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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
VIII ソドムとゴモラ
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6 清冽の共鳴

 残酷な程平等に”死”は人々に訪れる。

 身分も、立場も、年齢も、性別も。なにもかもが関わりなく、”平等”に。

 マリーはいつものように国家保安本部の中庭のベンチで持ち出したチェス盤の上に駒を並べてそれを凝視している。

 盤と駒――。

 周知の事実だが、国家保安本部(RSHA)とは怪物の巣窟として多くの人間たちから認識されていた。国家保安本部内の組織には人々が恐れる国家秘密警察(ゲシュタポ)や、ネーベの率いる刑事警察。さらに国防軍の将校たちからは煙たがられるゲシュタポや刑事警察、国内諜報局などを中心に構成される戦場に展開する行動部隊アインザッツグルッペンなど。

 悪名高い原因など山ほどあるため、その本部でもあるプリンツ・アルブレヒト(シュトラッセ)に好きこのんで近づこうとする人間はなかなかいない。いたとしても、せいぜい国家保安本部内で何が画策されているのかを監視しようとする敵対勢力――国防軍情報部”など”の――程度である。

 そんなプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセの国家保安本部のオフィスに変化が現れたのは八月の半ばを過ぎた頃だった。マリーが国家保安本部に所属するようになってから、空軍総司令部や国防軍情報部、ゲシュタポや刑事警察などの将校たちの口から口へ伝わる噂のせいか、彼女の存在はドイツ第三帝国の中枢でまことしやかにささやかれるようになっていた。

 ナチス親衛隊の国家保安本部に異色の親衛隊将校が存在する。

 先だって、親衛隊長官ライヒスヒューラー・エスエスと国防軍参謀本部とのやりとりに席を連ねていたマリーに対して、陸軍司令部参謀総長フランツ・ハルダーはそんな子供を同席させたヒムラーと、マリー本人にあからさまな侮蔑の眼差しを突きつけた。もっとも、そんなハルダーに対して居心地の悪そうな顔をしたのは、当の親衛隊全国指導者だけで、少女のほうはどこ吹く風と言った様子で機嫌の悪化しきった陸軍司令部参謀総長に子供らしい笑顔を向けただけだった。

 もちろんそんなマリーの笑顔がハルダーの機嫌を更に悪化させたのは言うまでもない。

 そんな経緯(いきさつ)はともかくとして、ハルダーとのやりとりが印象深いところもあったのか、その会議の後から国家保安本部を訪れる情報将校が急に増えたというのは言うまでもない。

 ちなみにこのために渋面を隠せないのは国家保安本部長官代理を務めるブルーノ・シュトレッケンバッハで、苛立たしさを隠せないまま親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーにプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセに関係者以外の立ち入り禁止を求めた程だ。

「あんなヤセギスの幼児体型に肉体関係を迫るような幼児趣味もいないだろうから、国家保安本部(RSHA)の風紀が乱れることは心配なかろうが、関係者ではない国防軍や外務省の情報官共が我が物顔でのさばっているのは我慢ならん」

 やはり機嫌悪そうにつぶやいたシュトレッケンバッハに、ゲシュタポの長官であるハインリヒ・ミュラーが代用コーヒーの注がれたカップに口をつけながら肩をすくめた。

「噂では、ヒムラー長官はシェレンベルクを次期国家保安本部長官に押したらしいじゃないか」

「まだ若すぎるだろう。腕も頭も文句はないが、若すぎると言うだけで、部下が気を遣うもんだ」

 若すぎる。

 シュトレッケンバッハの言葉に、ミュラーは無言のまま目の前を睨み付けた。

「……そうすると、公安関係者となると他に誰が適任か、ということだな」

 ナチス親衛隊には知識人が多い。

 特に国家保安本部は人材の山だ。とはいえ、それを自分の利己的な権力欲のために邪魔になる者をことごとく潰してきたのは前国家保安本部長官のラインハルト・ハイドリヒだ。

 ちなみに余談ではあるが、ハインリヒ・ミュラーは多くから「ゲシュタポ・ミュラー」と呼ばれるのだが、その理由は彼と同姓同名の者が数多くいるからである。

「さて」

 深くは言及せずに、シュトレッケンバッハは窓の外の中庭に視線をおろして熱い代用コーヒーをすすった。

 誰もが出世レースに立っている。

 シュトレッケンバッハ、ミュラー、ネーベ。そして先日親衛隊中将に昇進したばかりの若きホープ、オットー・オーレンドルフ。

 局長級の者だけでもこれだけ自分と同じ階級の者が並んでいるのだ。

 これから国家保安本部の人事がどう動くのかなど余り考えたくもない。

「可能性を考えれば、国家保安本部(RSHA)外から抜擢するのが強いだろうな」

「かもしれん」

 シュトレッケンバッハに短く応じたミュラーは、頷いてから人事局長の視線の先を追いかけた。

「しかし、”奴ら”は余程毛色の違う情報将校に好奇心がつきないと見えるな」

 ひとりでチェスの駒を動かしながら考え込んでいる少女を見つめながら、ゆっくりと歩いてくる国防軍の高級将校の姿にミュラーは目を細めてつぶやいた。

「そのようだな」

 国防軍の情報将校だけではない。国民啓蒙・宣伝省の大臣、ヨーゼフ・ゲッベルスの情報官なども彼女に探りをいれにきていた。シュトレッケンバッハにしてみれば迷惑な話で、マリー本人はいつもの如く子供らしさ溢れる笑顔で丁寧に対応しているときたものだ。

 片手で額を押さえたシュトレッケンバッハは頭痛がしてくるとでも言いたげな様子で大きな溜め息をつき、隣にいるハインリヒ・ミュラーは余り表情の動かない瞳を上げてから肩をすくめただけだった。

 ブルーノ・シュトレッケンバッハが頭痛がしてくるのもわからないではない。

「部外者を追い払うか?」

 ミュラーの台詞にシュトレッケンバッハは「いや」と言いながら肩の辺りで軽く片手を振って見せた。

「自分でなんとかするだろう。それに、部外者に余分なことを垂れ流すような間抜けはいないだろう」

「彼女以外は、な」

 危惧はそこだ。

 マリーには誰に情報を明かしてはいけないとか、そういった危機感がない。おそらく自分にとって利益があるか、ないかそれくらいしか考えていないのではないかとすら感じさせられた。

 そして危機感がないからこそ、マリーは陸軍司令部参謀総長であるフランツ・ハルダー陸軍上級大将にすら真っ向から異を唱えた。五八歳の古強者の将軍に顔色も変えずに異論を唱えることなど、十代の少女にそうそうできることではない。

「単になにも考えていないだけなのか、鈍いのか、というところだな」

 シュトレッケンバッハのマリーに対する評価は容赦がない。ミュラーはちらりと視線だけを上げてから頭上を見つめるとじっとなにかを考え込んだ。

「まぁ、大丈夫だろう」

 そうミュラーは言った。

 中庭のベンチでチェス盤を見つめているマリーは集中しているのか、男が近づいていることに気がついていないようだった。

 負傷していない右手を動かしてチェスの駒を動かす少女は、頭上から伸びてきた大きな手が駒を取りあげて動かしたのを認めて顔を上げる。

「戦略ゲームは苦手か」

「別に、興味ありません」

「興味ないのにチェスを?」

 ひとりでチェスに興じていた少女は穏やかにほほえむと目の前の高級将校――フランツ・ハルダーをじっと見つめてから朗らかな光を青い瞳に浮かべて見せた。

「……戦争も、チェスと同じだと思いませんか?」

 言いながらマリーはチェス盤に乗った駒を大きな動作でぞんざいに地面へと払いのける。軽い音をたてて白と黒の駒はぱらぱらと地面に落ちた。彼女の発言の意図がわからずにハルダーが両目を細めるが、マリーは動揺することもせずに自分の目の前に立て見下ろしている壮年の男を見上げてみせる。

 かわいらしいと言っても過言ではない彼女の笑顔に、ハルダーは眉をひそめたままで少女の隣のベンチにどっかりと腰をおろした。

「同じではない、人の――兵士たちの命がかかっている」

 ぶっきらぼうなハルダーの言葉にマリーはひっそりと笑ってみせる。

「そうですね」

「君にとっては同じなのか?」

 咎めるようなフランツ・ハルダーの声色に、マリーは大きな瞳に子供らしい強い好奇心をたたえたままで男を片目で凝視する。

「戦場に立たないわたしにしてみれば、”同じ”です」

「関心できん物言いだな」

「そうでしょうか……?」

 腕を組みながら軽くうなったハルダーは骨折した腕を吊っている少女を見下ろした。先日の会議の時は熱くなっていたので彼女が通り魔に遭遇し、傷害事件に巻き込まれ負傷したということにまで意識は回らなかったが、こうして頭が冷えてから彼女を見ると三角巾と固定された包帯の白さが痛々しさを際立たせていた。

 事件現場に居合わせたクラウス・フォン・シュタウフェンベルク陸軍参謀少佐によると、彼女自身と比較すれば体格の全く異なる男に襲われて力尽くで体を押さえつけられたらしい。彼によるところでは、マリア・ハイドリヒの腕章が目的だったのではないかということだが、そう考えると彼女の腕章を奪った者――あるいはどこかの国の工作官かなにかであろうが――は、ドイツ第三帝国の保安組織である国家保安本部(RSHA)に配属された異色の情報将校に対する情報収集を行っていたのかもしれない、とのことだった。

「でも、ハルダー閣下も知ってるはずです」

 あなただからこそ知っているはずだ。

 そうマリーは言外に告げる。

「何が言いたい?」

 数秒の沈黙の後にハルダーが言うとマリーはふわりと笑ってから、地面に散らばったチェスの駒を見下ろして爪先で蹴りつける。まるで喉元に真実の(やいば)を突きつけられてでもいるかのような雰囲気に、ハルダーは再び不快そうに眉間に皺を刻んだ。

「現実の戦争も、ゲームも、同じなんですよ。”指揮官”は生殺与奪を握っている。そして、命を奪われるのは兵士。だけれども、机の上では血は”流れ”ない」

 机の上では血が流れない。

 まるでそれは暗喩ですらあるかのように、ハルダーの胸に強く響いて彼は思わず彼女の言葉に対しての反応に躊躇した。机の上では血が流れない、というその言葉は単に戦争における戦略上のそれを言っているのか、それとも国家保安本部の主導で行われている”作戦”のことを言っているのか……。

 それを判断しきれずにハルダーは無言に陥ってから首を傾げた。

「それに、どうせ血は流れるんです。それが敵の血か、味方の血かという違いだけ。結局血が流れるのなら、その価値に違いはないわ。相手の命に価値がないと思うなら、それは結局ゲームと一緒」

 どうせ人の血が流れるのが戦争ならば、その命の価値を語るだけで笑いぐさだと告げるマリーに、ハルダーは不機嫌に舌打ちを鳴らして鼻から息を抜く。

「味方の血が流れないように努力するのが指揮官の責任だと言っている」

「そうですね」

 マリーはフランツ・ハルダーにくすくすと笑ってから爪先でチェスの駒を地面に押し込んだ。それは、まるで幼い子供が遊びで虫の羽根でも引きちぎるような残酷さを感じさせて、壮年の陸軍司令部参謀総長はマリーの所作を見つめたままで沈黙する。

 得体の知れない不気味さを感じるとでも言えばいいのか。

 言っている事と、所作はひどく物騒であるのに、その表情はひどく明るい笑顔をたたえていて、”そんなもの”をハルダーは今まで見たことがなかった。

 ひどくアンバランスだと言えば正しいのかもしれない。

「でも、わたしにはそんなことどうでもいいんです。悩むのは軍人さんのお仕事で、わたしは軍人さんじゃありませんから」

 だから、ハルダーの懸念などどうでもいい。

 言い放ったマリーにハルダーは思わず右手を振り上げて、そのまま大きな手で少女の頬を打ち下ろした。

 パンっと渇いた音が鳴って、マリーは張られた頬を片手で押さえて空のような青い瞳でハルダーを見つめる。

「……君は、人の命をなんだと思っている!」

 激昂するような彼の言葉に、しかしマリーは動じなかった。

「別に、”何も”」

 マリーにとって、人の命など全て同じだ。

 わざわざそれを誰かに説明してやるつもりなどかけらもないが、彼女は何度となくラインハルト・ハイドリヒの「死」を繰り返してきたのだから。

 自分の命も、人の命も、マリーにとっては同価値だ。

 自分の命と比較してすら、人の命は同じ価値しかないのだから、マリーにとって敵も味方も命の価値に変わるわけもない。

 うっすらと唇に笑みをたたえたマリーに、足元を蹴るようにして立ち上がったフランツ・ハルダーは肩を怒らせながら少女に背中を向ける。

「……人の命に差異があると思うなんて、ただの偽善だわ。自分の優しさを自分で感じて、そうしてただ自分に酔っているだけ」

 ねぇ、そうでしょう……?

 不気味に聞こえる程のマリーの声にハルダーはぞっとするものを隠せずに、思わず背筋を震わせる。

 ただの偽善者。

 彼女の言外の台詞にハルダーは返す言葉を見つけられずに奥歯をかみしめた。


 ――思い上がるな……。

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