13 共振
ナチス親衛隊情報部による迅速な対ドイツスパイ網の摘発は、反ナチス派のドイツ内外で活動する多くのレジスタンス達を震撼させる事態となった。
”取り締まる”側である、国家保安本部がゲーリングの調査局を手に入れたこと。その事実を知るのはごく一握りしかいないが、反体制派の”彼ら”を戦慄させるには充分だ。
ドイツ国防軍空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングの牛耳る航空省調査局。
ハンス・オスターは不機嫌そのものと言った眼差しのまま、手書きの書類が挟まれたファイルに視線を滑らせる。
署名にはM.Heydrichとある。
自分は大人だから、とハンス・オスターは目を細めると自分のデスクに着いたままで考え込んだ。
ナチス親衛隊、あるいはナチス党と、個人を区別して考える程度の分別はつけているつもりだ。
ナチス親衛隊の国家保安本部にも、中には好ましい人物もいる。
組織として鼻についたとしてもそれとこれとは話しが別だ。
代表格と言えば、オスターの上官であるヴィルヘルム・カナリスが懇意にしている国外諜報局長を務めるヴァルター・シェレンベルク親衛隊大佐が良い例だ。もっとも、シェレンベルクが諜報部員らしく、時にひどく信頼ならない顔をすることもハンス・オスターは知っている。
そこまで考えてから、オスターはファイルの表書きを眺めた。
そこにはルーン文字の「SS」の記名もなければ、公的文書であることを示す捺印もない。
つまり、今オスターが手にしているファイルは、限りなく私的に近い非公式文書であるということだ。
マリア・ハイドリヒ――マリー・ロセター。
彼女はいったい何者なのだろう。
そんなことを考えながら、オスターは溜め息をついた。
彼はすでに十年近く前からの反ナチス派の国防軍将校として国内情勢を見守っている。幾度も蜂起を計画したものの、実現せずに今に至るが、かつての蜂起が実現できなかったことをハンス・オスターは深く悔やんでいた。
自分たちがアドルフ・ヒトラーを含むナチス政権に刃を向けられなかったから、現在のこの有様である……!
ナチス党と、無法者の親衛隊や突撃隊が幅を利かせ、今や言論の自由などないに等しい。
誰も彼も、ナチスの暴虐を恐れている。
そして恐れているためになにもできはしない。
彼らの権力がもっと小さな時であれば可能であったかも知れないのに、今ではそれすらも困難に等しい状況となりはてている。
そして、そんなナチス親衛隊という組織に飛び込んだひとりの小さな少女。ハンス・オスターやヴィルヘルム・カナリスにしてみれば孫娘ほども歳が離れた十代半ばのやせっぽっちの少女だ。
「マリー……、か」
長い足を組み直してオスターは小首を傾げた。
ナチス親衛隊と一概に言っても多くのタイプの人間がいるように、マリーもまた一般的な親衛隊員という枠組みには当てはまらないのではないか。
そんなことをオスターは感じる。
おもむろに片眼鏡をはめると、ハンス・オスターはファイルをめくった。手書きの書類は決して少女らしい文字とは言えない。その文字は、オスターにしてみればほほえましいと思う以上に戦慄させられるものでもある。
彼は、マリーの書く文字を以前に見かけたことがあると思った。
わざわざナチス親衛隊の公的文書としてではなく、手書きの書類として部内のSDに持たせたということはなんらかの事情があるのだろう。
オスターは冷静に現状を分析した。
彼の推察するところ、マリーの直筆の書類はゲーリングの調査局に関連するものであろう。現在の時期から考えてそれ以外に考えられない。
大ドイツに張り巡らされていたヘルマン・ゲーリングの巨大な帝国。
それが彼の目の前に晒されようとしている。そして、その情報を国防軍情報部に突きつけたのが親衛隊情報部であるということ。そこになにかしらの裏があるのだろうとオスターは考えた。
本来、親衛隊情報部と国防軍情報部は相容れない。
なにしろ国防軍情報部は反ナチス派の温床とも言える。そして生前のラインハルト・ハイドリヒはそれを承知の上で、国防軍情報部を徹底して監視し、その内部に探りを入れてきた。
それを、オスターは知っていた。
新米親衛隊員であるマリーの考えが、だからこそわからないと言ってもいいだろう。
彼女はそれほどまでに、既存の親衛隊員とは毛色が違った。毛色が違うと言えば、彼女の直属の上官であるヴァルター・シェレンベルクもそうなのだが、彼の異質さとはまた違うのだ。
彼女の存在は常々不思議な少女だと思っていたが、実際のところは「不思議」どころの話しでは済まされないのかもしれない。
マリーの行動は一見しただけでは見逃してしまいそうになるほど控えめなもので、観察眼のない者であればいとも簡単に騙されてしまうだろうと思われた。そう思えるほど静かに彼女は国家保安本部の高官達の背後で動き回っている。
彼女自身に存在感がなくとも、なにせ周りが目立つのだ。
たとえばマリーの上官の国外諜報局長ヴァルター・シェレンベルク親衛隊大佐であったり、首席補佐官を務める元裁判官でもあるヴェルナー・ベスト親衛隊中将や、前国外諜報局長のハインツ・ヨスト親衛隊少将など。少女の周りで多くの高官たちが蠢いている。
マリーの行動はナチス親衛隊という枠組みを超えている。
彼女が在籍するようになった国家保安本部は、必要ならば親衛隊のみならず、ナチス高官たちにすらその矛先を突きつける。
良い例が先頃行われた調査局にはびこるスパイ網の摘発や、総統官邸の反体制分子に対する一斉検挙だ。
これにより、国内外の反独組織を国家保安本部は文字通り震撼させたのである。
表向きとしては、この作戦の中心に立ったのは国内諜報局長オットー・オーレンドルフ博士と、国外諜報局長ヴァルター・シェレンベルク博士で、この両局長はつい最近昇進したばかりにもかかわらず、異例のスピード昇進を果たしたのだった。
このため、ヴァルター・シェレンベルクは親衛隊大佐から親衛隊上級大佐に。そしてオットー・オーレンドルフは親衛隊少将から親衛隊中将へと昇格する。
ヴァルター・シェレンベルクの部下とされたマリーについては、今回は昇進はなかったものの第二級戦功十字章を授与された。
一説ではやはり作戦の中心人物のひとりであった国家保安本部長官代理を務める人事局長のブルーノ・シュトレッケンバッハの昇進も囁かれたが、今回は見送られることとなる。
そんな状況の中でマリーはというと相変わらずで、極秘ファイルを持ち出しては中庭のベンチで枕代わりにして居眠りをしていることもあり、シュトレッケンバッハに小言をもらうという実にマイペースな状況だった。
――君は、なにをどこまで知っているんだね?
昼下がり。
気に入らないという気持ちを差し控えたハンス・オスターは、悪名高い国家保安本部のオフィス、プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセを訪れていた。
木陰になっているベンチに座ってオスターは自分の隣に座っている少女に問いかけた。
彼がなによりも毛嫌いするナチス親衛隊に名前を連ねる事になったマリー。
彼女の真意を測りかねた。
マリア・ハイドリヒ――いや、ハンス・オスターにとってはマリー・ロセターと言うべきか。
オスターの問いかけに、生成りの丸襟が清楚な印象を漂わせるツーピースを身につけた少女は、長身の初老の男を見上げてから小首をかしげた。
「秘密です」
そう言った。
そうしてマリーは彼に続けるのだ。
まるでなんでもない顔をして世間話でもするような気軽さで。
「ねぇ、大佐。律儀なのもとっても結構なことだと思いますけど、ずっと”昔の文書”を残しておくことはリスクが高いんじゃないんですか?」
マリーの言葉にオスターがぎょっとした。もちろん表面上は顔色ひとつ変えはしない。
「……何のことかね?」
「別にわたしは、人の行く末なんて興味ありませんけど、大佐みたいな冷静で慎重なかたは時に驚くほど”大胆なこと”をされますから」
含みを持たせたマリーの言葉。しかし発言者であるはずの少女は隣に座るオスターを見もしない。
自分の命にすら頓着しない。
万が一、オスターが彼女を不審な人物であると告発すれば、マリーの命など簡単に摘み取れるだろう。その可能性がわからないわけではないだろうに、マリーは顔色ひとつ変えないのだ。
「マリー……」
「午前中にお届けしたファイル、その中の情報をどのように生かすかは反ナチ派の国防軍情報部のやり方次第。カナリスも、あなたも無能者とはほど遠い。……だから」
そこまで一息に告げてから、マリーは青い瞳を彼にあげた。
そのときだ。
唐突に犬の鳴き声が聞こえてマリーが文字通り飛び上がる。
ユダヤ人を追い込んだり、捜査のために臭いを追わせるために国家秘密警察には数多くの警察犬が飼われている。
いかついシェパードが尻尾を大きく振って走ってくるのがオスターの視界に映った。あっという間に距離を詰めた警察犬はひどく嬉しそうに尻尾を振りながらマリーに飛びついた。
一方、大型犬に飛びかかられたマリーはと言うと、悲鳴を上げて咄嗟にオスターにしがみついた。
後ろ足で立ち上がるとマリーの身長とさほど変わらない警察犬に、金色の髪の少女は完全に動揺してハンス・オスターに助けを求めるように泣きべそをかいてしっかりとしがみついている。
「マリー、噛みつくつもりはないようだから大丈夫だ」
ややあきれながらオスターが言い聞かせるように言葉を紡ぐが、マリーはと言うと怯えきって「いやいや」とオスターにきつくしがみつくばかりだ。
それから数分してから警察犬の飼育係が飛んできてやっとマリーとオスターから犬を引き離したところで事態はなんとかおさまった。しかし、余程怖かったのかマリーは男に助けを求めるように縋り付いて泣いている。
年齢の割に幼いものを感じないでもないが、彼女の様子を見ている限り、真剣に犬が苦手なのだろう。もっとも、自分よりも大きな犬に――尻尾を振っているから友好的であるとはいえ――飛びかかられれば動揺してもおかしなことではない。
「失礼しました! 大佐殿……?」
国防軍の大佐に、親衛隊の少佐が縋り付いて泣いているというのもなんだか見慣れない光景で、警察犬の飼育員は驚いた表情のまま、代わる代わるふたりを見つめるのだった。
マリーの存在は国家保安本部でもかなり異質なものだったから、なんとはなしに受け入れてしまっている捜査官や警察官らは彼女が泣きべそをかいている程度では最近ではあまり動じない。
動じないというか、慣れた。
四六時中、館内で転んだり廊下で居眠りをするという奇行を重ねていればあきれながらも慣れざるをえないというものだった。
「どうもこいつはハイドリヒ少佐のことが好きらしくて、困ったものです」
つまり何度も襲いかかられては泣いているのだろう。
オスターは現状からそんな想像をしてやれやれと溜め息をついた。
マリーを見つめて尻尾を振っている警察犬だが、それでもいざ現場に出れば他の警察犬と変わらない鬼の形相で追跡を行う。
「ふむ……」
「少佐殿のことが好きなようですから、特別保安諜報部の警察犬として扱ってはいかがですかと申し上げたのですが、お断りされまして」
苦笑いする飼育員にマリーの上半身が、オスターの腕の中で固まった。
「お断りだそうだ」
硬直してしまった少女の肩にオスターが笑うと、飼育員の男は「残念です」と言ってからやはり苦笑する。
せいぜい顔を舐められるだけだろうから、そんなにいやがらなくても良いのではないかとオスターは思うが、苦手なものに理屈もなにもないのだろう。他愛もない会話をオスターと交わしてからシェパードを連れてふたりの前から飼育員がいなくなってから、マリーは赤くなってしまった眼を上げてそろそろと振り返った。
「犬が怖いのか……」
「だって、大きいんだもの」
しゃくりあげる少女の声に、オスターは今度こそ吹き出した。目元にたまった涙を手の甲でこすったマリーの頭を撫でながら、彼はにこやかな笑顔で立ち上がる。
「では、わたしは君との愛人関係が噂にならないうちに退散するとしようか」
冗談めかしたオスターの言葉に、マリーは辺りを見回して犬がいないことを確認すると、手をひかれて立ち上がる。
「お迎えがきたようだ」
四十代の目つきの鋭さが印象的な親衛隊大佐が大股で歩いてくる。
特別保安諜報部に配属になったヨーゼフ・マイジンガーだろう。オスターは頭の片隅で考えてから型どおりの敬礼をマイジンガーにしてから踵を返した。マリーはともかく生粋のナチス親衛隊員であるマイジンガーなどと言葉を交わすのはどうにも腹に据えかねる。
「……ナウヨックスから聞いた。たぶん中庭だろう、と」
マイジンガーの低い声が聞こえたが、オスターは振り返ることもせずにプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセを後にした。




