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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
VII ローレライ
77/410

14 天覧

 八月中旬にもなろうという頃、ヒムラーはマリーの要請で渋々国家保安本部(RSHA)の国外諜報局特別保安諜報部にひとりの医師を派遣した。この人事に、親衛隊上級大佐に昇進したばかりのヴァルター・シェレンベルクは、どうせまたマリーになにかしらの弱みをネタに揺さぶられたのだろうと推測する。

 少なくとも、外見上の危うさはともかく、そうした面においてヒムラーよりもマリーの方が一枚上手だった。

 カール・ゲープハルト親衛隊少将。

 ハインリヒ・ヒムラーの側近でもある。

「……なんとまぁ、ご苦労なことだ」

 シェレンベルクは仏頂面のゲープハルトを遠目に眺めてから肩をすくめた。

 マリーがなにを狙って特別保安諜報部に医師の配属を希望したかはともかくとして、ゲープハルトにしてみれば面白くない話しであろう。

 階級は親衛隊少将。

「親衛隊長官の命令で本日付けで特別保安諜報部に配属になった……」

 二言も三言も余分に口を開きそうな気配のカール・ゲープハルトに、同階級のハインツ・ヨストは四十代の医師を出迎える。なにか言いたそうな表情をしているのは首席補佐官のヴェルナー・ベストも同じだった。

 ベストにしてみれば、命令である以上はどんなに理不尽であっても従うべきであると感じていた。なによりも配属されたばかりの士官たちは、マリーを軽んじすぎる嫌いがある。

 首席補佐官にヴェルナー・ベスト親衛隊中将。そして次席補佐官にハインツ・ヨスト親衛隊少将。どちらも法学博士である。

 医学博士であるカール・ゲープハルト親衛隊少将はわずかに目を細めてから主人のいない執務机を見やった。

「問題の、部長殿はどこにおられるのか?」

 問いかけたゲープハルトにヨストはちらと時計を見やってから首をかしげる。

 ありとあらゆる意味で、マリーの存在はナチス親衛隊にとって異端だった。

「ナウヨックスが探しに行かせたが、こう遅いとたぶん中庭でまたシュトレッケンバッハ中将にお小言でももらっているのかもしれんな」

 そう言葉を返しながら苦笑する。

「小言?」

「……よく極秘書類を持ち出しているからな」

 あまり反省の色が見られないとそのうち降格処分になりそうだ。

 そう続けながら、ヨストは溜め息をつくとマリーの執務机の上にある内線電話の受話器を上げた。

「一部署の長がそんな適当では困るのではないかね?」

「まぁ、まだ子供だからな」

 そう言って肩をすくめたヨストに、今度はゲープハルトが訝しげな眼差しをした。

 ――まだ子供だから。

 国家保安本部に転任になる前、カール・ゲープハルトが親衛隊長官のハインリヒ・ヒムラーから聞いたのは名前と部署、そして階級だけだ。正直なところどうして親衛隊長官の側近とまで言われた自分がそんなところに赴任しなければならないのかと思わなくもなかった。

「マイジンガー大佐か。ヨストだ。あぁ、なるべく早急に部長を捜してきてほしい。ナウヨックスが行っていると思うが」

 手短に命じて次席補佐官が受話器をおくと、大きな溜め息をついたゲープハルトが執務室の中央に据えられたソファに腰をおろすところだった。

「話しは聞いている。ヨスト少将」

 分野は異なるが同じ博士号持ちで階級も同じとなれば話しやすい部分もあった。

「国家保安本部国外諜報局特別保安諜報部及び親衛隊全国指導者個人幕僚部所属。マリア・ハイドリヒ親衛隊少佐。第二級鉄十字章及び第二級戦功十字章を受賞。後見人は国外諜報局長ヴァルター・シェレンベルク親衛隊上級大佐と国防軍情報部(アプヴェーア)長官ヴィルヘルム・カナリス大将」

 舌を噛みそうな肩書きをすらすらと口にしたゲープハルトに、ヨストは目尻をさげる。

「まだ特別保安諜報部が設立されてから間もないというのに、勲章をふたつも受章しているなど、女性でありながらなかなかどうして大したものだ」

 そう評価してから、カール・ゲープハルトは「しかし」と言葉を続けた。

「時間にルーズなのはいかがなものか」

 ゲープハルトのそんな言葉に、ふたりの補佐官は顔を見合わせた。

 どうやら親衛隊長官は一番重要なことをゲープハルトに伝えていないのではないだろうか。

「……学生気分も大概にしなければ、世間とは厳しいものだぞ」

 このヒムラーの側近とも言える親衛隊医は、マリーの経歴だけを聞いていて彼女の年齢を聞いていないのではないか。だからこんな台詞が出てくるのだろう。

 大学を卒業したばかりの親衛隊員だ、と彼は思っているのかも知れない。

 実際の所、マリーは高等教育を受けていない。ベストが口を酸っぱくして学校に行くべきだと言っているが聞く耳を持たないのだから。もちろん、彼女が学校に行く必要がないほど深い知識を持っていることは、短い間共に仕事をしてわかったことだが、世間では資格がないということは人生の落伍者を意味している。

 優秀な頭脳があるならばそれを生かすべきだ、と今は思う。

「ゲープハルト少将は聞いていないのですかな?」

 ヴェルナー・ベストが、ヨストに助け船を出そうとしたそのときだ。

 タイミング良く扉が開いて親衛隊員に付き添われた少女がファイルを抱えたままで室内に転がり込んできた。

 三十歳前後だろう若い親衛隊員が驚いたように腕を伸ばして少女の体を支えると、四十代の目つきの鋭い男は「やれやれ」と自分の首の後ろを撫でてから大きな溜め息をついた。

「ありがとう、ナウヨックス少尉」

「気をつけてください、今蹴躓いたでしょう」

 どうやら絨毯に躓いたのか、痩せた少女は三十代前後の若い親衛隊員に体を支えられてなんとかその場に踏みとどまった。

 そんな少女を認めてカール・ゲープハルトは眉をつり上げた。

 栄養失調なのかと思ってしまうほど痩せた少女は、ソファに座る三人の親衛隊高級指導者の存在を認めてにっこりと笑った。

「では、我々はこれで失礼いたします」

 四十代のSDが若い男のほうを連れてマリーの執務室を退室する。

 残されたのはやせっぽちの少女と、ベストとヨスト。そしてゲープハルトだけだ。

 ファイルを執務机に置いたマリーは、いつもと変わらない笑顔のままでソファに歩み寄るとベストの隣に腰を下ろす。

「ヒムラー長官から聞いています、わたしの要請で高名なゲープハルト先生を派遣してくださるということでしたから」

 言葉の端々が敬意を払っていないとでも言うのか、若いゆえのざっくばらんさを感じるが、ベストとヨストはすでにマリーのそんな言葉使いにも慣れている。

「……――”お久しぶり”です、ゲープハルト博士」

 そう続けたマリーに、首席補佐官のヴェルナー・ベストはかすかに眉間を寄せるが、結局なにも口にしないのは彼女の言葉の続きを観察しているせいだ。

「……以前に君と会ったことがあったかね?」

 マリーのそんな言葉に面食らったような顔をしたのはゲープハルトだ。

「国家保安本部国外諜報局特別保安諜報部長、マリア・ハイドリヒ親衛隊少佐です」

 そう名乗ったマリーに、ゲープハルトは一瞬言葉を失ったようだった。

「ところでマリー、君は今日、ゲープハルト博士が来るというのを知っていたはずだが、どこで油を売っていたんだね?」

 マリーの遅刻を糾弾するようなベストの言葉に少女は首をすくめてから、視線をさまよわせる。

「調査局の、書類を書いていたら、シュトレッケンバッハ局長につかまってしまって帰って来れなかったのよ」

「嘘を言わなくていい、時計を持っていないから時間を忘れていたらシュトレッケンバッハ中将につかまったんだろう」

 極秘資料を館外に持ち出した上、中庭で書類を書いていたとなれば長官代理を務めるブルーノ・シュトレッケンバッハが良い顔をしなくてもおかしな話しではない。

「ベスト博士はなんでもお見通しね」

 口元に手をあててクスクスと笑った少女は、あっけにとられているカール・ゲープハルトに視線を戻してから微笑する。金色の髪の、”青い”瞳の少女はじっとゲープハルトを凝視してからひとつ息を吸った。

「わたしは今後の行動のために、医師の協力が必要だと考えました。ベスト博士もヨスト博士も法律の専門家ですが医学は門外漢です、わたしが、わたしの考えた疑惑を証明するために力を貸してください」

 特別保安諜報部はヒムラーの直属の警察部隊なのだ、とゲープハルトは聞かされていた。しかし、その部長がこんなにも幼い少女だとは聞いていなかった。

「……冗談ではなく?」

 本当に君が特別保安諜報部長なのかと、カール・ゲープハルトが問いかけるとマリーの隣に腰を下ろしていたヴェルナー・ベストが咳払いをした。

「国家保安本部で冗談など言ってどうなる? ゲープハルト少将」

 ベストの言葉は紛れもなく、目の前の少女こそが特別保安諜報部長なのだということを物語っている。なによりも気にかかるのは彼女の台詞だ。

 ――”お久しぶり”です。

 初対面のはずだ。

 だというのに彼女はどうして「久しぶり」などと言ったのだろう。

「国家保安本部に医師など必要ないだろう。必要ならば誰かしらが出向すればいいことだ」

 くだらない子供のままごと遊び。

 カール・ゲープハルトは不機嫌にそんなことを考えると舌打ちする。

 どうして自分がこんなことにつきあわなければならないのだろうか。

「あら、少将の首を絞めることなんて、国家保安本部(RSHA)にはわけもないことなんだということを、ご存じではありませんの?」

 わかりやすく脅しにも似た彼女の言葉に、ゲープハルトは立腹したように目の前の世間知らずの子供を睨み付けた。

「ヨスト少将、申し訳ありません。そこにあるファイルをとってもらえますか?」

「……あぁ」

 デスクの上に放り出されたファイルを取りあげて、ヨストはマリーに手渡した。行儀良く両手を伸ばしてそれを受け取った彼女に、ベストとヨストは声を出さずに事の成り行きを見守っている。

 マリーは、あきれるほど多くの人間の弱みを手中にしていた。

 ハインリヒ・ヒムラーの主治医とも、側近とも言われるカール・ゲープハルトにマリーはなにを仕掛けようとしているのだろう。

「ゲープハルト博士、こちらを」

 君は調査局についての資料をまとめていたんではないのかね?

 ベストが思わず口を開きかけるが、マリーはいつもと変わらない横顔でファイルを受け取る男の表情の変化を見守っていた。いつものことだが、やっていることと、企みと、そして彼女の表情には余りにも隔たりがありすぎて、なにを考えているのかが非常にわかりづらい。

 それほど分厚くはないファイルにはいつもの如く走り書きされた手書きの書類が挟まっているのがベストには見えた。内容まではわからないが、おそらくそれはゲープハルトに対する強請(ゆすり)の材料だろう。

 今までの彼女の行動を見ている限り、ベストやヨストなどは「マリーにだけは目をつけられたくないものだ」と思う次第だった。

「……こ、これはなんだっ!」

 ファイルに目を通したゲープハルトの顔色が唐突に青くなる。

 激昂するように叫んだ彼に、マリーはにこりと笑う。

「国家保安本部の中央記録所には膨大な資料が眠っています。博士が、専門外であるにもかかわらず、前国家保安本部長官の手術も請け負われていることも……。博士の未熟な医療技術のために前国家保安本部長官――ラインハルト・ハイドリヒ親衛隊大将が亡くなられたことを公表すれば、どのような事態になるか」

 幸い、と続けながらマリーは小さく首をかしげた。

「まだその書類は中央記録所に入る前。それをタイプしてしまえば、ゲープハルト博士は常に多くの捜査官から付け狙われることになるでしょう。なによりも、親衛隊長官の側近であるゲープハルト博士が中央記録所にファイルを置かれるということは、博士の名誉に関わる問題ではありませんか?」

 わかりやすい脅し。

 カール・ゲープハルトは眉をひそめたままでファイルに視線を釘付けにされていた。ファイルを持つ手がわなわなと震えていた。

「こんなことは、言いがかりだ……」

 意識不明のラインハルト・ハイドリヒを全力で救おうとした。

 幼なじみであり、親衛隊長官のハインリヒ・ヒムラーの求めでもあったから。

「博士はご存じではないようですが、国家保安本部にとって罪の有り無しは関係ないことです」

 ぞっとするほど冷たい一言に、ゲープハルトはなんとか書類から視線を引きはがすと意識を落ち着けるように何度か深呼吸を繰り返した。

「これを、公開されたくなければ黙って特別保安諜報部に所属しろということか?」

「……わたしは、お願いしているだけです」

 丸い眼鏡をかけたゲープハルトは緊張から首の周りにかいた汗を拭うようにしながら、挙動不審をなんとか隠そうとしているらしい。

 国家保安本部に罪の有り無しは関係ない。

 それこそが真実で現実だ。

 今まで国家秘密警察(ゲシュタポ)刑事警察(クリポ)が問答無用で振るってきた力をカール・ゲープハルトに突きつける。

「つまり、わたしに選択の余地はないということか」

 マリーの言葉にがっくりと肩を落とした男は書類を閉じるとそれをテーブルの上に放り出した。

「勘違いされているようですが、わたしがほしいのは博士の知性です。別にわたしは博士を脅迫しようとは思っていません」

 少女はニコニコと笑う。

「やむをえんな、親衛隊長官閣下直々の人事でもある。君の指揮下に甘んじよう」

 かすれがちのカール・ゲープハルトの声色に、マリーは花のようにふわりとほほえんでからそうして嬉しそうに「ありがとう(ダンケ)」と言った。

 こうして、三人目の親衛隊高官が国外諜報局特別保安諜報部に名前を連ねる事になる。

 彼は、かつてラインハルト・ハイドリヒがテロリストに襲われた際、プラハに派遣された医師で、彼の能力不足でハイドリヒが死んだのだとも、また、ヒムラーがそれに乗じてハイドリヒを殺害したのだとも囁かれた。

 その情報の真偽がどうあれ、ナチス党が政権を握るドイツ第三帝国にあって致命的な汚点になる。最悪の場合、医師の資格も剥奪され、政治的に抹殺された上に強制収容所おくりにされるだろう。国家保安本部のやり方を知るカール・ゲープハルトは突きつけられた脅迫に戦慄した。

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