8 蜘蛛の巣
「どうせ、”あの男”はただの傀儡……」
マリーはぽつりとつぶやいてベッドに腰を下ろす。
片腕の制限された生活は存外不自由なものだが、あまり彼女は表情を表に出しはしない。そもそも折れてしまった腕に文句を言ってもはじまらない。
ゲシュタポとクリポによる捜査は進んでおり、これによってやはり摘発された多くの反独的活動に従事する者が逮捕された。警察関係者にとってみれば体の良い口実が相手方から次々と作り出されていくものだから、笑いが隠せない事態ではある。
ネーベとの夕食会から二日後、彼女の執務室をひとりの中年の男が訪れた。
神経質そうな眼差しの男で、先頃、人民法廷の長官に任命されたばかりのローラント・フライスラー判事である。
同じく裁判官出身のヴェルナー・ベストは、突然訪れたこの人民法廷の裁判官長官にわずかに目を大きく見開いたが、それ以上の表情の変化を見せることはせずに、右手の平で口を覆うと数秒の後に表情を改めた。
次席補佐官を務めるハインツ・ヨストがそんなベストをちらと見やったが、反応としてはそれだけで、口を開くことはせずにデスクに着いていたマリーに視線を移す。
彼女の執務室には、ベストとヨストの執務机を置かれており、通常はふたりの補佐官たちも彼女と共に仕事をしている。最近では入り口の扉付近に小さな絨毯が敷かれていて、そこは赤号の定位置となっていた。
マリーと共に出勤してきたロートは、毎日専門のスタッフによって数時間の訓練を受ける。調教師でもある親衛隊員はロートの移管に伴って、ゲシュタポからSDに異動となった。ちなみに特別保安諜報部付きであるとは言え、医師でもあるカール・ゲープハルト親衛隊少将はその専門的な仕事の関係上から狭いながらも個室の執務室を与えられている。
秘書のひとりである青年――ハンス・ショルに執務室へと案内されたローラント・フライスラーを見つめて立ち上がった。
「ヒトラー万歳!」
固いベストの声が響いて、ヨストもそれに倣う。
同じ裁判官とは言え、自分よりもずっと年少であるベストに対してフライスラーは居丈高にフンと鼻を鳴らして片手を軽く上げると、ふたりの補佐官に「ハイル・ヒトラー」と応じる。
「親衛隊員のひとりでありながら、党の敬礼もできんのかね!」
唐突に叫ぶように告げたフライスラーに、マリーは静かに口元で微笑する。
目の前に人民法廷長官が来ているというのに全く動じない彼女は、扉のところに待機していた思慮深い瞳をたたえた青年に視線を向けた。
「ありがとう」
「失礼します」
短く告げて踵を返した青年を見送って、マリーは改めて目の前にふんぞりかえっているローラント・フライスラーに視線を戻した。フライスラーの言葉には応えずに、部屋の中央に据えられたソファを薦めて、マリーは立ち上がった。
ベストの見るところ、元々痩せ型の少女は最近になってまた痩せ出したように感じられた。病的な程細い首や、肩。肉がなさすぎて骨が浮いている。
街中で傷害事件に遭ってからだ。
当初はそれほど目立たなかったが、彼女の体は骨折してから日を追うごとに見る間に痩せていく。
「マリー、茶を準備させよう」
言いながらヴェルナー・ベストは内線電話を取った。
こうした客の訪問の時に、多少カロリーの高いものをマリーに食べさせておかなければ、やせ細って死んでしまうのではないかという気分にさせられる。もちろん、彼女が異常に痩せてきていることに気がついているのは、ベストだけではない。
主治医であるカール・ゲープハルトも、そして、人事局長のブルーノ・シュトレッケンバッハ。オットー・オーレンドルフやハインリヒ・ミュラー、アルトゥール・ネーベ、シェレンベルクといった彼女と親しい局長級の者たちも気がついている。
しかし、気がついたからと言って何もできないのが実際の所だ。
彼女は食が細すぎて、共に食事に連れだしたところで、男たちの半分も食べられない。結果として、間食をさせるために頭を使わなければならないのだが、こうした来客のときこそチャンスと言えた。
受話器に向かって来客をもてなすための用意を命じたベストは、視線を年上の裁判官に走らせながら、自分のデスクから立ち上がるハインツ・ヨストを見やった。
「……人民法廷長官閣下のような方が、”このような”諜報機関に今日はどのようなご用件ですかな?」
ローラント・フライスラーは年の初めに行われたヴァンゼー湖畔での会議で下された「最終的解決」に対する計画の決定にも関与している。表面的には感情の変化を現さずに次席補佐官を務めるハインツ・ヨストが問いかけると、痩せた体をソファに投げ出すようにして座りながら、フライスラーはじろりと三角巾で固定された左腕を吊っている少女を睨み付けた。もっとも、本人は睨んだつもりはないのだろうが、いかんせん目つきが悪すぎる。
彼は熱心な国家社会主義の信奉者で、フライスラーが人民法廷の長官に任命されてからというもの国内の死刑判決がうなぎ登りに増加している。
「大ドイツの治安、及び敵性分子の摘発その他一切を取り仕切る国家保安本部で、敵性分子の保護がされていると耳にしたのだが」
そこで一度言葉を切って、フライスラーは胸の前で腕を組んだ。細く神経質な指が一定のリズムを刻んでいて、彼が苛立っていることを如実に物語る。
「あろうことか、この国家保安本部でそんなことが本当にあるのかね!」
甲高い神経質な声。
普通の人間であればフライスラーの糾弾するような声に縮こまるかもしれないが、マリーは残念ながらその程度のことで縮こまる程情緒が発達していない。
「そうなんですか?」
青い瞳を大きく見開いた少女は、言いながらフライスラーの前に腰をおろしてから、自分のふたりの補佐官である法学博士らにもソファを薦めた。
階級的にはマリーが親衛隊少佐で、ベストは中将、ヨストは少将であるはずなのだが、その辺りの上下関係に気負いのない特別保安諜報部の責任者の少女は実にのんびりと穏やかな表情のままだ。
夏らしく白いレース細工のスカーフをヘアバンドにしている少女の首筋は、さわやかに演出されていた。肩にかけられた大振りなレースのショールはそれなりに高価なものであるようだ。
「そもそも、君はなにかね。もう少し自分の”上官”に対して礼儀を払うべきではないのか」
キンキンと響く声は聞いているだけで頭が痛くなりそうだ。
思わずベストは額を押さえてから精神状態を意識的に切り替える。
こんな判事に裁判を担当されたらそれだけで気分が悪くなりそうだ。同じ事を感じたらしい弁護士であるハインツ・ヨストも一瞬だけこめかみを人差し指の先で押さえてから、相変わらずニコニコと笑顔をたたえている特別保安諜報部の部長殿を見つめた。
「お言葉ですが、閣下」
マリーが口を開く前にベストが口を開いた。
「なにかね? ベスト中将」
わざとらしいフライスラーの言葉に、ヴェルナー・ベストは小さく溜め息をつく。
「ご存じとは思いますが、ここ――国家保安本部は軍隊ではありません。階級が下の者がその能力ゆえに階級が上の人間の上官となることもあります。先例に捕らわれないことが、組織の力を保つ以上、階級が上であるとか下であるとか、そのようなことは”部外者”である閣下には関わりがないことと思われますが」
最低限の礼儀を保ちながらベストが告げると、フライスラーは眉尻を引き上げるようにしてから憮然とした。
国家保安本部の外にいる者がどう思うかはともかく、マリーが年若く経験不足であることからヴェルナー・ベストやハインツ・ヨストといった経験豊富な親衛隊高級指導者たちが補佐官として彼女に就いているのだ。マリーが力不足であると問い詰めると言うことは、補佐官であるベストやヨストの力不足を指摘されていることに他ならない。
「国家保安本部が魔窟とはよく言ったものだ……!」
「えぇ、魔窟です」
不快げなローラント・フライスラーにヨストが相づちを打った。
「閣下のような方にはとても理解できない、深い魔物の巣窟です。プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセでは、誰もが背中を見せれば、魔物に捕らわれ食われてしまうでしょう」
国家保安本部に在籍し、生きていくということはなまなかなことではない。
アインザッツグルッペンの指揮官を拝命し、一度はつぶれかけたハインツ・ヨストだからこそ強く実感した。それは、”安全な”ドイツ国内で裁判を担当して犯罪者を弾劾するだけのローラント・フライスラーなどには理解できない過酷な世界。
「その魔物の巣窟で生きる我らが、我らの敵に対して意識を傾けないとお思いですか?」
「しかし火のないところに煙は立たぬと言うではないか」
それに対してはどう弁明されるつもりか。
高圧的なフライスラーの言葉にニコニコと沈黙を守っていたマリーが口を開いた。
「……閣下がなにを懸念されているのか知りませんけど、わたしたちはナチス親衛隊の一員。その諜報部門の中枢にいる我々を閣下は敵に回すつもりですか?」
国家保安本部の手にかかれば、一個人をない罪に陥れることなど容易なことだ。こと、彼女の後ろには諜報のプロフェッショナルであるヴァルター・シェレンベルクがおり、狡猾なオットー・オーレンドルフがいる。
「……脅すつもりか?」
「いいえ」
低く響くフライスラーの声にマリーは即答した。
「そんなつもり”全然”ありません」
小首を傾げると長い金色の髪がその動作にあわせて揺れる。頭髪と同じ金色の睫毛をまたたかせたマリーは目の前に準備された焼き菓子に手を伸ばしながら静かに言った。
「でも、あなたはここが罪を作り出す本拠地だと言うことを失念されている」
ぞっとするほど静かに響いた声に、フライスラーはぎょっとしたように背筋を正した。人民法廷に出廷を命じられる「犯罪者」たちは多かれ少なかれ国家保安本部の率いる刑事警察、あるいは国家秘密警察で訊問を受け捜査される。
罪を作り出す場所――。
そしてフライスラーの率いる人民法廷は、その罪を断罪し、処罰する場所であるということ。
つまるところ、マリーの言葉は暗に告げているのだ。
――自分たちは、あなたをも陥れることが可能なのだ、と。
「勇ましいのは”結構なこと”ですけど、敵とする相手を間違えれば寿命を縮めることになるんじゃないんですか?」
言葉はひどく物騒であるというのに、彼女の笑顔は変わらない。
まるで太陽のかけらであるかのような。そして晴天の青空であるかのようなそんな双眸にフライスラーは眉間を寄せる。
「……き、貴官はわたしをなんだと思っている!」
咄嗟に内心の動揺を取り繕うように叫んだフライスラーに、マリーは焼き菓子を見つめていた瞳を上げた。
まるでその瞳は目の前の小石でも眺めているようだ。
子供の無邪気さをたたえながら、どこまでも残酷に無関心。
「判事さん」
感慨のひとつも見せずにマリーは言った。
そう。
彼女は相手が人民法廷長官であることもわかっている。けれども、マリーにとって彼が人民法廷長官であることなどどうでもいいことのひとつでしかない。
要するに、犯罪を犯していない人間にとって、警察官が無意味でしかないことであるように、彼女にとってフライスラーはその程度の存在でしかない。親衛隊全国指導者という絶対的な権力に守られた彼女を裁くことなどできるわけがない。
「人民法廷長官閣下は、ご自分の進退にお気を遣われることですな。閣下でしたら、国家保安本部を敵に回すと言うことが面白くない事態を引き起こすということはご存じのはずです」
首席補佐官のヴェルナー・ベストが付け足すように告げるとマリーはにこりと彼に笑った。
自分の地位と身の安全に関心があるのならば、首を突っ込むな――。
マリーはそう言っているのだ。
「このケーキ、おいしいわ」
ベストに笑顔を向けてなにを言い出すのかと思ったら、マリーはそんなことを告げた。
「あぁ、それはゲシュタポのアイヒマン中佐が差し入れてくれたものだ。後でお礼を言っておきなさい」
「はーい」
不思議なもので、マリーにとっては高官たちとの緊張感に満ちた会話も、大好きなケーキの話も、所詮は日常会話の延長でしかないようだ。
年若い父親に笑顔を向ける娘のような雰囲気の彼女に、フライスラーは考え込むように眉をひそめてから改めて少女を見直した。
高く、深い空か、もしくは海のような一対の青の津波にのみ込まれるような感覚を味わいながら、フライスラーは緊張しきった様子でごくりと唾液を飲み込んだ。




