3 波紋と落雷
周りから見ている分には国家保安本部に所属と鳴った少女士官が襲撃を受けたことに対してハインリヒ・ヒムラーが必要以上に動揺しているようにも見える。自分の思うところを第三者に語ったところで理解を得られるとはさすがにそろそろ思っていないヒムラーであったから、人目をはばかって口にはしない。しかし、マリア・ハイドリヒが襲撃されたという報告に対して、彼は心底ぞっとしたのだ。
つい先日朋友とも呼べるラインハルト・ハイドリヒを失ったばかりであるというのに、再び誰よりも大切な共を失うことになるのではないかと恐怖した。
ハインリヒ・ヒムラーの頭脳であり、冷酷な手段を下すための両腕そのもの。もちろんヒムラーはハイドリヒの権力の拡大を恐れてもいた。それでもヒムラーにとってハイドリヒは無二の存在であると思えるほどには、ヒムラー自身にとっても、そしてまたドイツ第三帝国にとっても重要な存在だった。
彼の存在が邪魔になったヒムラーが、ハイドリヒを暗殺したのではないかとも陰口をたたかれることもあるが、そんなことは断じてありえない。
そうでなければ自分の侍医であったゲープハルトをプラハまで派遣したりするわけがない。
だから、ヒムラーはマリーがどこの馬の骨ともわからない男に襲撃されたと聞いたとき、心の底からぞっとした。
――また、失うのではないかと、それを恐れた。
姿形も、声も。なにもかもを変えてヒムラーの前に再び現れ、ドイツの行く先を指し示す少女を失うことを何よりも恐れたのだ。
報告を受けて慌てて病院へ駆けつけた頃には、すでに日もとっぷりと暮れていて、マリーの収容されている病室はフロアから一般人を完全に人払いされて、厳重に国家保安本部の警察官たちによる警備体制が敷かれている。
ヒムラーが病室へと入ると、ベッドの脇に伏せていた警察犬が跳ね起きるように体勢を低くして前足を踏ん張って威嚇するようなうなり声を上げかける。赤毛の印象的な大型犬のそんな様子にヒムラーがぎょっとしたが、室内に待機していた警官の命令によって再びその場に伏せの状態になった。
しかし警戒をほどかないのはさすがにベテランの警察犬だ。
「ヒトラー万歳」
敬礼を受けてヒムラーは軽く片手を上げる。
ベッドには鎮静剤を打たれた少女が眠っている。
ヒムラーの娘と大して年齢の変わらない華奢な少女。彼女に多くのことを要求しすぎることは酷な事なのかもしれない。それでも、彼女がラインハルト・ハイドリヒであるならば。その期待は間違いではない。
片腕が折られただけですんだのはまさしく不幸中の幸いだ。
病室から人払いをしたヒムラーはベッドの脇に椅子を引き寄せるとこみ上げてくる安堵に両目を思わず潤ませた。
「……ラインハルト。君が、無事で良かった」
聞く者がいたなら失笑したかもしれない。
ベッドサイドに両肘を付いて彼は眠る少女を見つめた。
「わたしは、また君を失ってしまうことになるのではないかと思ったらいてもたってもいられなかった……」
かつて強制収容所で囚人の銃殺を見たヒムラーを助け起こしたハイドリヒの瞳は強く感じるほど冷たい光をたたえていて、そんな冷徹さにぎょっとしたものの、けれどもそんな強さに憧れもした。
そんな今は亡きハイドリヒとは似ても似つかない姿のか弱い少女に、ヒムラーは親衛隊の未来を託す。
「わたしの右腕とも呼べる君を、わたしは二度と失うわけにはいかない。わたしは君がプラハで死んでしまった時になって、はじめて君がどれほどわたしにとって大きな存在であったのかを知らされたのだ……」
眠る少女に囁くほど静かに語りかけるヒムラーはじっと目をつむってから沈黙した。
彼女がラインハルト・ハイドリヒなのだと知ってから、彼は一度として彼女に触れてはいない。
触れればまるで波紋のようにその姿は消えてしまうのではないかと思ったからだ。だからハインリヒ・ヒムラーには彼女に触れられない。
怖くて触れられない。
「わたしは二度と君を失うわけにはいかんのだ」
誰よりも大切な片腕だと思えばこそ。
「ラインハルト……」
返る言葉がないことを知りながら、ヒムラーはただ眠る少女に語りかけた。そうしてしばらく眠るマリーを見守っていた彼は無言のまま立ち上がると病室を後にした。
自分が女々しいのはよくわかっている。
それでも、自分の部下たちのように強靱くはあれないのだ。心の弱い自分には、強い彼らは憧れの対象だ。
「ハイニ」
ふとよく知った声に話しかけられて、ヒムラーは顔を上げた。
「……カールか」
泣きそうな顔でかすかに笑ったヒムラーに複雑そうな顔をするのは、カール・ゲープハルトだ。
「彼女のことをよろしく頼む」
自分よりも少しばかり年上の幼なじみの男に頭を下げたヒムラーに、ゲープハルトは苦笑した。
「天下の大ドイツの親衛隊長官が部下に頭を下げてはなりませんな。……なに、ただの骨折です、ご安心ください」
丸い眼鏡の奥で人の良さそうな笑顔をたたえたゲープハルトに、ヒムラーは唇を軽くかむと顔を上げる。
「シェレンベルクからの報告書は見ている。彼女の身辺警護など必要なことがあれば随時請求するようにと伝えてくれ」
「承知しました」
親衛隊長官と、その側近。
幼なじみであるという関係よりも、重視しなければ関係だった。
「……長官」
「なんだね?」
彼に背中を向けたヒムラーに、ゲープハルトが呼び掛けた。
「彼女はなんなんです?」
「”君”は首をつっこまんでいいことだ。わたしを信じて、彼女を支えてほしい」
そう言い置いてヒムラーはゲープハルトの前を立ち去った。そんなヒムラーの後ろ姿に敬礼を返しながらカール・ゲープハルトが考え込むような表情をしたのは言うまでもない。
おそらく追及すれば口を開くだろうが、ゲープハルトにはそんなことはどうでも良いことのように感じられた。
昔からそうだ。
ヒムラーは彼自身の中に別の存在を飼っている。
オカルトじみた、とでも言うのが一番手っ取り早いのだろうが、そんなものは周りが本気にしなければ良いだけのことだ。
「まぁ、どうでもいいか」
ゲープハルトはぽつりとつぶやいた。
彼にとっての重大な問題は、目の前に怪我人がいることだ。
親衛隊の制服の上に羽織った白衣の袖に腕を通しながら、ゲープハルトはちらと腕時計を見やった。
すっかり夜だ。
彼が時折自宅に帰れないことは細君も知っていることだが、連絡をいれたほうがいいだろう。とりあえず、眠る患者の様子を確認してからでいいだろうと息を吐き出してからゲープハルトは廊下に靴音を鳴らした。
マリーの腕をへし折った男が乗車した車は盗難車だった。
陸軍参謀少佐のシュタウフェンベルクが目撃したナンバーから車の捜索が行われ、程なく発見されたもののすでに遺棄された後だった。
しかし物証がでたことは大きなことで、ゲシュタポと刑事警察によって大がかりな捜査が開始されたのはそれから程なくしてのことだ。
「おそらくアメリカの戦略情報局か、イギリスの軍情報部第六課が絡んでいるんだろう」
オーレンドルフが腕を組んだままシェレンベルクにそう言った。
「でしょうね」
赤軍情報部はおそらく国内の混乱で他国の反独組織に支援をする余裕などないだろう。スイスの情報部という可能性もなくもないが、先日の赤いオーケストラの摘発の際、永世中立条項に対して釘を刺したばかりなのでおとなしくしているだろう。
ドイツに対する敵対勢力として、謀略を仕掛けてくる組織などたかがしれている。国内諜報局のオットー・オーレンドルフにとっては専門外ではあるが、諜報部の責任者として意見を求められれば、同レベルで議論する知識は持っていた。
「ポーランドの反独分子は、イギリス、ソ連の支援なしには動けんだろうし、フランスもそうだ」
フランスと言えば現在はピエール・ラヴァルによるヴィシー体勢の下、親独路線の政策がとられている。もっとも、シャルル・ド・ゴールの亡命政府――自由フランスはイギリスで対独交戦を唱え、イギリス、アメリカと協調してフランス国民への徹底抗戦を呼び掛けている。
「ですが、フランスのレジスタンスは脅威です」
実際、親衛隊員を含む多くのドイツ人がレジスタンスの犠牲になっていた。
「あぁ、しかし個々の問題は些事に過ぎん。ドイツ国内――ベルリンで騒ぎを起こせるほど大した組織網などマキにはない」
オットー・オーレンドルフの言葉にシェレンベルクは無言のままで頷いた。
「問題はどちらが絡んでいるか、だな」
アメリカが絡んでいるのか、イギリスが絡んでいるのか。
両国の諜報拠点がスイスのベルンにあることもわかりきっている。
「あるいはどちらも、かもしれません」
「しかし思った以上にベルリンは反独組織の巣窟だ。奴らを一掃するのはなかなかどうして手間がかかるだろう」
「えぇ、全てを押しつぶすよりもいっそ懐柔する方が早いのかもしれません」
それぞれは個々に小さな輪でしかない。
それらは互いに連絡を取るようにしてひっそりと生息している。だからこそ厄介なのだ。
「そういえば、マリーの秘書共。あいつらも大概裏が黒いそうじゃないか?」
ショル家の兄と妹。
反ナチス派としてゲシュタポ内では割と有名だ。
「そうですね、面白いですよ。彼女の周りの人間模様は」
オーレンドルフをはぐらかすようにクスクスと笑ったシェレンベルクは、愛嬌のある眼差しを冷たく細めると組んでいた腕をほどいて唇の端をつり上げる。
「彼女なりに、なんらかの狙いがあるんでしょう。少なくとも、リーダー格の人間が国家保安本部の中枢に取り込まれてしまっては、尻の青い大学生など簡単に身動きができなくなります」
「そのうちもっと”余分なもの”を国家保安本部に取り込みそうだな」
なにやら嫌な想像をしたらしいオーレンドルフはしかめ面になって溜め息をついた。そんなオーレンドルフのあることに、シェレンベルクはすでに気がついている。
こちこちにナチス党の考え方に染まりきっているオットー・オーレンドルフが、少女のことを「マリー」という愛称で呼んでいることに。彼女の本名を考えれば愛称というわけでもないのだが、それを知るのはごく一部の人間だけだ。
「そうかもしれませんね」
「まぁいい。捜査は諜報部の範疇外だ、ミュラー中将とネーベ中将が捜査の陣頭指揮をとっているからな。あちらは問題ないだろう」
一見しただけではただの傷害事件だが、国家保安本部の――しかもヒムラーの幕僚部の将校でもある――部長級の人間が襲撃され負傷したとなれば重大な問題でもある。
「しかしどこぞの深窓のご令嬢でもあるまいし、常に警護をつけるわけにもいかんだろう。そこはどうするつもりだ?」
「それに関してですが、丁度うまい具合にマリーによくなついている警察犬がいまして、彼女につけようと思います」
「あぁ、……そう言えば一匹いたな。そんなのが」
思い出したらしいオーレンドルフは、追いかける犬に逃げ惑って最後に転んだマリーを目撃したことがある。
警察犬の中でも優秀な成績を持ち、多くの戦場を渡り歩いたベテランだ。
「あれはマリーと体重も大して変わらないんじゃないか?」
「詳細はあまり知りませんがそうかもしれませんね」
犬の個体情報などシェレンベルクにとってはどうでも良いことだ。
重要なことはマリーの護衛になるかどうか、だ。
「ところで、オーレンドルフ中将。前国家保安本部長官が懇意にしていた工作員のことを覚えておいでですか?」
「……インドかどこかに住んでいた医師のことか?」
「そうです」
確か厄介な病気持ちだったような記憶があった。考え込んだオーレンドルフは、極秘情報として扱われている北アフリカで蔓延する伝染病について思い至る。
ラインハルト・ハイドリヒが独断で医師一家に医療活動に対する資金援助を行っていた。当時はあまり興味がなかったため、医師一家がどんな深刻な病気に冒されているのか知りもしなかったが、今となっては合点がいく話しだ。
彼らが罹患したのは天然痘だ。
そして天然痘治療のためにインドの奥地の村に残って村民の治療に当たっていた。
植民地として運営していたイギリスは彼らが天然痘に罹患していることを知り、伝染を恐れて近寄ることもしなかったばかりか、資金提供すら拒んだというのに。ラインハルト・ハイドリヒは当時、なにを考えてかその一家に資金の援助を行った。今思えばそれが巡り巡って花を咲かせた。
「エル・アラメインで猛威を振るっているのが天然痘だとしたら、ドイツアフリカ軍団も危険なんじゃないのか?」
「参謀本部も現在ドイツアフリカ軍団を止めるのに躍起になっているらしいです。そのうち国家保安本部に批難のお鉢が回ってくるかと思われますね」
シェレンベルクが揶揄すると、オーレンドルフはやれやれと首をすくめてみせた。
「シュトレッケンバッハ長官代理もお気の毒だ」
「全くです」
ナチス親衛隊の秘密工作員が動いたとなれば、国防軍司令部、あるいは参謀本部から批難の嵐が降ってくるだろう。
アメリカに向かえとシェレンベルクは命令したが、その娘が動いたのは勝手な事だ。シュトレッケンバッハも無能ではないからのらりくらりと批難を交わすだろうが、これは一言ヒムラーに連絡をいれておいたほうが事態の混乱は小規模ですむだろう。
「一応、小官から親衛隊長官に口利きしてもらえるように伝えておきます」
「そのほうがいいぞ、シュトレッケンバッハ長官代理も突然事の子細を知ったら相当お冠になるだろうからな」
そうしてシェレンベルクに応じたオーレンドルフは無責任にからからと明るい笑い声をあげた。




