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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
VII ローレライ
78/410

15 黄色の14

 ハンス・ヨアヒム・マルセイユ飛行中尉。

 戦闘機のパイロットである彼は撃墜数を百一機に延ばして剣付き柏葉騎士鉄十字章を受賞した名実ともに北アフリカ戦線のエースパイロットである。総統官邸に出向いていた彼は、その帰りにひとりのナチス親衛隊中将に連れられた少女を目にして小首を傾げた。

 休暇ももうすぐ終わりだ。

 なにしろ彼の所属している第二七戦闘航空団(JG27)が配備されている北アフリカ戦線は戦況が逼迫している。

 帰ったら帰ったでまた出撃に忙しい日々になるだろう。

 そんなことを考えていると、ナチス親衛隊の高級指導者に連れられた少女が足をすべらせて階段で転んだ。

 そのまま後ろにのけぞるようにバランスを崩した彼女を、親衛隊高級指導者が腕を伸ばして咄嗟に受け止める。

 プッと吹き出すような笑い声が聞こえてマルセイユが首を回すと、総統官邸に警備に当たる親衛隊員が苦笑いをしながら吹き出すところだった。

「足元をよく見なさい」

 まるで教師に怒られているような少女は中年過ぎの品の良い男ににこりと笑うと礼を言う。見ているだけならばなんともほほえましい絵面だが、それにしてもどうしてヒトラーユーゲントに所属しているような十代半ばの少女が総統官邸を訪れているのだろうか。

 親衛隊高級指導者のカフタイトルと、袖につけられたSD章で、男のほうが国家保安本部所属の士官であることはマルセイユにもわかった。問題は少女のほうだ。ヤセギスの少女は半袖に申し訳程度になんとかベルベットの黒い腕章をつけており、その腕章にはSD章と、本来であれば制服の袖につけられているカフタイトルが縫い付けられていた。

 ――RFSS。

 親衛隊全国指導者個人幕僚部。

 じろじろと観察するように少女と親衛隊高級指導者を見つめているハンス・ヨアヒム・マルセイユに、痩せた少女も気がついたようだ。

こんにちは(ハロー)

 にこりと笑う彼女の笑顔にマルセイユは驚いた様子のままで言葉を探していると、親衛隊中将――ヴェルナー・ベストが小声でなにごとか少女に耳打ちしたようだ。

 新聞やポートレートなどで大々的に宣伝されているマルセイユにベストのほうが気がついた。もっともいつものことでマリーの方は至ってマイペースで相手が、北アフリカ戦線で活躍しているマルセイユだとは気がついていない様子だ。

 マリーにしてみればマルセイユが見つめていたから挨拶をしただけといったところなのだから。

 金色の長い髪と、青い瞳が印象的な少女に対して、もう少し育てば好みかもしれない、などということを考えながらベストらに対して敬礼をすると言葉を交わすこともなく立ち去った。

「結局あれはなんだったんだ?」

 つぶやきながら小首を傾げたマルセイユはそうして次の取材のためにベルリン市内へと向けて消えていった。



  *

 理想主義。

 あるいは人道主義。

 もしくは騎士道精神とでも言うのだろうか。

 ――騎士道?

 笑わせるな、とヨーゼフ・マイジンガーは皮肉げに唇の端をつり上げる。

 互いに戦争という最低の殺し合いをしているのだ。そこには理想も、人道も、そしてもちろん騎士道も所詮はただの笑いぐさでしかない。

 人の命が平等だというのであれば、性別も年齢も。そして戦闘能力の有無などにもかかわらず、等しく同じであるはずだ。権力者や、強者だけが優先されていいはずがない。

 「罪もなく、力の弱い者を無為に殺害するなど、なんと残酷なことか!」人道主義者たちは口をそろえてそんなことを言うが、つまるところ「罪なき弱者」ならば優先的に命の簒奪者たちから救われて当然などと考えているのではなかろうか?

 野生の世界では弱者こそ生きる資格がないというのに。弱く、生きる力に劣り、守られなければ生き残ることのできないものは、それこそが罪なのだ。

 弱い者は切り捨てられ、強い遺伝子が生き残る。それが自然の摂理である。

 けれども。

 ヨーゼフ・マイジンガーはとりとめもないことを考えた。首を傾げてから、椅子に深く腰を掛けたままでその背もたれをギシリと鳴らすと自分の目の前の中空を凝視した。

 大日本帝国のドイツ大使館に左遷に近い形で赴任していたマイジンガーの上官として配属された、階級も年齢も彼よりもずっと下の少女。はじめて出会った時の印象と言えば、栄養失調なのではないかと思うほどやせっぽっちで、華奢すぎる四肢の彼女は元武装親衛隊だという将校に付き添われるようにしてプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセを飛んで歩いていた。

 正直なところ、なんと呼び掛ければ良いのかわからない、というのが本音だ。

 マリーの補佐官を務めるふたりの法学博士たちは、彼女のことを「マリー」と愛称で呼ぶが、なにしろ出逢ったばかりである自分が、彼女のことを愛称で呼ぶのもいかがなものか。

 ワルシャワの殺人鬼などと呼ばれているが、マイジンガーはそれなりに常識的な面も持ち合わせている。

 ちなみに国家保安本部内で、シュトレッケンバッハとベスト、ヨストは教師のようで、ネーベとミュラーは父親のようだ。オーレンドルフやシェレンベルク、アイヒマンなどに至っては兄のような距離感にも見えた。

 親衛隊全国指導者個人幕僚部のカフタイトルをつける少女に、マイジンガーは面食らっている。彼よりもずっと年若く階級が下であるというのに、誰よりもハインリヒ・ヒムラーから一目置かれている。

 その姿はまるでかつてのヴァルター・シェレンベルクのようでもあった。

 なぜ、ヒムラーは少女でしかないマリーの意見と行動を尊重しているのだろう。

 ちなみにそのマリーはヴェルナー・ベストを伴って、総統官邸へと「散歩」に行ったらしい。もちろん、その手配をしたのは国家保安本部の人間ではなくヒムラー自身だ。

 それらがどれだけ異常なことか……。

 法学博士であるヴェルナー・ベストやハインツ・ヨストなどを見る限り、マイジンガーが特別保安諜報部に引き抜かれたのは理由があるのだろうが、それにしたところで不気味な動きが部内では続いていた。

 一般庶民のハンス・ショルとソフィア・ショルがマリーの遊び相手――もとい、秘書として国家保安本部に引き抜かれ、さらにマイジンガーの到着の後に、ヒムラーの側近から親衛隊医でもあるカール・ゲープハルト少将が転属になった。

 腕力を提供するのは、武装親衛隊に飛ばされ東部戦線の戦闘を経験しているアルフレート・ナウヨックス少尉。

 その異様な部署は急速に組織として形成されているが、いつもニコニコと正体不明の笑みをたたえているマリア・ハイドリヒの本心がマイジンガーにはわからなかった。

「わからんことを、考えるだけ時間の無駄か」

 思考を一時中断したヨーゼフ・マイジンガーは立ち上がると執務机の上に積み重ねられているファイルに視線をやると、太い指を伸ばしてページをめくる。

 最重要事項の諜報活動などについては、マリーとふたりの法学博士が仕事を抱え込んでいることも多いが、細々とした仕事はマイジンガーらに回されてくる。それらを判断し捜査の手配をすることも彼の仕事のうちだ。

 赤いオーケストラ(ローテ・カペレ)

 彼らの捜査に際して最初の疑惑を向けたのはマリーだった。マイジンガーの上官であるマリーは、全くもって不思議な少女で人の感情に対して良きにしろ悪しきにしろ、ひどく鼻が利く。

 まるでかつて国家保安本部を支配したラインハルト・ハイドリヒのように。

 もちろん最初からルドルフ・レスラーに対して疑惑の目を向けていたわけではない。結果的に、ルーシィーの逮捕に成功したというところが正しいだろう。けれども、ヴァルター・シェレンベルクとオットー・オーレンドルフらの手助けがあったとは言え、永世中立国であるスイス連邦の弱みを握り、彼らの行動を制限せざるをえない状況に持ち込むのは大したものだった。

 同時にゲーリングの失態を追及し国家保安本部の力で傲慢な権力者を押さえ込む。

 その手腕に、マイジンガーは思わずぞっとさせられた。他人事(ひとごと)と傍観するには危険が大きすぎる。

 それこそ明日は我が身だ……。

 彼女が「敵」に対してそうした権力の力を振るうことができると言うことは、「味方」に対してすらも可能であるということなのだから。

 国家保安本部(RSHA)のやりかたは、誰よりもマイジンガーが知っていた。

「しかしきな臭いな」

 ぽつりとつぶやいて男は首を傾げると、口を噤んでファイルを睨み付ける。国家保安本部には数多くの情報が集められているが、それを掌握してマリーがなにをしようとしているのか。マイジンガーには皆目検討も着かなかった。

 おそらくヴェルナー・ベストやハインツ・ヨストにも想像すらついてはいないだろう。”彼女”の目的とはなんなのか。

 東部では対ソ戦の真っ最中であり、ロンメル率いる北アフリカ戦線も戦況は逼迫している。もっとも、現在はアメリカは国内問題でぐらついておりドイツに対して全力で対応することができなくなっている。とはいえ、マイジンガーにとってみればそんなことは軍人たちの問題だから、彼の出る幕ではない。

 国家保安本部とは表向きは警察機関だ。

 ラインハルト・ハイドリヒは戦争に介入したようだが、マイジンガーには興味のないことだった。あくまでも彼自身は、命令に従うだけだ。

 そうして時計を見やると、そろそろ昼も過ぎる頃だった。

 総統官邸に赴いたマリーとベストも帰ってくるだろう。

「ハイドリヒ親衛隊少佐、か」

 今のところはそれでいいかもしれない。

 彼女がやろうとしていることは謎めいている事が多いが、少なくともマイジンガーの不利になるようなことをしているわけでもない。

 日本から帰国させられたということは、昇進のチャンスもあるというものだろう。

「ところで、さっきの空軍の人は?」

 声が聞こえた。

 見事なタイミングだ。もっとも、おもり役にヴェルナー・ベストがついているのだから、マリーだけで行動しているときとは違って時間に正確だ。

「彼は、第二七戦闘航空団のハンス・ヨアヒム・マルセイユ飛行中尉だろう。年頃の女性たちに随分と人気があるようだが、美男子だからだろう」

 言いながら、ローテーブルの上に放り出された新聞を手にすると、ぺらりと紙のめくる音をたてて中を開く。そうするとちょうどマルセイユ中尉の写真が載せられていた。

「百一機撃墜して剣付き柏葉騎士鉄十字章を受賞したそうだ」

「あ、それでベルリンに戻ってきていたってわけですね?」

「そんなところだろうな。柏葉騎士鉄十字章までは現地で受け取れるが、剣付きとなるとそうもいかない」

「……軍人さんも大変なんですね」

 数秒の沈黙の後にマリーが告げると、ヴェルナー・ベストは一瞬だけなにかを考え込むような目つきになってから口を開いた。

「軍人は、我々と違って最前線で命のやりとりをしている」

 空軍のパイロットだけではない。

 昨年の東部戦線でも多くのドイツ人が犠牲になった。

 どれだけ戦火が拡大するのかはわからないが、それでも、とベストは思った。こんな戦争など早く終わればいいのに、と。

「そうですね」

 マリーが同意するように頷いてから、囁くようにつぶやいた言葉にベストは聞き間違いかと思って目を見開く。

 ――早く戦争に蹴りをつけなければ。

 静かなその声は、ぞっとするほど冷静な声色で言葉の裏側になにか途方もないものを秘めているように感じさせられる。

 ほんの短期間で彼女は多くの不穏分子の摘発を行ったのだから。

「……君は、なにをやろうとしているんだ?」

 問いかけたベストに少女は無言のままにっこりとほほえんで、唇の前に人差し指を立てた。そうしてくるりと踵を返す。

「わたしは、ドイツのために動いているだけです」

 ただそれだけ。

 ――わたしはやり方を間違えた。だから”失敗”した。二度と失敗を繰り返したりはしない。二度と間違いを犯さない……。

 独白のように静かな声が聞こえてヴェルナー・ベストは瞠目する。闇の底に沈み込むように、冷たく響いたそれに、ベストは思わず少女の肩をつかんで引き留めた。

「マリー? なにか言ったか?」

「……はい?」

 どうしたのかと言わんばかりの瞳で振り返られて、ヴェルナー・ベストは言葉を失った。

 幻聴(そらみみ)だったのだろうか。

 間違えたから、失敗した……――。

「けれども、なにを?」

 マリーの細い肩を掴んだまま口の中で呟いたベストに、少女はそっと自分の手を重ねて花のようにふわりと笑った。

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