1 変革へのプレリュード
自分が握る”力”は、まさしく諸刃の剣だ。
扱い方次第で、敵ばかりではなく彼女にとっての”味方”も混乱の渦中へとたたき落とすことだろう。
自分の顔にある”あばた”を指先で触れて、若い女はそっと笑った。
それこそが彼女の武器だ。
彼女の”事情”を知る人間は、安易に彼女に近づくことはしない。忌み嫌い、そして恐れを感じて彼女との接触を避けた。
外界からは魔女。彼女の暮らしていた村の村人たちからは両手を合わせて丁寧なお辞儀をされるほどありがたがられる存在だった。
そんな「魔女」は苦々しい思いで、”イギリス”の飛行機でインドを後にした。
それが七月の初旬のことだった。
それから一ヶ月半ほどしてから、唐突に事態は進展する。
エジプト北部の町――エル・アラメインで謎の感染症が発生した。熱砂の大地でその病気は瞬く間に広がり劣悪な戦場にも影響を及ぼした。
その致死率は驚異的な四割。
一、二週間の潜伏期間の後に発症し、高熱、頭痛などの症状が現れる。
当初、ただのウィルス性の風邪だと思われていたが、医師団が論議を重ねている間にあっという間にエル・アラメイン周辺の町へと拡大した。これによって大きな被害を受けたのは、バーナード・モントゴメリー率いるイギリス連邦軍だった。
発症から一週間前後で死に至る謎の病に対して、戦争どころではない。
ひどい混乱が生じ、エル・アラメインの一般人や捕虜のドイツ兵、イタリア兵などにすらも猛威を振るうその恐ろしさは、赤痢などを有に越えている。イラクのバスラ、イランのテヘランなどにも同様に転々と病変を残したそれはやがて、連合国の将兵たちを恐怖にたたき落とすことになった。
体力の弱い一般庶民の老人や子供すらを巻き込んだ、嵐のような病気に戦線は膠着状態に陥った。
しかし、ドイツ側がこれを見逃す義理などない。
連合国側の重要な補給路であるはずのマルタ島からの補給も滞りがちになっている上、欧州戦線に参戦したアメリカ合衆国は度重なる国内問題にイギリスを支援する余裕をなくしはじめていた。これらの事態はモントゴメリーの率いるイギリス連邦第八軍は深刻な脅威に晒すことになった。
さらにイギリスの植民地であるインドではアメリカ合衆国の人種差別問題に連動するように独立運動が激化していた。
もっとも、イギリスにとっての火種はこればかりではない。
もっと身近に、危険な火が燻っている。
その燻る小さな火をどうやって大火に育てようかと企む者がいることを、まだチャーチルもモントゴメリーも知るところではなかった。なによりもモントゴメリーは軍人にすぎない。
致死率四十パーセント。
その恐怖に耐えられる者はそうそういるはずもない。
やがてイギリス連邦第八軍はその力を目に見えて衰えさせていくが、エル・アラメインから始まった病気の恐怖はやがてアメリカ合衆国にも伝えられた。
伝染病の蔓延している地に軍隊を送り込むなど狂気の沙汰だ……! 戦闘で死ぬ前に伝染病を理由に軍隊は多くの戦力を失うことになるだろう。もちろん、それらの情報は将兵らに伏せられていたが、やがて噂となってアメリカ本土にも到達した。
「アフリカでは謎の伝染病が蔓延している……」
ただでさえ、大統領暗殺事件と人種問題という国内問題で揺れ動くアメリカ国内は、伝染病の蔓延する地に兵士たちを送り込むという国家首脳部の選択にマスコミが猛然と反旗を翻した。
こうした中で、ドイツとの戦争の最中であるアメリカ合衆国は政治の空白は好ましくないとして、フランクリン・ローズヴェルトの副大統領を務めていたヘンリー・A・ウォレスが議会からの指名を受けて大統領に就任した。
ウォレスの指揮のもと、いったんは国内の人種問題に重きをおいた政策に転換され、ソビエト連邦に対する物資の支援は、エジプトを中心に広がりつつある伝染病のこともあり慎重な政策がとられることとなる。
この頃、すでにカスピ海に面したコーカサスの油田地帯はソ連の反スターリン派であるフルシチョフ率いる機甲部隊の一部が無傷で占領しており、ドイツ側に引き渡されており、バスラやテヘランはアメリカ側にとって必ずしも重要な拠点ではなくなっていたということも上げられる。
もっとも、ソビエト連邦に対する支援を遅延させることはできても、イギリスに対する支援を遅延させるわけにはいかない。アフリカに医師団を派遣し、同時進行で伝染病の解明にあたると共にイギリスに対する物資の支援を継続する。
こうした状況で、ドイツ空軍による再三のマルタ島への猛爆撃が再開され、伝染病に浮き足立つイギリス連邦軍を一掃し、マルタ島を奪取、ロンメル率いるドイツアフリカ軍団は、勢いに乗ったアルベルト・ケッセルリンクらのドイツ空軍による補給路を確保してエル・アラメインに猛攻を開始する。
懸念がないわけではない。
伝染病の蔓延するエル・アラメインに突入すると言うことは、致死率四十パーセントにも昇る病気の洗礼をドイツ軍も被るということだ。
それら現地の情報はドイツアフリカ軍団の司令部からドイツ本国へと打電され、ただちに伝染病に対する協議が行われることになる。
「……どんな病気なのかもわからんでは医師団を派遣するわけにもいかんな」
内部からは致死性の高い伝染病に晒され、外部からドイツ軍の猛攻を受けるイギリス連邦第八軍。しかし、それを率いるのはやはり名将のモントゴメリーだ。
ドイツ側の攻撃をいなすように受け流し、かろうじて戦線を保っている。
「報告書ではウィルス性の風邪のようにも思えるが」
そこまで考えてから国防軍の軍医たちは顔を見合わせて息を飲み込んだ。
もしかしたら、という思いから眉をひそめる。
「これは、天然痘ではないか?」
おそらくすでにイギリス軍もその同盟国であるアメリカも病原体を突き止めているだろう。
「……天然痘?」
遙か昔から、死の病として恐れられた伝染病だ。
人から人へと感染し、強い毒性を持つ。
「噂で聞いただけだが」
会議の席についていた男がぽつりと口を開いた。
「アメリカのドイツ系のナチ党員で、医師の一家がいる。インドで天然痘の治療活動に当たっていて一家も全員が罹患した、ということだ」
一家は十人家族だった。
そのうちの七人が死亡して、残ったのは医師の父親と看護婦の母親。そして調理人の娘がひとりだけ。そのうちの娘と母親は仮性天然痘だったが、れっきとした親ナチ派である。その親ナチの医師家族に資金援助を極秘に行っていたのが親衛隊衛生本部だという話しだ。
天然痘の恐ろしさは医師でなくても周知の事実だ。
ナチス親衛隊の馬鹿共が、天然痘持ちの秘密工作員を動かしたということなら、それは国防軍にとっても一大事である。
幸い、イギリスの補給路の要であるマルタ島は力尽くで占領した。
「ロンメルを止めろ!」
陸軍総司令部の決断はそうして下される。
「コーカサスの油田を奪取し、アメリカは国内のゴタゴタで動けん。マルタは貴官の英断によって確保することができた」
執務机について地図を見下ろしたアドルフ・ヒトラーは、目の前に立っている巨漢に語りかけるように口を開いた。
「はっ……」
「北アフリカのイギリス軍はもう一息で息の根を止められるが」
問題は参謀本部から提出されたエジプト周辺で猛威を振るう伝染病の存在だ。
現在各国を上げて病気の解明に奔走しているが、軍医たちの見解は概ね天然痘であろうというのが統一した見解である。
さらにこの病気が天然痘であった場合、ロンメルらをエル・アラメインに突入させることは限りなく危険な行為であるとも言えるだろう。
「それについてですが、ケッセルリンク元帥から空爆による作戦が提案されております」
「……――」
空爆、という言葉にちらとヒトラーが視線だけを上げた。
またスツーカによる急降下爆撃を強行するつもりではあるまいな、とでも言いたげな国家元首の瞳に、空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングは小さく息を飲み込んだ。
確かに、急降下爆撃は精密な爆撃で威力も高ければ、敵に与える心理的ショックも大きい。しかしそれだけでは勝てないのだ。
良い例がフランス戦と、イギリス戦だ。
特にイギリス戦にあっては、空軍の力でイギリスを屈服させると豪語したというのに結局できなかったではないか。現在、細々とイギリスを追い詰めているのは、ゲーリングの空軍ではなくデーニッツの潜水艦隊だ。
「閣下、どうか汚名を濯ぐ機会をいただきたく思います」
自分の失態はゲーリング自身がよくわかっている。
対イギリス戦や、フランス戦だけではない。先日、国家保安本部によって白日の下に晒された調査局のそれもそうだ。そして、それらの失態を包み隠したくとも、忌々しいことに国家保安本部の警察官僚たちがそれらをしっかりと掴んでいることだ。
もちろんゲーリングはどこまで知られているのかは理解していないが、局長クラスの警察官僚たちは知っているとみても良いだろう。
つまるところ、それほど致命的だったと言うことである。
「良かろう、ゲーリング。わたしを、これ以上失望させないでもらいたい」
ヒトラーの青い瞳に見つめられて、ゲーリングは内心で小さな溜め息をついた。
表沙汰にはしていないが、今まで強行に推し進めてきた重爆撃機の急降下性能に対する要求は取り下げている。この方向性の転換によって各航空機メーカーの技術者たちが狂喜乱舞したというのは言うまでもない。
「もちろんです」
わずかに血の気のひいた顔色でゲーリングは、ヒトラーの前を辞すると口元を片手で覆う。蘇るのは強い嘔吐感で、ともすれば彼をじっと見つめた年若い少女の青い瞳に引きずり込まれそうになる。
それほど恐ろしいものを、彼は見た。
*
プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセの国家保安本部のオフィスの近くに転居したマリーは、歩いて十数分ほどの距離にあるアパートメントに向かっていた。
相変わらず彼女の住居は花の家と呼ばれており、多くの情報将校や警察将校たちが出入りしている。
そんな状況で、少女は珍しくひとり花屋に買い物に来ていた。
切り花を買いながら店主と言葉を交わす。
いつもにこやかな彼女は大概の場合――人畜無害な一般庶民にとって――は非常に印象が良い。
マリーに対して警戒心を抱くのは、やはり洞察力に優れた者たちだった。
鋭い観察眼を持つ故に、マリーに疑惑の目を向ける。もっとも、疑惑の目を向けたところで結局はなにも見つけられずに彼女に対して困惑したように苦笑するばかりになるのだが。
「フロイライン」
紙に包んでもらった切り花を抱えたマリーは自分を呼ぶ声が道の反対から聞こえて振り返った。
長い金色の髪がキラキラと夏の光を跳ね返す。
長身の参謀少佐の姿が見えてマリーは小首を傾げた。
クラウス・フォン・シュタウフェンベルク少佐だ。
「シュタウフェンベルク少佐」
堅苦しい軍隊式の礼儀には疎いが、彼女が相手だとなぜだか許せてしまう気になるから不思議なものだ。
なによりもマリア・ハイドリヒ――あるいはマリー・ロセターが、国家保安本部に所属する親衛隊将校だとは思えない節もそう感じさせるのかも知れない。
大きな青い瞳をまたたかせた彼女が切り花を抱えたまま、体を翻したその瞬間だ。
シュタウフェンベルクの目の前でひとりの男がマリーの前を横切って、数秒後に少女の甲高い悲鳴が辺りを引き裂いた。
切り花が道路に散乱する。
片腕を不自然な方向へねじり上げられて固定される。骨が折れる嫌な音と、マリーの悲鳴。余りの激痛にその場にうずくまった少女の腕から無理矢理、ベルベットの腕章を引きちぎった男はそうして通りすがった車に飛び乗るとそのまま通りの向こうへと姿を消した。
男の強い腕力で折られた腕に力が入らないのかその場に座り込んだままでマリーは、花屋の店主に助け起こされて青い顔で荒い呼吸を繰り返している。
奇妙な方向にねじれた腕。
「フロイライン……っ!」
駆け寄ったシュタウフェンベルクが少女を支えると、花屋の店主は慌てた様子でくたびれた車を引き出してくると荷台に少女を乗せるように男に告げる。
痛みに悲鳴を上げる余裕もないらしいマリーはシュタウフェンベルクの腕の中でそうして意識を失った。
失神したマリーは病院へと運ばれ、同時に国家保安本部にも事件は伝えられた。事態は加速するように連合国とドイツの諜報戦争の渦中へ巻き込まれていくことになる。
アメリカ合衆国戦略情報局、アレン・ダレスの欧州支部はドイツ――ナチス親衛隊情報部の中枢にひとりの少女が配置されたことを突き止めたのだった。
全ての事象はそこから始まっている。




