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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
VII ローレライ
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7 薄氷の駆け引き

 ヨシフ・スターリンとラブレンチー・ベリヤらを中心とするソビエト連邦政府高官の同国民に対する非人道的で不当な弾圧と、強制収容所(ラーゲリ)の存在と、さらに収容された人々に対する扱いは、革命派のニキータ・フルシチョフによってセンセーショナルに世界へと発信された。

 ソビエト連邦領内に点在する各地の強制収容所(ラーゲリ)の存在は、自分たちこそが優等民族であり差別を受ける側にはなり得ないと勝手に思い込んでいた連合国の白人社会に強いショックを与えたのだった。奇しくもそれは、戦争中でありながら国内の人種問題に揺れるアメリカ合衆国の世論を直撃することとなり、事態はアメリカにとって最悪の国内状況へと発展した。

 ――フランクリン・ローズヴェルトの暗殺。

 この事件は、過激な有色人種の思想団体によって引き起こされ、このために国内のやはり過激な白人至上主義団体との緊張が急激に高まる結果になる。

 これらの連鎖的に起こった事件の数々によって、もはや世界規模に広がりつつある戦争に対してアメリカ合衆国が全力で介入する力は急速に失われつつあった。

 もちろんこれにはアメリカ合衆国に在住する白人たちの反発もある。

 どうして同じ国民でありながら、軍隊では有色人種たちは危険な任務を与えられずに白人ばかりが最前線に送られなければならないのか。こうした数多くの不満が積み重なりアメリカ合衆国の国民の関心は国内の人種問題へと向けられつつある。

「世の中意外なことが起こることもあるんですね」

 さすがにこの事態に対しては、親衛隊情報部も予測していなかったところもあってヴァルター・シェレンベルク親衛隊大佐はポカンとしてそう言った。

「意外なこともあるもんだな」

 有色人種と結婚しろと言われれば、それはまた別問題とも言えるがシェレンベルクにしろオーレンドルフにしろ、有色人種に対する偏見は余りない。

 同じ人間であって、肌の色が違うだけではないかとも思うから、人種を問題にする種類の人間たちがどうしてそんなくだらないことに関心を払うのかが理解できない。

 人種も、宗教も、思想も。

 個人の知性には関係ないし、白人であれ黒人であれ、屑は屑だ。

 応じたのはオットー・オーレンドルフ親衛隊少将だ。

 アメリカ国内の火種。

 人種問題がそれほどまで無視し得ない状況に陥っているということで、アメリカ政府高官にとっては余談を許さない事態になりつつあった。

 ――ドイツ第三帝国と、大日本帝国との戦争中であるというのに……!

「人口が多いといろいろ大変なのね」

 シェレンベルクとオーレンドルフの食事の席に同席するマリーがそう言った。

「人種と宗教もな」

 付け加えたオーレンドルフに、シェレンベルクは「そうですね」と応じる。どちらにしてもソビエト連邦にしろアメリカ合衆国にしろ、膨大な人口を抱える紛れもない大国だ。

 強制収容所と人権弾圧の件を暴露された程度ではソビエト連邦は揺らぐ事はしないだろうし、人種問題と大統領暗殺事件程度でアメリカ合衆国は揺るぎはしない。

 ドイツ第三帝国の国内問題にとっても同じ事で、それらひとつひとつは国家を構成する歯車の一部分に過ぎないのだから。

「そうなんですか?」

「人種はともかく、宗教の問題だろうな」

 まずい代用コーヒーを口に運びながら、オーレンドルフはマリーに応じて首を傾げる。

「宗教が違うということは思想――つまり物事に対する考え方と姿勢が違う。考え方が違えば些細な問題で衝突が起こる。これが個人同士ならあまり問題にならないだろうが、国家同士とか、集団同士なるとな、問題が途端に大きくなる」

「……よくわかりません」

「子供は考えなくてもいいことだ」

 あからさまに子供扱いされてもマリーは怒らない。

 オーレンドルフはそう言ってから「ところで」とシェレンベルクに視線を投げかける。

「スイスの作戦はどうなっている?」

「政府側と接触し、現在交渉中らしいです。一応先方は永世中立国という名目がありますが、多分に連合国側に傾いておりますので、その辺りをつつけば彼らは動かざるをえなくなるでしょうね」

 ユダヤ人の資産問題もありますから。

 そう続けたシェレンベルクは声もなく薄い笑みをたたえる。

「ユダヤ共の資産問題か……、確かにその辺りはつつけば面白いものが見られそうではあるな」

 感情を余り感じさせないオーレンドルフの声色に、シェレンベルクはわずかに目を細めた。永世中立を宣言するスイス連邦に対して揺さぶりをかける。その大胆さにオーレンドルフが笑った。

「……中立って、誰の敵にも味方にもならないっていうことですよね?」

「そうだ」

 ふたりの諜報局長の会話に口を挟んだマリーの目の前の皿には、まだ半分以上も食事が残っているが、彼女にはとても食べきれる量ではないらしい。すでにナイフとフォークをテーブルにおいてオーレンドルフとシェレンベルクの会話に耳を傾けている。

「ばれたら”自分の立場”が危ないのに、そんな危険を冒すんですか?」

「ぎりぎりの綱渡りだな、誰だって負けそうな相手の肩入れなんぞしたいとは思わないだろう」

 オーレンドルフの説明にマリーは長い睫毛を瞬かせてかた考え込むような素振りを見せる。

「ドイツの状況は芳しくない、昨年の作戦が失敗だった痛手は大きい。だから中立国は勝つだろう可能性が高い方につく。共倒れはご免被りたいところだろうからな」

「……じゃあ、状況がひっくり返ったら彼らはまた日和見的に強い方に味方するっていうことなんですか?」

「中立国も弱小国も、生き残るために最も効率の良い方法を選ぶ。それが生き残る手段だからな。大国に義理立てなんぞするだけナンセンスだ」

 オーレンドルフとマリーのやりとりはなかなか興味深い。

 シェレンベルクはそう思った。

「でも、そうすると大国にこそ決定権があるっていうことですよね? オーレンドルフ局長」

 オットー・オーレンドルフにしてみれば、子供の相手など退屈に思うのではないかともヴァルター・シェレンベルクは思っていた。しかし、意外にも最近ではこの国内諜報局長の年上の青年は、ユダヤ人課のアイヒマン同様、マリーの相手をよくしているようにも見受けられた。

「弱者に権利はないからな」

「……――」

 顎の下に人差し指をあてた少女はじっと考え込んでいると、シェレンベルクはテーブルに肘をついて制服の胸ポケットからタバコを取り出した。

 アメリカに対して展開する”例の秘密作戦”は、もしかしたら思った以上の成果を上げるかも知れない。ただでさえ、国内の人種問題に揺れているこの時期だ。

「ところで、かのお方に対する捜査はすすんでいるんですか? 少将(ブリガーデヒューラー)

 うつむきがちにマッチでタバコに火をつけたシェレンベルクに、オーレンドルフは瞳だけを動かした。

刑事警察(クリポ)のほうと連携して動いているが、貴官の言う”かのお方”というのは誰のことだ?」

 問いかけにシェレンベルクは低く笑った。

 腹の中の黒い政府高官が多すぎだ。もっともそれはドイツ第三帝国に限った話しではない。どの国も”政治屋”は大概そんなものだろう。

「ご想像にお任せしますよ、オーレンドルフ少将ブリガーデヒューラー・オーレンドルフ

「……ふん」

 多くは語らないシェレンベルクにオーレンドルフは鼻を鳴らした。

 事態はゆっくりと、けれども確実に動きだしつつある。けれども、ナチス党(NSDAP)の自浄作用など、今さらふたりの諜報局長たちは期待していない。

 そんな自浄作用など、当の昔に失われてしまった。そんな機関を圧倒的な力でねじ伏せたのはラインハルト・ハイドリヒ親衛隊大将。

 彼の権力に対する強い欲求は、恐怖政治という形でナチス党、あるいはナチス親衛隊を抑えつけていた。

「かの方々、か」

 ハイドリヒが死んで、いっそ清々したと思っている者が多いだろう。

 もしくはほっとした者も多いのかもしれない。

 秘密を握る者が、死んだ。

 毒づくように言ったオーレンドルフは腕を組み直してから、シェレンベルクの指先につままれている紙巻きタバコの先端に点っている炎を見つめた。

 国内諜報局や国外諜報局だけの一組織では手も足も出しようのない高みにいる人間たち。

「ですが、御方(おんかた)は存外力押しで筋の通らない話しも、通そうとしてきます。そのときはどうされるおつもりです?」

「なに、そのときは」

 オーレンドルフが人の悪い笑みをたたえる。

国家保安本部(RSHA)お得意のやり方があるだろう?」

「……確かに」

 罪がないなら作ればいい。

 疑惑がないなら、煙を上げればいい。

 ただそれだけだ。

 かつて、ラインハルト・ハイドリヒが突撃隊の幕僚長、エルンスト・レームを罠にはめたように。

 それこそが国家保安本部(RSHA)の伝統的なやり方だ。

 オーレンドルフの台詞に、シェレンベルクが良心の呵責も感じずに頷いた。

 国家保安本部の抱える情報は、ありとあらゆる意味で国内外の人間たちの息の根をとめるだろう。

 その日の業務が終わった後の「食事会」の席で、物騒な会話を交わすふたりの青年は耳をそばだてる人間がいないことに細心の注意を払った。

「ところで、マリーの引っ越しが決まりましてね」

 ふと話題を切り替えたシェレンベルクにオーレンドルフもタバコに火をつけながら、眉尻を引き上げた。ヴァルター・シェレンベルクが世間話に話題を切り替えたことが、先ほどまでの不穏な会話の終わりを告げている。

「プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセのすぐ近くのアパートメントなんですが、なかなか良い物件でしたし、マリーの給料でも充分支払えるかと思いまして」

「そう言えば蹴破れそうなぼろ小屋だったそうだな。もう少しセキュリティのしっかりしている物件のほうが良いだろう」

 歯に衣を着せないオーレンドルフに、シェレンベルクは明るい笑い声を上げると「失礼ですね」と言った。

「別にわたしは、今の家でもいいわ」

 応接室と、寝室、そして台所と洗面室と浴室があるだけの小さな家だ。

 オットー・オーレンドルフは彼女の自宅を訪ねたことはないが、常々多くの者たちが「蹴破れそうなぼろ小屋」と評価していたので、それなりには把握している。

「そうもいかない。なにより、親衛隊長官の命令だからな。ヒムラー長官も随分と心配されているから言うことを聞きなさい」

 シェレンベルクの小言にも似た言葉に、マリーは数秒だけ考え込んでから「はーい」と言った。

 計算しているのかいないのか、彼女は一部の国家保安本部の高官たちに対して好ましい変化をもたらしている。特に東部戦線帰りのアルトゥール・ネーベやオットー・オーレンドルフ、ハインツ・ヨストなどが良い例だ。

 ちなみに東部戦線にいたわけではないものの、ゲシュタポのユダヤ人課のアドルフ・アイヒマンなども全体的にぎすぎすとした雰囲気が改善されつつある。

 そうして「食事会」が終わり、ヴァルター・シェレンベルクはマリーを連れてオーレンドルフの前を辞した。少女を連れたシェレンベルクが自分の前から消えたのを見送って、オーレンドルフは息を吐き出した。

 東部の戦況が逼迫しているのはわかっている。

 彼は行動部隊アインザッツグルッペンの指揮官として、昨年の国防軍と武装親衛隊の作戦で行動を共にしていたのだ。多くの兵士たちが死んだことも知っている。

 南ウクライナに展開した彼の部隊、アインザッツグルッペンD隊の隊員は約六百人。たった六百人しかいない五部隊でオーレンドルフは多くの民間人やパルチザンを掃討殺害した。

 中にはマリーよりもずっと幼い者も、そして彼女と同じ程度の年齢の子供もたくさんいたこと。

 それでも命令であったし、彼にとっては必要なことであったから殺した。

 戦争に善も悪もない。

 人をひとり殺すことと、百万人殺すことが同じ事であるとはとても思えないが、人道主義を気取る者はこういうだろう。

 だが、「勝者」となった者は決まってこういう。

 ――人間(ひと)生命(いのち)は数ではない。

 自分たちは「戦場」で「戦闘」に関与しておらず、そのいきさつさえ知らないと言うのに。

 自分たちの行為を棚に上げて、敗者を咎める。

 そして敗者は、敗者であるが故に咎められるのだ……!

「ひとり殺すも、百万人殺すも同じ事なら、同じように殺した結果がどうして咎められない」

 暗殺されたアメリカ大統領――フランクリン・ローズヴェルトはスターリンのそれを黙認しようとしていたこと。アメリカ国内にあった人種問題、あるいは人権問題がローズヴェルトの生命を断ち切ったのだ。

 卑劣な差別主義者。

 彼はそう糾弾された。

「自業自得だ……」

 くだらない人道主義などをプロパガンダに使おうとするから破綻するのだ。自らのアキレス腱がそこにあるのであれば、そんなものを安易に使うものではない。

 低く呟いてから、オーレンドルフはふと自分の鼻先をかすめた花の香りに気がついて顔を上げる。

 少女の残り香だろうか。まさしく花のように笑った彼女の存在が、オーレンドルフの心に安堵のような思いを募らせた。

 そんなオーレンドルフはふと不安を感じる。

 プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセにいても尚、か弱く儚さを感じさせる彼女があるいは先頃の事件のように、テロの対象とされるのではないのかと心配になる。

 力の弱い少女をさらうことなどなにより簡単だ。小さな少女の情報将校の存在が明るみに出てはならない。

 危機感のようなものを感じつつ、オーレンドルフは片目を押さえた。

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