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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
VIII ソドムとゴモラ
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7 ガラスの向こう側

 スイス連邦における対独抵抗組織の大規模な摘発が行われたという現実は、多くの地下組織や連合諸国を震撼させた。

 すでにドイツの情報機関はスイス当局が連合国への協力を影から支援しているという情報を掴んでいたため、これ以上の連合国に対する戦時協力は中立条項の重大な違反、併せてドイツ第三帝国に対する敵対行為と見なし、これに対してドイツはスイス連邦へ対する武力行使も辞さないだろう、という情報が親衛隊情報部の将校からさりげなく示唆された。このためスイス当局は国内における「違法な」盗聴組織に対する摘発を行わざるを得なくなり、これらの捜査によってドイツ側、あるいは連合国側の多くの諜報活動の協力者らが逮捕された。また、スイス連邦政府内におけるユダヤ人資産を本人の死亡確認後も訃報に隠匿していた証拠をドイツ側に握られ、対独諜報にあたった多くの中心人物をドイツに移送する決定に首を縦に振るしかなく、これによりそれらの「犯罪」に関係した者の多くが強制収容所に送還された。一部の主犯格の者たちはゲシュタポに関連する拘置所へと送られた。

 いずれにしろこうした事情から実質的にスイス情報部は連合国の側に立って動くことは不可能となり、それらの情報はイギリス連邦情報部インテリジェンス・サービスやアメリカ合衆国戦略情報局(OSS)赤軍情報部(GRU)などの行動にも大きな制約を課すと共に、ドイツ国内の大幅な情報組織の改編は敵対する多くの者たちに強い警戒心を抱かせる結果となった。

 この数ヶ月足らずの間にドイツの情報組織の中で「今まで予測もできなかったようななにか」が起こりつつあることはほぼ間違いない。アレン・ダレスはそう確信するに至った。そしてその確信の上に立って考えればドイツ情報部の異常とも言える活動には得心がいく。

 方法が変わった、ということは状況を分析する上で重要な鍵だ。人間というものは個人個人で考え方の癖、状況への対応の癖、能力ややり方と言ったものはそうそう変わるものではない。それらが変わったと分析者が見てそうした結論にたどり着くのであれば、それまでえとは異なる思考体系が組織の中に入り込んだと言うことに他ならない。

 そしてこの場合の「思考体系」とは「人」そのものだ。

 何よりも、とアレン・ダレスは思う。

 相手の出方がわからないということは危険極まりないことだった。たどり着いた可能性のひとつにダレスは総毛立った。

「……――番犬、か」

 先日、イギリス軍情報部(MI6)からの情報ではチェコスロバキアにおけるドイツの占領地区――ベーメン・メーレン保護領の副総督を務めたラインハルト・ハイドリヒがチェコスロバキア亡命政府の手によって暗殺されたということだった。この一件に対してはイギリス政府も大きく関わっており、武器の提供などの協力を行っている。

 おそらく、ドイツ情報部に配置された「番犬」は恐ろしく鼻が利く。野生の肉食獣のハンターのように慎重な”それ”は容易に正体を明かしたりはしないだろう。

 苛立たしげに腕を組み直したアレン・ダレスは、自分のもとに絶え間なく舞い込んでくる情報の海に埋没したままで低いうなり声を上げた。

 ベルリンで活動していた彼の手勢はほぼ全滅といってもいいだろう。一部はまだ活動を続けているらしいが、いかんせんダレスらの組織と連絡を取ることのできる者たちが短期間のうちに激減してしまったということは頭の痛い問題だった。

 情報が遅延している。

 対ドイツ情報も気にかかることではあるが、アメリカ人であるアレン・ダレスにはもうひとつ気にかかることがある。アメリカ合衆国の国籍を持つひとりの人間として、気にかからないわけはなかった。

 ――第三二代アメリカ合衆国大統領、フランクリン・ローズヴェルトの暗殺事件。

 国内の人種問題による緊張はまさに最高に達している。国内もこんな状況なのだ。アレン・ダレスはこれらの事態に強い不信感を抱いた。

 アメリカ国内に混乱を巻き起こしたのは、ヒトラーの率いるナチス・ドイツではあるまいか? そう考えればつじつまが合わなくもない。しかし、それでも尚、不可解な部分は多く残った。

 全てをドイツの陰謀として片付けてしまうには納得のできない点がある。

 本国から送られてきた数十ページに及ぶ報告書に目を通しながら、ダレスはじっと考え込んだ。彼の敵は巧妙で簡単には姿を現さない。そして、それが故に狡猾だった。

 目の前に溢れる情報の洪水。それらを解析して真実を探り出すのがダレスの仕事で、一番の問題はそれらが敵側から流されたものであるのか、味方からのものであるのか。そして、それらが意図的なものであるか偶発的なものであるのか。

 それらを見極めなければならない。

 相手――姿を見せない敵――が自分よりも格下であれば、比較的造作もないことであるが、現実はそれほど甘くはない。

 何度か腕を組み直したアレン・ダレスはじっと目を細めてから窓の外を見やった。

 夏の空には白い雲が浮かんでいる。

 ひどく穏やかな空の下には、けれどっもこの世の地獄が続いていて、自分はその地獄から苦しむ人々を救い出そうと強く願った。だからこそ、祖国を遠く離れたスイスにあってドイツへの戦いを彼は挑んだ。

 けれども。

 ダレスは考えた。

 アメリカ合衆国は移民の国だ。その移民国家が敵国にルーツを持つと言うだけで、日本からの移民たちを不法に差別して強制収容所に収監していること。

 ”彼ら”だけを。

 同じ敵国出身だと言うのであれば、ドイツ系、イタリア系”など”の国々をルーツに持つ者たちをも収監すべきなのではないか。

 そこまで考えてからダレスはかぶりを振った。

 考えても仕方のないことだ。ローズヴェルトの政策を受け継いだ第三三代大統領のヘンリー・A・ウォレスであればどうするだろう。

 彼は政治家のひとりとしては、人種問題に対してひどく進歩的な考え方を有しており、白人と有色人種の垣根を取り払おうとする傾向が強かった。しかしここで問題となるのは民主党と国内世論――特にアメリカの白人中産階級に属する者たちの――である。ウォレス本人の政治的思想はどうあれ、彼の所属政党である民主党と、国内世論が彼の掲げる政治理念と合致するとは思えない。そうなると、ウォレスの思惑はどうであれ日系アメリカ人の強制収容所の解放には至らないであろうと、ダレスには考えられた。

 そこまで考えてからアレン・ダレスはぶるりと身震いした。

 他方面に対して戦争をしているのはドイツや日本だけではない。

 アメリカ合衆国の混乱に乗じて現在の親独国家が一気に反米に転じる可能性をも考えられるとすれば、アメリカ国内の白人たちが思うところは別として、建国の頃より抱えている人種問題という”それ”は明らかにアメリカのアキレス腱と呼べた。

 そしてそれがドイツの情報部の知るところとなれば、彼らはなにがなんでも利用しようとしてくるだろう。

 最悪の可能性にたどり着いてダレスは青ざめると片目を手のひらで覆った。彼は情報将校のひとりであるが故に安易な楽観論を切り捨てた。

 ドイツ側の思惑とは別に彼にはもうひとつ気がかりなことがある。

 正確に言えばひとつではないのだが、簡単に言うならば”ひとつ”と言えるだろうか。

 アレン・ダレスの気にかかる事と言えば、アメリカ合衆国の友人――ソビエト連邦のことであった。現在のソビエト連邦はスターリン派と、ニキータ・フルシチョフを中心とする軍部の一部とに別れて血で血を洗う泥沼の政情に陥っている。さらにスターリンを共通の敵とするドイツ軍と反スターリン派が共闘するような形になっており、ソビエト連邦の同盟国であるアメリカとしては深刻な問題になっていた。

 フルシチョフ一派がドイツと共闘するような姿勢を取っているのであれば、日独伊を敵とするアメリカにとって、彼らは同様に敵であるはずだ。

 この場合、支援を中止することとするのか……。

 現在の人種問題に揺れるアメリカ国内の状況を鑑みると、対独戦と内戦を行うスターリンを全力で支援を送る余裕はない。

 さらに米ソを結んでいた補給ルートの要であるコーカサス地方はすでにドイツ陸軍へと明け渡された。情報では、南ウクライナの工業地帯もフルシチョフの革命軍によって占拠されつつあるらしい。

 報告書の紙の束の縁に触れながら、デスクに頬杖をついたダレスは大きな溜め息をついた。そろそろ新たな情報がベルリンからもたらされてもいい頃合いだと言うのに、その気配が全く見られない。

 それが不愉快でアレン・ダレスは視線を横に流した。



  *

「まだ痛むだろう」

 気遣うような眼差しのアルトゥール・ネーベに問いかけられて、マリーはスープをスプーンですくいながら目を上げるとにこりと笑った。

「大丈夫です」

「そうか……。しかし災難だったな」

 マリーの腕章は新しく作り直された。腕章が奪われたこと自体は大した問題ではないが、それが奪われたことによって彼女の存在が公になることは危険なことだ。

 もちろんネーベにしてみれば、ナチス親衛隊を含むナチス党(NSDAP)のやり方に対しておもしろくないものも感じなくはないが、それとこれは話は別だ。

 久しぶりにマリーのアパートメントを訪れたネーベは、共に夕食を楽しんでいた。

 国家保安本部などという魔窟に住んでいるせいか、彼女と共にいると気分がまぎれる。時にはひどく物騒な台詞を口にすることもあるが、それでも彼女のまっすぐな眼差しと子供らしい伸び伸びとした考え方はネーベのすり切れた心に心地よくしみこんだ。

「……子供が羨ましいものだ」

 ぽつりとつぶやいた男に視線を向けたマリーに、ネーベは苦笑すると無言でパンをちぎりながら小首を傾げる。

 元々、それほど多弁なほうでもない。

 安易に思っていることを口にして自身の破滅を招き寄せることも知っている彼は、ナチス党が政権を握って以来さらに口が重くなった。

 それは彼自身のためでもあるし、彼の知人のためでもある。口の重い警察官僚などと共に食事をしていると気疲れでも起こしそうだが、マリーはマリーで相手が黙り込んでいても気に掛けている様子は見られなかった。

「大丈夫ですよ」

 やがてマリーは食事を終えてから笑みを浮かべながらそう言うと椅子に深く背中を預けてネーベを見つめる。

「大丈夫だと思うかい?」

「はい」

 なにを、とネーベは言わないし、なにがとマリーは言わない。

「そういえば、そろそろ犬には慣れたかね?」

「……――シェレンベルクが、行き帰りはロートを連れて行けってうるさくて」

 もごもごと言い訳するようなマリーの口調に、刑事警察局長は思わずぷっと吹き出してしまった。

 マリーにとっての大問題であるロートは絨毯の上に寝そべってマリーの声を聞きながら時折パタパタと耳を動かしていた。こうして見ているとただの愛玩犬のようにも見えるが生粋の警察犬だ。

「それではわたしもそろそろお暇しようか、さすがにわたしのようなおじさんが、君と恋人関係だという噂がたつのは君が困るだろうからね」

 言ってから立ち上がったネーベは軽く少女の体をハグすると、ナチス式の敬礼はせずにマリーのアパートメントを出て行った。

 テーブルの上に取り残されたパンは丁度、翌日の朝食に都合が良い。

 皿を片手にとって歩きだしたマリーは、ふとロートの脇をすり抜けて窓辺に歩み寄った。路肩に駐車された黒いメルセデスに歩み寄るネーベが、自分の車に寄りかかっている男を認めて足を止める。

 ヴァルター・シェレンベルクよりもいくらか年上だろう。

 マリーは車に寄りかかっている男を窓から見下ろしたままでそっと目を細めた。

 ネーベの歳の離れた友人といったところだろうか。もっともそれにしてはふたりの間に流れる空気の緊張感は尋常なものではない。

 皿を持ったまま窓の外を見つめているマリーを、ネーベの若い友人らしい男が見上げた。その視線を追いかけてネーベもマリーの住むアパートメントの窓を仰ぐ。国家保安本部の刑事警察局長は柔らかな光を穏やかな瞳に浮かべて軽く手を振った。

おやすみ(グーテ・ナハト)

 動いた唇にマリーも手をネーベに振り返す。

おやすみなさい(グーテ・ナハト)

 窓に背中を向けたマリーはそうして長い睫毛を伏せた……。


「それで、”博士”には伝えたんだろうな?」

 マリーに語りかける時の声色とは似ても似つかない厳しさを帯びた声でネーベは青年に語りかける。

「はい、ですが”中将閣下(グルッペンヒューラー)”、国家保安本部は本当に好ましい方向に向かうのでしょうか……?」

「わからん、だが、もしかしたら”我々”が予想する以上の事態が起こりつつあるのかもしれん」

「だといいのですが……」

 そこで言葉を切って青年はもう一度、少女のいなくなった窓を見上げてから首を傾げた。

「ところで中将閣下(グルッペンヒューラー)、あの娘さん(フロイライン)は?」

「……六局の、情報将校だ」

「ほう」

 少女の情報将校。

 興味深い言葉に、眼鏡をかけた男は彼女の事はそれ以上追及せずに、話題を切り替えた。

「中将、耳に入ってきた情報ですが、よろしいですか?」

「ここで話すのは危険だな、乗れ」

 自分の車に相手を招いて、ネーベはハンドルを握った。

「それで、ギゼヴィウス。話というのは?」   

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