12 常闇に咲く花
こうしてゲーリングの調査局は国家保安本部の指揮下に移された。
もっとも名目上は国家保安本部の管理課にあるが、あくまでも調査局を統括するのは空軍総司令官のヘルマン・ゲーリングであり、国家保安本部と国防軍情報部は彼の調査局を間借りしているという形で落ち着いている。
しかし実態は真逆で、調査局の極度の秘密主義のために犯した失態――赤いオーケストラの潜入を許したことによって、実質的に二つの情報部による共同管理のもとにおかれることになった。
ゲーリングの名前は有名無実にほかならない。
ともあれ、ヘルマン・ゲーリングの顔に泥を塗ることもなく、現在の彼の地位を維持したままでF局を掌中にすると言う見事な手管に国防軍情報部長官の首席補佐官、ハンス・オスターは感心したように目を丸くした。
親衛隊情報部からの調査局と赤いオーケストラ、そして連合国とスイス連邦の関係性などに対する可能性を示唆したファイルをオスターに持ち込んだのが、国外諜報局に所属するハインツ・ヨスト親衛隊少将であったから、多分に国外諜報局が絡んでいるだろうことを彼はとっくに看破している。
「……”誰”の計画かは知らんが、見事なものだ」
国家保安本部にしては事態を荒立てない、まるで搦め手のようなやり方は決して強硬なそれまでのゲシュタポのものではない。
どちらかと言えばギャングのような手段こそ得意とする彼らとは全く違う。つまり全く異なる手法をとる者が国家保安本部で作戦の指揮を執ったと言うことになる。
国家保安本部の中でも異色な、と言えば、その代表はかつてラインハルト・ハイドリヒの片腕と呼ばれ、前国外諜報局長の補佐官を務めた、現国外諜報局長のヴァルター・シェレンベルク親衛隊大佐だが、彼にしたところで、シェレンベルクのやり方はあるいは「女性のように繊細な」とも揶揄されているが、やはり男性的な腕力を感じさせた。
今回の赤いオーケストラの摘発に際して、オスターが観察するところでは、今までの国家保安本部に所属する誰にも似ていない。
物事に対する手段や姿勢というものには、体力のある男性と、体力で劣る女性では全く異なっているものだ。今回の対赤いオーケストラの作戦は余分な力を入れることのない見事な式は、つまるところ”そういうこと”なのだろう。
――作戦の指揮を執ったのは、特別保安諜報部長の席につく小さな少女、マリー。
計画の立案は、ヴァルター・シェレンベルクとオットー・オーレンドルフの両諜報局長とされているが、おそらく違う。
裏で糸をひくのはたったひとりの少女だろう。
「ふむ」
つぶやいてから自分の顎を撫でたオスターは、それにしても、と考えた。
国家保安本部だけではなく、国防軍情報部にも利益をもたらし、ゲーリングが構築したとは言え、その見事な情報網は行く育波国防軍全体にも及ぶことになるだろう。
元来、水と油と言っても良いナチス親衛隊と国防軍だ。本来は互いに毛嫌いしていると言っても過言ではないから、協力体制を敷くことなど感情的に不可能に近い。
――オスター大佐、またね。
そう言って明るく笑った金髪の少女が忘れられない。
相手が国家保安本部に所属しているとわかっているのに、ごく平凡な少女の笑顔と代わり映えしていなくて、つい手を振り返してしまった。
まるで孫娘のように屈託のない笑顔をたたえる無邪気な少女だったこと。
彼女の笑顔に引き込まれてしまったら、その手の中から抜け出すことなどできはしないのではないかとすら思わせられる。
「先方もいろいろあるようだが、彼らが率先して内部改革をしてくれるならありがたい話しではないかね、オスター」
響いた静かな声にハンス・オスターは振り返った。
そこにいるのは同年齢の、かつてスパイ・マスターと呼ばれた屈指の諜報部員――ヴィルヘルム・カナリスだ。
ここ最近、カナリスは周囲の人間たちが怪訝に思うほど、天敵であるナチス親衛隊の国家保安本部に対して大きなアクションを起こしてこなかったが、そんな彼が時折「マリア・ハイドリヒ」の自宅、花の家を来訪していたことを、首席補佐官を務めるハンス・オスターは知っていた。
「内部改革、ですか……」
苦笑したオスターが、ファイルを閉じると部屋に入ってきたカナリスは物静かな瞳に興味深い光を乗せてから小首を傾げた。普段こそ少々疲れたような顔を覗かせることもままあるが、カナリスの本質はそんなところにはない。
「それはなんだね?」
ファイルの表書きに「SS」とルーン文字で記されている。
つまりそれは、そのファイルがナチス親衛隊からもたらされたことを物語っていた。
「国家保安本部の国外諜報局から持ち込まれたものです。提督のところへお持ちしようと思っていたところですが……」
そこまで告げたオスターに、カナリスは国外諜報局という単語に注意深く頷いた。
「見せたまえ」
「はっ」
赤いオーケストラが絡んだ「事件」に対するゲーリングの調査局の失態の可能性については、すでに作戦が開始される前の段階で、当の国外諜報局長ヴァルター・シェレンベルクから聞いていた。
そして、この作戦に際してリッベントロップのINFⅢに協力を要請したことも。
外務省本体に対する協力要請も出ていたから、おそらく外務大臣のヨアヒム・フォン・リッベントロップ辺りがなんらかの弱みを握られたのだろうと、カナリスは推察していた。
これでヘルマン・ゲーリングも少しはおとなしくなってくれるだろうか……?
カナリスはファイルに目を通しながらそんなことを考える。
頑固と言えば、国防軍の高官たちもそうだ。情報将校のカナリスの出身が海軍であったという理由から、はなから彼の懸念に聞く耳ももたなかったこと。
彼らには、かつてのナポレオンの失敗が見えていないのか。ヴィルヘルム・カナリスは落胆を禁じ得なかったが、それでも尚、戦争を長引かせないための工作活動を続けてきた。これについては、陸軍参謀本部付きの東方外国軍課がよくやっているが、それでも戦局全体を左右するまでには至らない。
そして一九四二年に入ってから事態は大きく動いた。
夏季大攻勢――青作戦の発動と時をほぼ同じくして起こったソ連の軍事クーデター。
ニキータ・フルシチョフを政治指導者に据えて、ヨシフ・スターリンに反旗を翻したッソ連赤軍の将軍たち。この思わぬ伏兵に、スターリン派は混乱を来し、さらにクーデター派と連携を取りながら青作戦の進行にあたる東部戦線の国防軍は、それなりに厳しい状況ながらなんとかヒトラーの命じた作戦目標を達成しつつあった。
国家保安本部国内諜報局は、政治家や要人たちの汚職や不正行為の監視体制を強めつつあり、これによって赤いオーケストラに対する作戦を進行すると同時に国内の有力者たちの不正行為の実態を掴みつつあるのだろう。
腹の立つことではあるが、誰も本気で動き出した国家保安本部という警察機構の目をかいくぐることなど不可能だ。
国家秘密警察共はともかく。
アルトゥール・ネーベの率いる刑事警察は、正真正銘の警察でありその役目は昨今、ゲシュタポと境を失いつつあったが、この一ヶ月ほどの間に精彩を取り戻しつつあった。
精彩を取り戻していると言えば、オットー・オーレンドルフの率いる国内諜報局も同じで、この二つの警察機関と情報機関が力を取り戻したとあっては、ドイツ第三帝国の自浄作用は再び日の目を見ることになるだろう。
国内諜報局が本来の役目を果たしていればこそ、刑事警察が機能し、その逆もまた然りである。
「オスター」
「なにごとですか?」
「この報告書を、君は読んだかね?」
「はい、もちろんです」
短いオスターの返答に、カナリスは顎に手を当てたままで低くうなると考え込んでしまった。
「なにごとでしょう?」
「君はこの報告書の件についてどう見る?」
カナリスに尋ねられてオスターは小首を傾げた。
じっと考え込んでから言葉を選ぶ。
「赤いオーケストラの一部の諜報部員をドイツ側に引き渡させるためにスイスを揺すったというのが本当であるならば、さすがにナチ共ですな」
彼らは自分たちのやっていることが武器になることをよく心得ている。
その”武器”が中立国を揺する手段になるということも、彼らは知っているのだ。
「訊問についてはまだのようですが、親衛隊情報部としてはなにかと”口うるさい”デブをどうにかしたいというのが本音といったところでしょうか」
そのために罠を張った。
「そんなところだろうな」
作戦の本当の目的を、作戦開始時から知っていた者は実のところほとんどいない。国防軍情報部に至っては、カナリスとオスターしか知らずにいた。問題の作戦を主導した国家保安本部についてはやや多くなるのかも知れないが、それほど沢山の人間たちが知っているわけではないだろう。
「彼らのやり方は余り好ましいとは思えんが、それでも、我々とて戦場では似たようなものだ」
戦争を行う荒くれ者たちの全てが、人道主義を気取っているわけではない。
もしくは武装親衛隊の青年たちのほうがよほど規律に縛られているのかも知れない。
ナチス親衛隊の青年たちの全てが、国防軍の兵士たちと特別変わった事があるわけではないことを、カナリスにもオスターにもわかっているが、それでも、彼らのやり方を嫌悪せざるを得ないのだ。
それ故に、祖国を守るために、そして未来の希望のために戦っている兵士たちを所属している集団で偏見を持ってはいけないとわかっているのに型にはめて穿った見方をしてしまう。
――彼らは、ナチス党の一部なのである、と。
「……承知しております」
国防軍の全てが清廉潔白であるというわけではない。
オスターは逡巡するようにつぶやいてから、眉をひそめた。
カナリスもオスターも志を同じにしている。共にナチス党を快く思っていないし、ドイツを泥沼の戦いに引きずり込んだヘルマン・ゲーリングやヨーゼフ・ゲッベルス、そして国家元首アドルフ・ヒトラーなど死んでしまえばいいとすら思う。
それでも、ナチス党の末端に位置する武装親衛隊の兵士たちや、国家保安本部の警察官たちの全てが、高官たちのようにいやらしい考えをしているわけではないということも知っている。
なぜならば、ヴィルヘルム・カナリスもハンス・オスターも共に軍人であるからだ。
軍人であるからこそ、ふたりはナチス党の末端で戦う”兵士”たちの心を気遣わずにはいられない。もしかしたら、自分たちは彼らの未来も閉ざそうとしているのではないのかと不安を感じる。
けれども、それでもドイツという国を救うためにはナチス党という組織を潰さなければならない。
「提督は、”彼女”がドイツのために必要な子供だとおっしゃっておりましたが、そのお気持ちに代わりはありませんか?」
大を成すためには小を切り捨てる。
それは時として必要な選択なのだ。
「本官には、まだわかりません……」
オスターは視線を床に落とすとつぶやいた。
まだわからない。
彼女という存在が、ナチス親衛隊という組織にどのように作用しているのか。
「しかし、それでもゲーリングの権力を削げるのであれば、親衛隊情報部と協力しない手はない。奴の視野の狭い作戦のおかげで、対英戦ではひどい痛手を被ったのだ」
海軍も、空軍も。
彼ら高官の決定のために死ぬのは決定を下した人間ではない。彼らのために、多くの人間たちが無為に死んでいくのだ。
ゲーリングにしろ、リッベントロップにしろ自分たちの権力のことしか考えていない。誰も彼も、ドイツのために戦おうと思っている政府高官はいないではないか。
ヒトラーの腰巾着。
カナリスは鋭い光を瞳に浮かべて舌打ちした。
国家保安本部。
その権力は絶大だった。
「再定住」計画などという馬鹿げた計画を立てなければ更に好ましいのであるが、今さら言ったところで罪を消すことなどできはしない。ただわかっていることは、すでに後戻りができないところまでたどり着いてしまっているということだ。
「わたしはな、オスター……」
そこで一旦カナリスは言葉を切った。
「あの、どんな思想にも捕らわれない正しく諜報部員としてあるべき姿の青年になら、まだ未来への可能性を感じてならんのだ」
正しい諜報部員としてあるべき姿の青年。
誰を、とカナリスは言わない。しかし、オスターにはわかった。
ナチス親衛隊にありながらナチス親衛隊の思想に捕らわれず、ただ現実だけを見据える若い情報将校。
ラインハルト・ハイドリヒやハインリヒ・ミュラー、ヒムラーらの間をするりとくぐり抜ける青年はいつも正体不明の笑顔をたたえている。
若い故に思想に捕らわれず柔軟だからこそ、弱肉強食の国家保安本部を生き残っていくことができたのだろう。
「……可能性、ですか」
「うむ」
そしてそんな柔軟な思考を持つ青年が手にした鍵のような存在。
彼女をカナリスは「ラインハルト・ハイドリヒ」だと思った。なぜ、と言われても答えようなどない。それでもカナリスは理屈ではなく彼女がハイドリヒだと思ったのだ。
「彼であれば、ドイツの行く先を変えることをできるのではないかと、わたしは思うのだよ」
過去と現在を刻むのは老人たちで、若い者が未来を創造する。それが老人の役割であり、若者の役割だ。
「我がドイツには、こんなにも優秀な若者たちがいる。我ら老人は、主義主張に関わりなく彼らを支えてやらなければならん。過去、我々が老人たちに支えられてきたようにな」
そう言ってカナリスは静かにほほえんだ。




