2 嵐の中心
「……なんということだ」
その報告を受け取った親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーは戦慄した。ドイツ人としてはそれほど大柄ではないヒムラーの肩がかすかに震えているのを親衛隊個人幕僚本部長官のカール・ヴォルフは目にしてかすかに眉をひそめる。
――国家保安本部国外諜報局特別保安諜報部長のマリア・ハイドリヒ親衛隊少佐が襲撃された。
国内、国外共に状況が余り思わしくない中で、階級もそれほど高くはない中級指導者への襲撃に関する情報など後回しにされて当たり前のことで、そのためヒムラーのもとに報告が上がってきたのはほぼ丸一日がたった翌日の夕方だった。
ヒムラーにしたところで多分に自分の立場は理解していたから、私情に流されかけるのをぐっとこらえてから大きく息を吐き出した。
意図的に自分の意識を落ち着けようとしているヒムラーに、カール・ヴォルフは自分の上官である親衛隊全国指導者のデスクの前に立ったままで彼の言葉の続きを待った。
丁度、特別保安諜報部には医師であり、ヒムラーの友人でもあり側近のひとりとも言えるカール・ゲープハルト親衛隊少将が転属していたばかりであることが幸いした。
国防軍参謀少佐クラウス・フォン・シュタウフェンベルクによって病院へと搬送され、同時に事件の詳細は国家保安本部へももたらされて迅速に下された長官代理のブルーノ・シュトレッケンバッハの命令から、ゲープハルト医師がマリーの運ばれた病院へと派遣される。
被害はマリーの左腕の骨折と、彼女の所属を示す腕章が奪われたことだけで、命に別状はない。
レントゲン写真からはそれほど複雑な骨折ではなかったらしい。骨折した腕は整復して固定されたマリーは鎮静剤の効果から目を醒ますこともなく眠っていた。
「複雑骨折ではなかったと言うことが、不幸中の幸いだそうです」
冷静なヴォルフの言葉にハインリヒ・ヒムラーは、再び溜め息をつくと額を片手の平でおさえてから「そうか」とだけ言った。
「現在、国家保安本部の三、四、五局がそれぞれ情報収集にあたっておりますが」
そこまで言ってからヴォルフはひとつ咳払いをした。
三局の国内諜報局、四局の国家秘密警察局、五局の刑事警察局。もちろん、たかが親衛隊少佐の襲撃事件に国家保安本部全体が動いているわけではない。けれども、三つの局が合同して捜査を行うことなど異例のことだ。
事件は国内のそれであるため、表向きはマリーの所属する国外諜報局は動いていない。
「国外諜報局長のヴァルター・シェレンベルク上級大佐より、たった今、長官宛の報告書が届けられました。」
カール・ヴォルフの言葉にヒムラーが目を上げる。
「見せたまえ」
国家保安本部でハインリヒ・ヒムラーが最も信頼を傾ける”ベンジャミン”。それについて”ベンジャミン”本人がどう思っているかはともかく、ヒムラーは誰よりもシェレンベルクのことを信頼していた。
それほど長くはない報告書に目を通しながら、ヒムラーは眉間に皺を寄せる。そうしてややしてから視線を上げた彼は、ヴォルフを見やってからシェレンベルクの報告書を差しだした。
ハイドリヒが死んでから一時は、親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーと、その個人幕僚本部の長官を務めるカール・ヴォルフの信頼関係が危ぶまれたものだが、ここにきてヒムラーとヴォルフの関係は再び信頼関係を取り戻しつつあった。
何と言うべきか、ヒムラーが以前のヒムラーに戻ったと言うべきなのか。もちろん、彼の性格もあるから不安定な、若干優柔不断な面も否めないがそれは今に始まったことではない。
かつて、ヒムラーは強大な「力」を持ったラインハルト・ハイドリヒに支えられてきた。ハイドリヒの後ろ盾――本来は逆でなければならないのだが――があったからこそ、魔物の巣でもあるかのようなナチス党の中を彼はじっと潜むように生き抜いて来れた。
そんなラインハルト・ハイドリヒが死んで、不安定にならないわけがない。
ただでさえナチス党高官の内部では熾烈な権力争いが繰り広げられているのだ。小心者で臆病な小動物のようなヒムラーがそんな中で神経を病まないわけがない。
やり方はともかくとして、ラインハルト・ハイドリヒはそんなヒムラー約十年にわたって支え続けてきた。
「それを読んで、君ならどう判断するかね?」
ヒムラーの声にカール・ヴォルフは顎を撫でながら片目を細めるとヒムラーからシェレンベルクの書類を受け取った。
「失礼します」
タイプライターで打たれた内容に視線を走らせてから、ヒムラー同様に絶句したように唇をかすかに動かす。
「敵」はまだ国家保安本部内の”異変”を掴んでいない。
もちろん、その”異変”というのは本来、男性だけで構成されるナチス親衛隊に、女性――しかも年端もいかない少女が配属されたこと、である。暗喩の多い公式文書を読むことが多いハインリヒ・ヒムラーも、カール・ヴォルフも説明などなくてもヴァルター・シェレンベルクの記す内容は理解できる。
「これを読む限り、”彼女”の負傷は”偶発的”な事故であると考えるのが妥当なようですね」
大ドイツの中枢、ベルリンで騒ぎを起こすことがどれほど危険なことなのか、一般の地下組織のみならず敵ならば誰でも理解しているはずだ。
カール・ヴォルフやヒムラーは諜報戦争のプロフェッショナルではないが、それでも、多くの諜報活動を目の当たりにしてきた彼らは、アメリカ合衆国、及び、ポーランド、イギリスやフランス、スイスなどの情報機関が抜け目のない相手であることを知っている。
ヒムラーはともかくとして、カール・ヴォルフは政府高官のくだらない政治家たちのように事態を甘く見てはいない。
「本当に偶発的な事件だったのだろうか」
「シェレンベルク上級大佐の言葉を信じるならば、偶発的な事件だったのでしょう」
「……ふむ」
――敵はまだ国家保安本部の異変を掴んでいない様子。おそらく、ドイツ国内の情報機関に対するその”情報”を集めている段階と考えられる。
なお、部下が襲撃を受けたことについては、医師団と議論をした結果、意図的に負傷させられたわけではなく力の”かかり具合”が想定よりも強かったために負傷したのではないかと結論づけられた。
このため襲撃者には彼女を殺す意図はなく、国家保安本部に務める”職員”の極めて珍しい外見的特徴に注目したと思われる。
国外諜報局長、W.F. Schellenberg。
シェレンベルクの言葉を信じるならば、というところを強調するように告げたカール・ヴォルフにヒムラーは目を伏せると考え込むような仕草を見せる。
偶発的な事故だったとしても、それでも彼女の腕章を奪い去っていった男とやらが、情報を国外に流せば、国家保安本部内に非力な女性士官が配属されたことが周知の事実となれば「敵」は必ずや、親衛隊のアキレス腱を狙ってくるだろう。
そのままにしておくわけにはいかない。
「現在、万が一情報が流れた場合を含めて国家保安本部で対応を検討中だとのことです」
「そうしてもらわなければ困る」
ヴォルフの言葉にヒムラーが即答する。
そうして時計を見てから溜め息をつくと執務机の上の電話の受話器をとってから、ヴォルフに退室を促した。
「……あぁ、わたしだ。今日は帰りが遅くなるからお母さんの言うことをよく聞くように」
口調が柔らかくなる親衛隊長官の声を耳にして、カール・ヴォルフは軽く肩をすくめた。
一方、その頃プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセの国家保安本部の執務室で、デスクに肘をついたままで考え込んでいるヴァルター・シェレンベルクは、指先で万年筆用のインク瓶をもてあそびながら首をかしげた。
「同年齢の少女らと比べても華奢だから、それが骨折の原因だろう」
「骨粗鬆症ではなく?」
「精密検査をしていないからなんとも言えんが、聞いたところでは相当食が細いそうではないか。おそらく食事量が極端に足りないか、摂取しても吸収されていないか。そのために全身的に成長不全を起こしているのだろう」
ファイルを見つめながら目を上げもせずに、親衛隊医のカール・ゲープハルトはそう言ってから胸ポケットから万年筆を取り出した。
「それに、骨折の具合を見た限り、明らかに骨折させようとして力をこめたものとは考えられん。おそらくだが”襲撃者”に怪我を負わせるつもりではなかったのではあるまいか」
ファイルに挟まったレントゲン写真をちらと見やってからシェレンベルクは、インク瓶を指先でこつこつとたたいた。
「見せていただいてよろしいですか?」
「弁護士の貴官がこんなものを見てわかるのかね?」
「大学時代に少しだけかじっておりますので」
シェレンベルクは元々、医学を志したが、その後法律に転向した。だから多少はわからないわけではない。
「なるほど」
言いながら診療記録を写した手書きのファイルを、シェレンベルクに手渡したゲープハルトはじっとそれを見つめている国外諜報局長を監察した。
「もしも、マリーが親衛隊の中枢にいることが他の抵抗組織なり地下組織なりにばれていたならば、骨折だけさせて逃げていくなどという回りくどい方法はとらないだろう」
今は戦争中だ。
女子供とは言え、不安要素は消すべきだ。
自分が敵ならばそう考える。
ゲープハルトの冷静な指摘に、シェレンベルクはどこか納得したように頷くとファイルを高名な医師に返した。
「すると、本来の目的は彼女に危害を加えることではなく、彼女の腕章が目的であったと考えるのが妥当でしょうか」
「……かもしれん。過去、女スパイは五万といるからな」
情報戦とは、過去、そして現在において積み重ねられた情報の上で成り立っている。時には戦争とは関係のないどうでも良い情報も多いが、それらを積み重ねた先に戦争が存在しているのである。
「もっとも、わたしは情報将校ではない。その辺りを判断するのは貴官らの役目だろう」
「そうですね、専門分野で博士がいてくださるのは頼もしい限りです」
つまり、それらの情報とシェレンベルクの推測を併せて考えると、ひとつの結論に至る。それはマリーを襲撃した者には、本来、彼女に対して危害を加えるつもりはなく、物珍しい親衛隊情報部所属の腕章を奪おうと考えただけなのだろう。
確かに、国家保安本部の高官たちや護衛官たちと共にいることが多い彼女の腕章はひどく目立つ。しかし制服を身につけられない以上、腕章をつけないわけにはいかないのだ。
そして腕章だけを狙ったものの、マリーは余りにも華奢すぎて押さえ込んだつもりが危害を加える結果となった。本物の秘密工作員や、特殊部隊の人間ならばそんな回りくどいことはしない。危害を加えるつもりであれば最初から彼女の命を狙ってくるはずだった。そこから導き出せる結論は、まだマリーの存在が他国にはばれていないということだ。
ならばまだ敵の裏をかくための手段は残されている。
「ではわたしはこれから書類をまとめなければならんので失礼させていただこう」
ゲープハルトが報告を終えてシェレンベルクの前を退室して、ひとり執務室に残された青年は頬杖をついたままで考え込んだ。
「つまり、まだ情報戦の域を出ていない」
それならばなんとでもなるし、文字通りシェレンベルクの得意分野だ。
「そういえば、ゲシュタポの警察犬がマリーによくなついていたな」
普通のシェパードよりも一回り大きなシェパードで、大きな黒い瞳が印象的なベテランで鼻が利く警察犬だ。数多くの掃討作戦や犯罪捜査に駆り出された経歴を持つ。
名前は「赤号」で、四歳になる。
ポーランド戦ではユダヤ人の囲い込みにも参加し、その優秀さは折り紙付きだ。
「あれをつけるか」
四六時中マリーに護衛をつけるわけにもいかない。
その点鼻が利く優秀な警察犬が傍にいれば安心だろう。犬嫌いのマリーはロートを苦手としているが、ミュラーから何度か耳にしたところどうやら赤号はマリーを主人としている傾向があり、噛みつく気はないようだとのことだった。
なにより、主人を定めた犬は決して逆らわない。
少なくともそう言った意味では、人間の男よりも安心だ。
マリーはいやがるだろうが。
そこまで考えてから、シェレンベルクは立ち上がると国家秘密警察局長のミュラーの執務室へと足を向けた。
こうして、国外諜報局長と国家秘密警察局長のふたりの一存によってマリーには本人の意向とは関係なく警察犬が護衛犬として宛がわれる方向で取り決められた。
「そうでもしなければ危険すぎるな」
ゲシュタポの捜査官たちから上がってくる捜査情報に目を通しながらミュラーは、そうつぶやくとシェレンベルクの提案に異論のひとつもはさまずに同意した。
非力な少女、というには余りにも頼りなさ過ぎて、男たちの眼差しを引きつけずにはいられない。けれども、その存在は国家保安本部のみならず、ナチス親衛隊にとっての謀略、あるいは謀議の要となりつつあった。
――ナチス親衛隊にとって、なくてはならない存在に……。




