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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
VII ローレライ
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11 青の世界

「失礼します」

 少女の声にプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセを訪れた空軍総司令官のヘルマン・ゲーリングは機嫌悪そうに振り返った。

「長官代理のシュトレッケンバッハ親衛隊中将に聞いたが、本当に国家保安本部の情報将校だったのだな」

 低い声に告げられてマリーは金色の髪を揺らして小首を傾げる。

「……ご安心ください、盗聴器は切ってあります」

 目の前の巨漢に対してマリーはにっこりと笑ってみせるとゲーリングが座っているソファの向かいに座った。

「つくづく国家保安本部は抜け目がないものだ」

 毒づくような彼の声にマリーは声もなくほほえむと目を伏せる。

 しかし、国家保安本部(RSHA)の根幹はハインリヒ・ヒムラーが受け継ぐ前にゲーリングが作ったものだ。その国家保安本部を強力な警察組織に育て上げたのはヒムラーとハイドリヒではあるが。

 そんな国家保安本部に名を連ねるマリア・ハイドリヒという少女。ゲーリングは剣のこもった眼差しになりがちの瞳を意識的にゆるませて何度か溜め息をついた。

「それで、例の件について何人が知っている?」

「……秘密です」

 尋ねられてマリーは目を上げると静かに笑ってゲーリングを見つめた。じっと見つめるその青い瞳に、ゲーリングは息を飲み込んでから視線を彷徨わせる。

「教えてしまったら、”切り札”にならないじゃないですか」

 口元に指先をあててくすくすと笑うマリーは、ゲーリングの巨漢に臆することもなく揃えた膝の上に手を乗せる。

「少なくとも、わたしと、一部の国家保安本部(RSHA)の高官とでも言っておきます」

「なにが望みだ」

「……閣下は、間抜けではありません」

 低いゲーリングの声は怒りに震えている。

 なにが言いたいのだと。

 彼が愚鈍ではないことを多くの者が知っている。

 たとえずるがしこく、悪辣であったとしても。しかし自分などよりもずっと年上の男に対してマリーは一歩も引きはしない。もしくは恐れることを知らないのかもしれない。

「……――なにが言いたい」

 怒りでゲーリングの唇が震えているのをマリーには見えているだろうに、彼女は冷静さを全く失っていなかった。

 まるで、自分が勝つことを確信しているかのようにも見えた。

「閣下、どうしてわたしが盗聴器を切って、そして階級の低いわたしだけが閣下とお話しをしているかおわかりになりませんか?」

 嘲笑をたたえてすらいるような彼女の声にゲーリングは眉尻をつり上げる。

「わたしたちは閣下を今の地位から引きずり下ろそうなどとはこれっぽっちも思っていません。わたしには興味のないことですし、わたしがほしいのはひとつだけです」

 ドイツの権力争いなど興味はない。

 権力など”彼女”はとっくの昔に手に入れている。

「……わたしはそんなものいらないの」

 冷ややかに見えるほどの笑みを口元に浮かべるとじっとゲーリングを見据えてから、かわいらしく小首を傾げた。

 数時間前の空軍司令部での彼女との会話と、そして今プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセでの会話を交わしているヘルマン・ゲーリングには、彼女の笑みはいっそ魔女のそれのようにも感じられた。

「……君の、本当の顔は、どの顔なんだね?」

「さぁ?」

 視線を滑らせたマリーは屈託のない笑顔をたたえたまま金色の長い髪を指先でつまみあげる。その横顔はゲーリングがアドルフ・ヒトラーの元で彼女と会った時とそのままだった。

 ――不思議な娘。

 それがゲーリングの印象だ。

 けれども、そう。

 ゲーリングは分厚い手のひらを両目の上にあてて声を上げて笑い出す。マリア・ハイドリヒの(はかりごと)は決して不快ではない。むしろゲーリングには心地が良いとすら感じた。

 マリーの巡らせる謀略が心地よいと感じるのはおそらくゲーリングが今まで生きてきた謀略のそれとは違って、どこか清々しいものを感じさせられる。彼女の巡らせる謀略はひたすらドイツの行く末を案じて張り巡らされているものだからかもしれない。それをゲーリングは感じ取った。

「何が望みだ」

 ややしてから笑いをおさめたゲーリングが強い瞳を彼女に返すと、マリーは首を傾げたままでふわりとほほえんでみせる。

「言ったと思いますが、わたしは別に閣下を今の地位から引きずり下ろしたいと思っている訳じゃありません」

「……なるほど、調査局(フォーシュンスアムト)の件か」

「はい」

 青い瞳がじっと彼を見つめている。

 その謀略すら心地よいと彼は思う。

「大ごとにしないためにシェレンベルク大佐がわざわざ君を派遣したというわけか」

 調査局――あるいはゲーリングの個人的な失態を大ごとにしないためにもわざわざ高級指導者クラスではなく、親衛隊少佐にあたるマリア・ハイドリヒが派遣されたこと。それを彼は察するとにやりと口元をゆがませた。

 親衛隊少佐の戯れ言など誰も信じたりはしないだろう。

 もちろん実際の所は事なり、マリーを含めた国家保安本部全てでゲーリングを陥れるために計画されたものだった。

「つまるところ、今回のわたしの調査局(フォーシュンスアムト)の件を公にしないかわりに、国家保安本部(RSHA)との取り引きの材料にしたいというところだろう」

「えぇ、我々国家保安本部は優秀な無線監視機関を望んでいます。そちらの一件を不問にする代わりに、調査局を国家保安本部の傘下として吸収合併させてもらいたいんです」

「我が調査局に赤いオーケストラ(ローテ・カペレ)の諜報員が紛れ込んでいたことを不問にするというのか?」

「……はい」

 その代わりにゲーリングが誇る調査局(フォーシュンスアムト)を親衛隊情報部に差しだせと言っているのだ。

「良かろう」

 長い時間、逡巡してからゲーリングが告げる。

 そうして自分の膝を分厚い手のひらで強くたたいた。

「国家保安本部が赤いオーケストラ(ローテ・カペレ)を一掃した暁には、調査局を国家保安本部の傘下として引き渡そう」

 ヘルマン・ゲーリングにとってマリーの存在は不快ではない。

 彼女は大の大人を陥れようとしてすらしていたというのに。

「ありがとうございます」

 ゲーリングから望むとおりの言葉を引き出して、マリーはにっこりと笑みをたたえると彼に右手を差しだした。

国家保安本部(RSHA)であれば、わたしよりもずっとうまくF局を扱えるということか?」

 ゲッベルスやヒムラー、もしくはリッベントロップのような政敵に弱みを握られるということは全く持って我慢ならないが、彼女のような無邪気な子供であればそれも不愉快には感じない。

「閣下を失望させたりしません」

 少女の右手を握りかえして、ゲーリングは「なるほど」と頷いた。

 マリーに邪気を感じないからなのか。

 それこそが、国家保安本部が長く望んだ情報解析機関。恐怖の代名詞たるゲシュタポと、親衛隊情報部。そしてそこに無線監視部門が加わればそれだけでも莫大な情報が得られるだろう。

 ゲーリングの失態を追及しない代わりに、調査局そのものを差しだせ。

 それは彼にとって余りにも大きすぎるリスクを孕んでいたが、それでも、ともすれば調査局の失態は公表されるような事態になれば、ゲーリングの政治生命は終わりだった。もちろん軍人としての地位も。

 バルバロッサ作戦ウンターネーメン・バーバロサの情報の流出は、それほどに重大なものであった。

 だから、ゲーリングはそれを突きつけられれば「(ナイン)」とは言うことなどできはしない。しかしそれでも尚、強気でいられるところはヘルマン・ゲーリングが政治家として場数をこなしているからなのだろう。

 だが、そんな彼を前にしてマリーは一歩たりとも引きはしなかった。

 なぜならば彼女には相手の感情を思いやることなどできはしないからだ。ただ、ひたすらに自分自身の感情にまっすぐだ。

 ニコニコと笑っている彼女の中に、巨大な怪物を見たような気がしてゲーリングは息を飲む。

 小さな体の中にマリーという少女は巨大すぎる怪物を飼っている。

「閣下も、”わたしを”失望などさせませんよう……」

 天真爛漫な笑みをマリーはたたえる。咄嗟に握りかえした手を引こうとして、ヘルマン・ゲーリングはその瞳に飲み込まれた。

 同時に巨体の男はこみ上げる吐き気に口元を押さえると、ソファから勢いよく立ち上がった。肥満の体を揺らしながら部屋の隅に設置されている流しに走り寄る。

 そんな男の背中を見やることもせずにマリーは立ち上がった。

「それでは失礼します」

 マリーの声は変わらない。

 ただその辺のパン屋の主人を相手に世間話でもしているような声。

 流しに手をついたまま嘔吐を繰り返すゲーリングは腹の中から吐き出すものが全てなくなってからようやく顔を上げて呆然とした。

 彼女の中にいるものは、カリスマなどではない。

 おそらく最も悪魔に近いもの。

 ゲーリングは青い顔色のままで国家保安本部の応接室の鏡をただただ凝視していた。

「首尾はどうだ?」

 応接室を出て自分の執務室へと戻ってきたマリーを待っていたのは、国家保安本部長官代理のブルーノ・シュトレッケンバッハと国外諜報局長のヴァルター・シェレンベルクだ。

「あとはゲーリング元帥の決断ひとつだと思います」

 言いながらあくびをかみ殺したマリーは緊張感のかけらも感じさせずにごしごしと目をこすると、部屋の中央に置かれたふたりがけのソファに腰を下ろした。

 シュトレッケンバッハが口を開きかけるが、金色の髪の少女はぱたりと小さな音をたててソファに上半身を倒して体を縮めるようにして眠ってしまった。

 時刻は午後九時を過ぎている。

 マリーが眠くなってもやむを得ないだろう。

 やれやれと大きな溜め息をついたシュトレッケンバッハは自分の隣に立っているシェレンベルクを見やってから肩をすくめた。

「仕事中だというのに緊張感が足りないとは思わんかね?」

「マリーですから仕方ありませんよ。よく頑張ったほうです」

 いつもであればこんなに遅い時間までマリーがプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセの国家保安本部のオフィスにいることはない。いることがあっても大概出勤時間が遅い場合に限る。

 柔らかい色使いのクッションを抱えるようにして眠っている頼りない少女に、シェレンベルクはマリーを起こさないようにしながら抱くと、その隣に腰掛けた。

「中将閣下はゲーリング元帥を見送らなければならないでしょうから、わたしはここで彼女の様子を見ています」

「……あるいは勲章ものだな」

 彼女はゲーリングの調査局(フォーシュンスアムト)という巨大な盗聴組織をつり上げた。

 事の子細はややこしかったが、国家保安本部としては結果的に喉から手が出るほど欲していた情報収集機関を手に入れることができたのである。

 言い置いてマリーの執務室を出て行ったシュトレッケンバッハに、シェレンベルクはマリーを起こさないよう声も立てずに静かに笑う。

「えぇ、……大したものです」

 よくもまぁ、こんなに小さな体であれほど大物と渡り合うものだ。

 普通の親衛隊将校ならそんなことやりたいとも思わないだろう。

 赤いオーケストラ(ローテ・カペレ)をつり上げることに成功した結果、東部戦線の状況は好転するかもしれない。

 もちろんそれはひとつの可能性でしかないのだが。

 それでも共産主義者たちとつながりを持っていたスパイ網をつかんだことはドイツにとって大きな利益だった。

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