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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
VII ローレライ
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8 行動部隊

 ――人間(ひと)生命(いのち)の価値は平等ではない。

 人の命が平等である、など理想主義者の奇麗事でしかないのではないか。あるいは、人の命が平等であるならば、「彼ら」の間ですら、どうして「生命」の「選択」などというくだらない行為が行われなければならないのだろう。

 昨年――一九四一年から東部戦線に行動部隊アインザッツグルッペンの南ウクライナ地方の司令官として任務に従事して以来、オットー・オーレンドルフの感じる「人道主義者」たちに対する不信感と不快勘はよりいっそう強くなった。

 強い者こそ、弱者の生殺与奪の権利を握っている。

 弱い、ということこそが罪なのだ、と。

 もっとも強さと言ってもいろいろあるだろうが、いずれにしろ、ひとかけらの強さも持たない者に生き残る価値など”存在”しない。

 オーレンドルフは東部戦線での任務を経験して、それまでとは人生観に大きな変化が生じていた。

 その任務は。

 オーレンドルフの人生を。

 そして価値観も、なにもかもを含めて彼の人生の根幹を大きく揺るがした。

 吐息をつくように、息を吐き出した彼は執務室のデスクについたままじっと目を細めると、思考の泥沼に沈み込む。

 人の心とは、こんなにもあっけなく崩れ去る。

 自分というちっぽけな存在を改めて認識させられて、オーレンドルフはその曖昧さに危うく自分を見失いかけた。

 そこへ発生した国家保安本部長官の暗殺事件。その事件に対してオーレンドルフは私的なことは口にしないが、どこか、心の片隅でほっとしたのも事実だった。それでも、彼の心は硬直しきったように、なにも感じてはいなかったこと。

 東部の戦線は、それほどまでに過酷だった。

 ――人を、殺しすぎた……。

 もう何もかも、以前の自分に戻ることはできないとすら感じながら、帰国した彼に無邪気な青い瞳を投げかけた少女は、見ているこちらが不安になるような危うげな足取りで。

「オーレンドルフ局長」

 春の日差しの中でさえずる小鳥のように。他意もなくそう呼んで笑うのだ。

 ナチス親衛隊の。

 そして軍隊式の規律にも興味なさそうな彼女と、ふたりの警察局長が一緒に居るところなとは親子のようにほほえましくて、そんな彼らの空気感が羨ましかった。しかし、そんなことを感じた自分にまた驚きもする。

 九万人以上の人間の命を理不尽に刈り取っていながら、人とは身勝手に平穏を望む。

 心の平穏を。

「……局長」

 自分を呼ぶ声に、オットー・オーレンドルフは驚いて顔を上げた。

「オーレンドルフ局長」

「マリーか、どうした?」

 いったいいつから彼女はそこにいたのだろう。

 ほんの一瞬で頭を切り換えてオーレンドルフのデスクに両肘をつくようにして頬杖をついてじっと彼を見つめているマリーを見つめ返した。

「シェレンベルクとおんなじね」

 マリーは言いながら大きな青い瞳で笑ってみせた。

「……うん?」

「考え事に没頭していると、呼んでも聞こえていないんだもの」

「そんなことはないと思うが……」

 眠っていたわけではない。

 しかし、彼女が室内に入ってきたことにすら気がつかなかった。眉をひそめてから時間を見ると、結構な時間がたっている。

 思った以上に考え込んでいたようで、オーレンドルフはその事実にやれやれと左右にかぶりを振った。自嘲的にすらなるのは自分の心に受けた傷を自覚しているつもりで、自覚していなかったからだ。

 東部でのアインザッツグルッペンの任務は想像以上にオーレンドルフの心に傷をつけ、負担を強いたこと。ぱっくりと口を開けた傷からは未だに止まることなく血を流し続けている。

 男に”そう”と認識させることになったのは、今、目の前にいるマリー。

「人間とは存外脆いもんだな」

「……いいんじゃないですか?」

 彼の台詞を聞いた少女はきょとんとしてそう言った。

「そうか?」

「オーレンドルフ局長の、中心にあるものが変わらなければ」

 なんでもないことを言うように切り返したマリーに、オーレンドルフは思わず自分の口から飛び出しかけた言葉をぐっと飲み込んだ。

 これが東部での戦場から帰ったばかりであったならば、否応もなく怒鳴りつけていたかも知れない。

 自分の心に抱えた傷に気がつかず、ストレスを感じるままに。

 ――戦場で、非力な人間を殺していない奴ならばなんとでも言える……っ!

 慟哭するような叫びを、オットー・オーレンドルフは文字通り飲み込んだのだ。

 違う……。

 そうではない。

 彼女がオーレンドルフを咎めているわけではないのだ。彼を咎めるのは他でもなく彼自身。手のひらで両目を覆ったオーレンドルフは自分の感情をもてあましてあふれ出すそれにきつく目をつむる。

 気がつかなかった振りをしていた。

 心の痛みから目を背けていた。

 国家保安本部の高官としてやりとげなければならない任務であると、自ら言い聞かせたのだ。不屈の精神と鉄の意志がなければ自分を支え続けることなどできはしなかった。

「……俺は」

 誰かに言われるまでもない。

 本当は、誰よりも自分自身がやったことを理解している。

 マリーは他の人間たちのような慰めも口にしなければ、肯定も否定もしてはいない。幼く何も知らないからだと侮蔑を向けることもできるのかもしれないが、彼女の本質はそんなものではない。

 血だまりの中を無邪気に進む。

「人間の心って不便ですね」

 オーレンドルフの執務机に寄りかかるようにして立っているマリーはそう言いながら首を傾げて見せた。

「自分にどうすることもできないなら、割り切って、切り捨ててしまえれば楽なのに」

 まるで、今日の朝食のパンがあまりおいしくなかったんですよね、とでも言うようにマリーは告げる。

 彼女は国家保安本部の一員で、国家保安本部という組織が何に関与しているのかも知っているはずだというのに、ためらいもなくそう言った。

「俺の犯した罪は二度と消せない」

 二度と消えない。

「……大丈夫ですよ」

 独白のようなオーレンドルフのつぶやきに、マリーはにこりと笑うとそう言って踵に重心を掛けてくるりと回る。

「大丈夫ですよ、オーレンドルフ局長。罪は消えなくても、いずれ時間がいやしてくれます。それに、局長の罪は、局長だけの罪じゃありません。この時代の、全ての人が招いた、全ての時代の罪。世界を回すのは局長だけの力じゃありません」

 大きな青い瞳は、まるで底のない湖沼のように。

 けれども、その瞳は笑っていない。

「世界の罪を、どうして局長がひとりで背負わなければならないんです? 局長だけが悪いんですか?」

 まるでなにかに取り憑かれてでもいるかのように、口上を口にするマリーはややしてからいつものようににこりと笑った。

「……だから、誰の罪でもないんです」

 マリーの言葉にオーレンドルフは言葉を失った。

 たった十六歳の小娘になにがわかるというのか。彼の思うところも知らず、世間のしがらみも知らない小娘がなにを知っているのだろう。

「……出て行け」

 低くうめくようにオーレンドルフが言った。

「はい」

 出て行けと命じられて、即答で返事を返すとマリーは踵を返す。

 執務室にひとり取り残されたオーレンドルフは、両手で顔を覆う。

 誰も彼も同じだった・

 彼に。

 彼らに、責任を押しつけて、自分たちの手は血に汚すこともしなければ、罪に汚すこともしない。そして言うのだ。

 「彼らのなんと残酷なことだろう」と。

 オーレンドルフにしてみれば命令を下した者も、敵の目撃者も、味方も。そして関わりのない民間人も。

 全て同じ。

 身勝手な傍観者にほかならない。

 何人の人間が「彼ら」の心の痛みを理解しようとしていたのか。どんなにオーレンドルフらが苦しみを感じて、血反吐を吐いたとしても、誰もそんなことを知りはしない。

 知ろうともしない。

 だというのに、なにも知らないたったひとりの少女は知らないが故なのか、それを善とも悪とも言わずにただ時代の流れとして受け止めた。

 そこには恐怖も偏見もなく、ただ現実として受け止めるだけ。その柔軟さには驚くばかりだ。血にぬれた彼の手を躊躇なく触れた少女の無邪気さはオーレンドルフがどれほど憧れたものであったのか。

 かつては自分にもそんな頃があったかもしれないと思い起こさせる。

 国家保安本部の血にぬれた世界にあって、ひとつの先入観もなく舞い降りるように現れた少女は彼らの心を固く覆う殻をいとも簡単にすり抜ける。

 やがて顔を上げたオーレンドルフの両眼には、再び強い光が宿っている。

 そう。

 掲げたのだ。

 ナチス党(NSDAP)に入党した十八歳の頃。

 自らの理想の国の実現を、と。

 ナチスの親衛隊としてではなく、ひとりの党の古参戦士として未来への希望の旗を振りかざした。

 国家秘密警察局長のハインリヒ・ミュラーや、刑事警察局長のアルトゥール・ネーベ。そしてオーストリアの親衛隊及び警察高級指導者のエルンスト・カルテンブルンナーらがマリーの瞳に飲み込まれた理由がわかったような気がする。

 彼女は、良くも悪くも本来曖昧になってしまった人間の根幹にあるものをむき出しにする。そうして、彼女は人の心の奥底に封じられていたものをその弱々しくも感じる指で突きつけるのだ。

 おまえはなにを見てきていたのだ、と。

 おまえはなんのために戦ってきたのだ、と。

「……なるほど、面白い」

 ぎらりと光をたたえたその瞳が、強く自分の前のなにもないはずの空間を見つめている。立った先ほどまで、そこには少女が立っていた。

 その罪は、彼の罪ではないと告げた少女。

 確かに彼は、彼の指揮で多くの人間たちの命を奪った。しかし決してそれは彼だけの罪ではない。彼が犯した罪でありながら、彼だけの責任ではない。

「人の命は平等ではない」

 平等ではないからこそ、人はそれを打破しようとして戦うのではないか。

「俺の命も、弱者の命も同じだ……」

 人の命は平等ではありえない。しかし、死こそ強者にも弱者にも同様に訪れる。それこそが真理だった。

 国家保安本部を牛耳ったラインハルト・ハイドリヒにも死が訪れたように、いずれオーレンドルフ自身にも死が訪れる。

 殺した生命(いのち)はどれほど悔やんだところで返ってこない。

 ならば振り返らずに進むだけだ。

「オーレンドルフ局長」

 ぴょこりと少女が顔を覗かせる。

 出て行け、と言ったはずなのに。

「大丈夫ですか?」

「……――」

 少々きついことを言ったくらいでは全くこたえていない。

「わたしのことなら心配いりません」

 にこりと笑った彼女は、そっと扉を閉めてから口を開いた。

「……どうせ戻ってこないんです、死んだ人は。誰も」

 だから、とマリーは薄く口元で微笑する。

「行きましょう?」

 かわいらしく首を傾げたマリーに、オーレンドルフは無言のままで頷いた。

 後悔などしなくてもいい。

 どうせ死んだ人間は帰ってこないのだから。

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