレンベルクは言っているのだ。

 確か、とクリューガーは思い返す。彼が最後にシェレンベルクと会ったのはかれこれ数ヶ月前になるが、そのときはまだ親衛隊中佐オーバーシュトゥルムバンヒューラーだった。レオデガー・クリューガーは親衛隊員ではないが、それでも知識の上では「ナチス親衛隊」という組織が軍隊ではないということを知っている。それにしたところで、尋常とは思えない速度でシェレンベルクは権力の階段を駆け上がっているようにも見うけられた。

 今では彼は当時の親衛隊中佐から、親衛隊上級大佐である。

「承知した」

 かすかに剣を煌めかせるシェレンベルクの瞳に、レオデガー・クリューガーは片方の眉尻をつり上げると鼻から息を抜いて短く告げる。

 極端なことを言えば、クリューガーにとってみれば、彼女の名前など大した問題ではない。そもそもそんな話のためにプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセにきたわけではないのだから。

 彼女の名前などクリューガーにはどうでもいいことでしかない。

 余分なことに首を突っ込めば自分の身に危険が及ぶことも、レオデガー・クリューガーは充分に弁えていたし、なによりも、”危険を冒すこと”が必ずしも正義の力の行使につながるわけではないことも、彼は理解していた。

 ――声高に主張することだけが戦い方ではない。

 その双眸から余分な感情を消し去ると、クリューガーは表情を改める。

 悪魔の巣窟とも呼べるプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセの国家保安本部に足を踏み入れた瞬間から、ほんのわずかな隙を見せることすら許されない。

「お待ちしていました、クリューガー先生」

 そう言われてクリューガーは形ばかりのナチス式の敬礼をしてから、薦められたソファに腰をおろした。

 手にしていた黒いカバンを足元に置く。

 彼の目の前にいるのは、年齢のそれほど変わらない親衛隊医師である。

 名前はカール・ゲープハルト。親衛隊少将の階級を持つ高級指導者だ。

「先生が、マリア・ハイドリヒ親衛隊少佐の腹部の怪我を最初に診察したとお伺いしまして、ご意見をお聞かせ願えないかと思いましてお呼びした次第です」

 そう告げられてクリューガーはカバンの中に納められている彼女の診療記録を思い返した。診療記録(カルテ)の患者名は”M”とだけ記されている。

 これはクリューガーがシェレンベルクの指示で後から書き換えたものではない。最初から彼女の診療記録(カルテ)に記載された患者名は”M”だったのだ。

「先日、ハイドリヒ嬢フロイライン・ハイドリヒは暴漢に襲われまして、腕を骨折する負傷をしています」

 ハイドリヒ嬢、という言葉に馴染みがなくてクリューガーは一瞬だけ小首を傾げた。

「……骨折ですか」

「えぇ、なにせ彼女はあの体格ですから、負傷した場合、思った以上に負傷の度合いが深くなるようでして」

 ゲープハルトの差しだした数枚の写真に、クリューガーは「失礼」と言うとそれらの写真をじっと見つめた。

 ごく最近の写真のようだ。

 しかも写真を撮影したのはその道のプロらしい。

 笑顔で振り返る少女がカメラのファインダーに向かって花のような笑顔を向けている。別の写真では重心を踵にずらしてしまったせいで背後に思い切りひっくりかえってしまった少女を親衛隊の制服を着た青年に受け止められる瞬間のものだ。

 写真を撮影したカメラマンは、報道カメラマンにでもなれるのではないかとクリューガーは場違いなことを考えた。

「これが一番最近の写真ですかな?」

 クリューガーが、人差し指で一枚の写真をつまみ上げてゲープハルトに問いかけた。

 左腕を三角巾で吊った少女がプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセの廊下で床に足を投げ出してうたた寝をしている写真だった。

「えぇ」

 考え込むように相づちを打ったゲープハルトに、クリューガーは片手で口元を覆うと午後の日差しが斜めに入り込んでいるコントラストの強い写真を見つめてから、軽く片目を細めると「ふむ」と低くうなった。

「わたしがフロイラインを最後に診察したのは随分と前になりますが、その頃と比べると随分痩せたように思われますが……? これは骨折のせいですかな?」

「骨折とこの異常な激やせについての因果関係については、”本官”はお答えいたしかねる。ただ、クリューガー先生であればなにかご存じではありますまいか?」

 親衛隊の流儀を守るゲープハルトに、ちらりと視線を上げてからレオデガー・クリューガーは何枚かの写真を観察するように見比べてから、おもむろに自分の前のテーブルに出された診療記録を見直した。

「因果関係と言われてましても……」

 言いながら眉をひそめる。

 ドイツも本格的な夏に突入し、写真の少女は薄着になっていてその体系がよくわかる。数ヶ月前にクリューガーが最初に彼女に相対したときに感じたのは、随分と平均的なドイツ人少女と比べると体格が貧弱であるという点だ。

 その印象はごく最近の写真からも強く感じられる。

 ――……いや、それどころか薄い胸板や細い四肢は一番最近の写真では以前よりも貧弱さを増したように感じられた。

 これでは、とクリューガーは思う。

 伝染病などが発生した時に耐えられはしまい。

「フロイラインは、以前わたしが治療に当たっていたときに、一度体重が激減したことがありまして……」

 言いながら、クリューガーがカルテを開いた。

 腹部の傷の治癒が進むに従って、体重が激減していく様子がカルテには記載されている。「もしかしたら」とクリューガーは続けた。

「フロイラインの創部は考えられないスピードで治癒しつつあるのではありませんか?」

「まだ固定したばかりですよ? あり得ません」

 全治三ヶ月以上と思われる骨折だった。それ故に、彼女の体への負担を考えてレントゲン写真は撮影していない。本来であれば必要ないのだ。

「……仮定での話になりますが、少将閣下(ブリガーデヒューラー)

 そう切り出してクリューガーは一度言葉を切った。

「わたしが診療にあたっていたときもそうでしたが、常識では考えられないような創部の改善が見られました。こちらの写真をご覧いただきたい」

 そう言って数枚の写真がゲープハルトの目の前に差しだされる。

 裏には日付が書かれていて、それらの写真が日を追うごとに創部が改善していく様を切り取っていた。

「……――」

「もしくは、彼女が異常に痩せていくのだとしたら、その未知の治癒力のせいであるのかもしれません」

 傷を治そうとする機能は、体に大きな負担をかける。

 体の傷を治すために体力を大幅に削っているのであるとすれば、そのために体重が激減しているのだと思うと納得がいく話だ。

「少将閣下、もしもフロイラインが心配なのでしたら、少し食生活に気を遣われたほうがいいのかもしれません」

 小食で痩せ型の少女が、自分の意志とは関わりなく体に負担を強いてまで、その体に負った傷を治癒させようとして体力を消耗させているのであればそれは大変なことだ。

 体力を消耗しているということは、感染症などの外的因子に非常に弱いと言うことになるだろう。そんなときに他の場所に怪我をしたり、感染症の毒牙にかかったならばそれは命に関わる問題になるかもしれない。

 体力がない、ということはそういうことだ。

 今は国家保安本部に名前を連ねているらしいマリー・ロセター――マリア・ハイドリヒ。

 彼女が「何者」であるのかはクリューガーにはどうでも良い。

 しかしそれでも、彼女という「存在」は実に興味深い、と彼は思った。



 ゲープハルトが執務室で来客をもてなしている頃、第四局――ゲシュタポの長官ハインリヒ・ミュラーのもとに一通の報告が入った。

 それは国境警察からのもので、国境を越えようとしていた不審な男のふたり組を逮捕、拘留したというものだ。

 男のひとりが持っていたカバンは巧妙に細工されており、二重になった内布の間に菱形のSD章とRFSSのカフタイトルの縫い付けられたベルベットの腕章が挟まれていたということだ。

 国家保安本部のSDで、そんなものを身につけるのはミュラーがよく知るただひとりの少女しか存在せず、報告を受けた彼はすぐに一週間ほど前に起こったマリーに対する襲撃事件との関連を考えさせられた。

「すぐに行くと連絡をいれろ」

 部下に命令を下すと、ミュラーはデスクの上の内線電話の受話器を上げる。

「あぁ、ミュラーだ」

 素っ気なく通話口に言葉を放つと、電話の向こうの青年に彼は事情を簡単に説明する。

「スイスとの国境付近で逮捕された男共が、マリーの腕章を持っていたらしい。拘置所のほうに移送してあるから、マリーを連れて男共の確認に行きたいが」

 ミュラーの言葉に、相手の青年――ヴァルター・シェレンベルクは苦笑してから「どうぞ」と告げた。

「ついでに、こんな時間です。食事でも一緒にしてきたらどうでしょう?」

 からかうようなシェレンベルクの言葉に、ミュラーは眉を寄せてから不愉快そうに「フン」と鼻を鳴らすと、若い六局の局長の言葉には応じずに受話器を置いた。

「……こんな時間、か」

 時刻はすでに午前十一時を過ぎている。確かに出かけたついでに食事をするには良い時間かもしれない。

 年頃の女の子らしく、マリーは甘い菓子が大好きだ。

 もっとも無骨なミュラーには少女の好みなどさっぱりわからないが。

 溜め息をついてから彼は制服の袖に腕を通すと自分の公用車の運転手を呼び出してから、特別保安諜報部に足を向けた。

 か弱い少女の腕を折る男など問答無用で厳罰に処してしまえば良いような気もするが、国家秘密警察の長官でもあるハインリヒ・ミュラーは立場上、そういうわけにもいかない。男たちの後ろになにがあるのか突き止めることは彼の仕事だった。

 冷たくも見える仮面を顔に貼り付けて大股に廊下を歩くミュラーは、多くのことを考えながら特別保安諜報部長の執務室の扉を開けた。

 すると、マリーの方はシェレンベルクからすでに連絡を受けていたのか、ベストの手を借りて大判のショールを肩に掛けて胸元を鷲章のスカーフピンで留める。麦わら帽子を頭に乗せたさわやかな出で立ちで少女が振り返った。

 膝丈の清楚なスカートと、やはり膝丈のドロワーズのレースがちらちらと揺れて愛らしい。袋袖になった半袖のブラウスは襟には大きなレースがあしらわれていて、少女らしさを演出していた。

 一瞬、見とれてしまうほどのかわいらしさは、けれどもふんわりとした柔らかな曲線がマリーの痩せすぎた四肢を強調していてそのコントラストに、ハインリヒ・ミュラーがわずかに眉をしかめた。

 まるで力をいれれば壊れてしまいそうな儚さをたたえている。

「容疑者の確認と伺っています。ゲシュタポの拘置所であればなにかがあるとは思えませんが、念のためロートを連れて行っていただければ」

 丁寧な言葉使いでベストがミュラーに告げる。階級は同じであっても一方はゲシュタポの長官であり、一方は特別保安諜報部長次官だ。払うべき礼節が存在している。

「現地までは護衛もつく、心配はいらない」

 片手を振ったミュラーにベストがほほえんだ。

 首輪をつけられたシェパードは鋭い眼差しで特別保安諜報部の面々を見渡している。頭の良い警察犬だ。それをミュラーは知っている。シェレンベルクの要請を受けてロートの移管を決定したのは彼自身なのだ。

「だが、特別保安諜報部の護衛も必要だろう。ロートは連れて行くとしようか」

「よろしくお願いします」

 ロートを連れて行く、と告げたミュラーの言葉がショックだったのか、マリーはと言えば困惑した様子で視線を彷徨わせてから自分の隣に立っているベストの制服をきつくつかんで、彼の腕に強く顔を押しつけてしまった。

 そんな彼女とロートを連れたミュラーはそうして拘置所へと向かう。

 車内でのロートは行儀良いものでマリーの足元に伏せたきりほとんど微動だにしない。そんな様子がよく訓練されているとミュラーを感心させた。もっとも当のマリーのほうは足元にロートがいるという緊張感からか、サンダルを脱いで足をシートの上に上げて、隣に座っているミュラーに助けを求めるように無事な右腕ですがりつき彼の胸に顔を埋めてしまっていた。

 そんな状況に困った様子で「うーん」とうなったミュラーだった。

 (ロート)のほうはおとなしくしているのだから、そんなに全力で怖がることもないだろうに。それがミュラーの「大人として」の本音であった……。

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