10 ルーシィー
ドイツには数多くの不安要素が点在している。
それはまるでチェスの駒のようだ……。
ヴァルター・シェレンベルクは運転手の走らせる車に揺られながら、後部座席で窓に肘をつくと考え込んだ。
ドイツ内外に存在する数多くの駒は、味方もあれば敵もある。そしてまた、使いようによっては敵とも味方ともなる未知の要素を含んだものまで数多い。そして、シェレンベルクにとっての敵とはまた”本来の敵”だけではない。
組織というものはどこもそうだ。
決して一枚岩などではありえない。
今のところ、マリーはシェレンベルクの手駒だ。
普段は穏やかで人好きのする眼差しを、ぞっとするほど冷たく細めてからシェレンベルクはかすかに眉をひそめた。
外務省に逐一入る情報の収集と解析は、国内諜報局長のオットー・オーレンドルフと特別保安諜報部の首席補佐官ヴェルナー・ベストだけで充分だと踏んだ。これ以上、高官が一所に集中している意味などない。
時計は午後七時を回っている。
一度プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセに戻って、国家秘密警察と刑事警察の捜査の進展状況を聞きたいというのもある。
マリーはマリーで勝手に動いているし、共にゲシュタポの捜査官がふたりほどついているから問題はないだろう。
ひとりは――ヨーゼフ・マイジンガー親衛隊大佐は、シェレンベルクにとってみれば信用ならない相手ではあるものの、海のものとも山のものともつかない少女を陥れるような野蛮な男ではない。
なによりもマリーのつけるカフタイトル”RFSS”の威力は大きい。
彼女の背後には国外諜報局長のヴァルター・シェレンベルクだけではなく、親衛隊全国指導者がいるということは、そう簡単に中級指導者程度が手出しをできる相手ではないということだ。
親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラー。
彼に何があったのかはシェレンベルクは知らないが、唐突にヒムラーのマリーに対する態度が変わった事が興味深い。
もっともこれについては、シェレンベルクは皮肉げに考えた。
――どうせまた、何事か自分の”思い込み”で根拠もなく勝手に納得したのだろう。
ヒムラーとはそういう男だ。
唇の端に嘲笑をにじませたシェレンベルクを運転手は見ていない。
国家保安本部国外諜報局ヴァルター・シェレンベルク親衛隊大佐及び警察大佐、その代理にして親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの後ろ盾を持つ親衛隊少佐。
しかし、はたしてそんなものを”あの”尊大で傲慢な国防軍空軍総司令官のヘルマン・ゲーリングが恐れるとは思えない。しかもあの男は、悪い意味で恐ろしく頭の回転が速く”敵”に回すと厄介だ。
たかが元パイロットの退役大尉だというのに、あのずるがしこさはなんだろう。
いや、ずるがしこいからこそ国の頂点近くに上り詰めることができたのかも知れない。しかしどんな人間であれ、弱みは存在する。
その弱みさえ握り、うまく扱えば間抜けなど制御することは簡単だ。
この数日、スイスでの作戦が始まって以来、シェレンベルクら国家保安本部の高官たちは自宅に帰ることもできずに情報収集にあたっている。
プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセに到着し、ネクタイを軽く緩めると制帽を外す。ブーツの踵を鳴らして歩く彼は、下士官や兵士たちの「ハイル・ヒトラー」という礼を受け流して前方を見据えた。
現在、国家保安本部には長官がいない。
その長官代理を一局――人事局長のブルーノ・シュトレッケンバッハ親衛隊中将が務めているが、早々にヒムラーに長官を推薦してもらわなければ業務に支障がでてくるだろう。
噂では、ヒムラーが国家元首のアドルフ・ヒトラーに対してシェレンベルクを次期国家保安本部長官に推薦したらしいということだが、おそらくそれは受け入れられるはずもない。
自分がまだ若すぎると言うことをシェレンベルク自身がよく理解していた。
「……さて」
執務室に戻り、扉をしめてひとりきりになったシェレンベルクは、改めて室内には誰もいないことを確認してからぽつりとつぶやいた。
――退役大尉殿はどう動くか。
第一次欧州大戦の英雄にしてエース・パイロット、マンフレート・フォン・リヒトホーフェンの部下だったというヘルマン・ゲーリング。
だからなんだというのだ。
それがシェレンベルクの男に対する評価。
その実態は腐りきった虚栄心の塊だ。それに、と彼は思う。
シェレンベルクは何度かゲーリングの若い頃の写真を目にしているが、当時の彼と現在の彼を比較すると明らかに病的なものが彼を襲っている。
多くの記録に目を通したところ、ヘルマン・ゲーリングの変貌――あらゆる意味で――は今から十九年前の十一月八日から十一月九日に起こったミュンヘン一揆に端を発している。
強靱な精神は、強靱な肉体に依存する。
そして健康な精神は、健康な肉体に依存する。
ヘルマン・ゲーリングの心はおそらく元来それほど強くないのだろう。
強すぎる虚栄心や自己顕示欲を押さえ込むに必要だった強い肉体が蝕まれれば、同じように精神もまた蝕まれていく。
傍目には一切の正気を保っているようにも見えるが、”そう”ではない。
怪物のような男に対してマリーはどう戦うのか興味深い。
大きく息を吐き出してから、シェレンベルクは手にしていたファイルをデスクに置くと指先でそれをめくった。
彼を追い詰めるための、準備は整った。
ルーシィー。
本名はルドルフ・レスラー。
他の容疑者たちよりも早く国家保安本部に送られてきたその男は地下にある訊問室の一室に放り込まれていた。
そこに相対するのは小さな少女。
異様な沈黙が室内を満たしているが、それに全く動揺のかけらも見せずにテーブルに両方の肘をつくと相手のことを気遣うわけでもなければ、訊問する様子もなく手にした新聞を眺めている。
もっともたまに飽きるのかぺらぺらと音をたてて紙をめくってから、元に戻るといったことを繰り返す。
「なにを聞かれても、答えるつもりなどないぞ」
「……そうなの?」
男の低い声に少女は顔を上げると首を傾げる。
底なし沼のようにも思える青い瞳をぱちくりと瞬かせてから新聞を目の前のテーブルに置くと「うーん」と声を上げながら大きく伸びをした。
訊問室の扉の外には万が一のために備えて下士官がいるのだろうが、室内には男と少女だけだ。
金色の髪をキラキラと揺らす少女は半袖のブラウスにスカートとサンダルという出で立ちで、申し訳程度にベルベットの腕章がその腕につけられている。
入室してきたところを見ると、どこからどう見ても丸腰で武器は携帯していなかった。これならば簡単に彼女を人質にして逃げ出すこともできそうだ、とルドルフ・レスラーは思ったが、そんな考えは一瞬で吹き飛ばされる。
まるで深淵を覗き込むような気にもさせられる深い青い瞳が、レスラーをぞっとさせた。
永世中立国のスイスには多くの諜報部員が跋扈する。そして、反独組織の一端を担うルーシィー――ルドルフ・レスラーもその真実の姿を隠してドイツと敵対する諜報機関の情報員と接触をしてきたのだが、それでも、目の前の少女のような無邪気であどけない瞳を持つ者には出逢ったことがない。
多くの情報員たちは、その誰もが用心深く警戒心をにじませて自分というものを隠している。
「わたしは特別保安諜報部の部長、マリア・ハイドリヒ親衛隊少佐です」
よろしくね、とでも後に続けそうな気軽な台詞で自己紹介をした彼女はにこにこと笑って彼の前に座った。
腕章につけられたカフタイトルと、菱形のSD章。
扉を閉める前に彼女の横にいたのは中年の男がふたりと、その後ろにもうひとりの男がいた。襟章を見る限りはそろって高官だ。
「ひとりで大丈夫かね?」
その中のひとりに問いかけられて、少女はニコニコと笑いながら「大丈夫ですよ」と告げる。まるで、”容疑者”が彼女を襲うことなど全く想定していないような笑顔で、彼らの様子をじっと観察していたレスラーの方が面食らった。
「昨年、我がドイツはソビエト連邦に対して、宣戦布告を行い、現在も継続して戦争中です」
彼女の声は甲高くもなければ、少女らしさのない低い声でもない。
声だけを聞いていればその辺の少女たちと変わらない。
どうしてこんな子供がドイツ第三帝国の治安を一手に担う国家保安本部などに所属しているのか。ルドルフ・レスラーには理解できなかった。
「昨年の開戦の際、ドイツ側の軍事機密情報が赤軍情報部に流出していたことを突き止めました」
声色は決して相手を威嚇するものでも、脅すものでもない。
ただひたすらに茶飲み話でもするような調子で彼女は細い指先で新聞の隅を手慰みのようにめくりながら言葉を続ける。
相手が聞いていなくてもどうでもいい、といった態度だ。
「この情報がどこから流れたものなのか、とても興味深くて調べてみたんですけど」
マリーはそこで言葉を一度切ると目を上げてから青い瞳でにこりと笑う。
「スイスって面白いですね」
わずかに小首を傾げた。
「あなたがたがスイスの情報部とも連携をとっていることはすでに国家保安本部で確認済みです。本来、永世中立国であるスイス連邦は”誰の味方”にもならないはず。そのスイスが、連合諸国とつながり、あなたがたと結託し、ドイツを罠に掛けようとしている」
唐突に少女は核心をついた。
その言葉にレスラーがぎょっとする。
どこまで知っているのだろう。
いや、知られていてもしらを切り通せば良いだけのことだ。そもそも相手はただの十代半ばの少女ではないか。
顔色が変わったレスラーに視線もくれずにマリーは頬杖をついて長い睫毛を伏せた。
「ベルリンと、占領地区でシメックスの強制捜査を行いました」
シメックス――ベルリンに本拠地を置いた赤いオーケストラに連なる一組織だ。ヨーロッパに展開する商社として商売をしている。
反ナチス派や、コミュニストなどを中心に運営されるそのスパイ網は、多くの政府高官やナチス親衛隊幹部を相手に商売をしていた。
「顔色を変えなくてもいいし、返事をしなくてもいいわ。レスラーさん」
つまらなそうに新聞の文字を目で追いかけている少女は、目を上げることもせずにそう言うと深呼吸をするように大きく息を吐き出した。
「今頃、イギリスの情報部は大混乱でしょうね」
そうだった。
ドイツの暗号コードをイギリス側が解析しているということが発覚してから、国防軍を中心に暗号コードの刷新が行われた。主にイギリスが被害を受けたのはドイツ海軍の潜水艦隊による通称破壊工作だ。
暗号を解読できたことによって大きな利益がもたらされると思っていたところにこれだ。
ドイツとソ連の共倒れを望んでいたイギリスだが、ソ連の思わぬ国内における軍事クーデターによってこれ以上イギリスの国民感情的に――なによりもチャーチルの心情的に――ソ連への支援が事実上の困難を極める事態となった。
ソビエト連邦のヨシフ・スターリンも、ドイツのアドルフ・ヒトラーと同じではないか!
「……――」
ルドルフ・レスラーは言葉を失って目の前の少女を見つめると、口を何度か開いたり閉じたりを繰り返す。
彼女はなにを知っているのだろう。
「あなたたちみたいな組織がいくつもあるのは掴んでいるけれど、そもそもドイツ側が間抜けなミスを犯しているから仕方がないのよね」
そう言ってから肩をすくめた彼女は地下室であるためにこもった夏の空気に軽くかぶりを左右に振ると、ぱたぱたと片手で顔を仰ぐ。
声の調子は変わらない。
世間話でもしているようだ。
「でも、あなたがたが頼みの綱にしているソ連は今、内部分裂をしているし余りアテにはできなさそうね」
そう告げてからにこりと笑った。
「何が言いたい……」
抽象的な少女の言葉にルドルフ・レスラーが眉をひそめると、マリーは長い金色の髪を片手でかき上げてからまっすぐに男を見つめる。
「脅してもなにも出ないぞ……」
「我が国の、調査局に巣くっている反独組織は今週中にも一網打尽にされるでしょう。それで終わりです」
訊問室の扉を軽くたたく音がした。
「マリー、来客だ」
「はい」
低い男の声に告げられてマリーが立ち上がる。
扉を開いた男の襟章がちらりと見えた。
親衛隊中将。
まごうことなき高官だ。
自分よりも少し若いか、同じくらいの年齢だろう。そうレスラーは考える。
「話しはすんだか?」
「はい、すみました」
訊問はわたしの仕事じゃありませんから。
にこやかにそう言いながら親衛隊中将の襟章をつける男を見上げた少女の肩を軽くたたいた男は、ぎろりと眼差しを訊問室内にやってから「ふむ」と頷いた。
「そうだな、我々の仕事だ」
そうしてゲシュタポ・ミュラーは扉を閉めると廊下に控えていた部下に顎をしゃくってから命令する。
「訊問しろ」
「承知しました! 中将閣下!」
ゲシュタポの捜査員がブーツの踵を打ち鳴らした。




