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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
VII ローレライ
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6 アドルフ・アイヒマン

 スイス連邦の首都ベルン市に潜入するための工作員がSDから二名、国家秘密警察(ゲシュタポ)から二名が選抜された。作戦の開始の決定と同日、選抜された四名の国家保安本部(RSHA)の諜報部員たちは列車でスイスへと向かった。

 これを支援するのは外務省情報部INFⅢで、国家保安本部(RSHA)に弱みを握られたような形となった外務大臣のヨアヒム・フォン・リッベントロップは苦々しい表情を隠そうともせずに、親衛隊全国指導者ライヒスヒューラー・エスエスハインリヒ・ヒムラーの要請をやむなく了承したのだった。

 もっとも政府高官同士のいがみ合いなど、下っ端には関係ないことで今作戦においては軍事上の重大な情報流出も懸念されていることから、外務省情報部だけではなくさらに国防軍情報部(アプヴェーア)及び、陸軍参謀本部東方外国軍課(FHO)のバックアップ体制も敷かれていた。

 この国防軍情報部と陸軍参謀本部東方外国軍課の支援というのは、万が一重大な軍事情報がソ連側に流出していた時のための情報統制で、多方面の情報機関に対する支援の約束を取り付けるためにかけずり回っていたのは、ご多分に漏れず国家保安本部国外諜報局長のヴァルター・シェレンベルク親衛隊大佐であった。

「相変わらず損な役回りですね」

 肩をすくめながらそう言ったシェレンベルクに、国家保安本部長官代理を務めるブルーノ・シュトレッケンバッハ親衛隊中将がちらと青年を見やって鼻から息を抜いた。

「こういう仕事は君が一番得意だろう、シェレンベルク大佐」

「そうですかね?」

 昨年の対ソビエト連邦戦がはじめられる前に、東部での行動部隊アインザッツグルッペンの行動に対する国防軍の了解もシェレンベルクが取り付けたようなものだ。

 国家保安本部の”パルチザン掃討部隊”が同行し、その協力の約束を武装親衛隊と国防軍に取り付けるのもそれなりに骨の折れる仕事ではあったのだが、全くもってシェレンベルクの考えとは裏腹に、周囲の同僚や上官たちは彼がそういった仕事が誰よりも得意であるという評価を下していた。

 自分に対する評価に対して、特にコメントするわけでもなく軽く笑った国外諜報局長は、シュトレッケンバッハとの会話を早々に切り上げて自分の執務室へと戻った。

 やらなければならないことは山ほどある。

 考えなければならないことも多い。

 現在、国家保安本部(RSHA)主導の作戦が展開中である以上、シェレンベルクは全ての事態を把握する義務があった。

 今作戦は、形式的には国外諜報局のシェレンベルクの立案による作戦で、これを国家保安本部長官代理ブルーノ・シュトレッケンバッハ、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラー。そして国家元首アドルフ・ヒトラーの承認を得て開始された。表向きの作戦目標はスイスに潜伏する赤いオーケストラ(ローテ・カペレ)の摘発とされる。

 この作戦には、表向きの作戦目標とは別の目的もあり、全ては国外諜報局長ヴァルター・シェレンベルクと国内諜報局長オットー・オーレンドルフ、そして特別保安諜報部とハインリヒ・ヒムラーの間で画策された。

 こうしてはじめられた作戦の中心にいるのは特別保安諜報部長、マリア・ハイドリヒ親衛隊少佐。彼女の意図を正確に把握しているのはオットー・オーレンドルフとヴァルター・シェレンベルク。ふたりの彼女の補佐官で、スイスに派遣された諜報部員達には最低限の情報しか与えられていない。

 彼らに与えられた任務はスイス政府への接触だ。

 そして事態が動いた時のために、ゲシュタポとクリポが国内で待機している。

 どちらにしたところで、とシェレンベルクは普段は穏やかな印象すら受ける眼差しに、驚くほど冷徹な光を閃かせてみせた。

 ――いずれにしろ、諜報部員たちの報告待ちだ。

 戦争を円滑に進めるためには情報は重要だ。正直なところ、情報機関同士の主導権争いなど興味もないが、必要とあれば全力で介入するまでである。

 情報将校たちは、多くの顔を持つ。

 彼ら自身と親しくする者たちにすら、素顔は見せることをしない。

 ヴァルター・シェレンベルクにしたところで”そう”だった。一部の者から「調子が良い」だとか「女性のように繊細」だとか評価されていることも知ってはいたが、彼はあえてそれを訂正することもしなければ、否定することも肯定することもしない。ただ、相手が感じるままに任せて静かに笑っている。

 誰も「ヴァルター・シェレンベルク」の素顔を知りはしない。

 けれども、それでいい。

 シェレンベルクはひっそりと嘲笑する。

 諜報部員に特定の「顔」など必要ない。

 一度、情報組織に関わったが最後、二度と抜け出すことなどできはしないのだから。

 とりとめもないことを考えながらシェレンベルクは時計を見つめると時刻を確認する。

 国内諜報局長のオットー・オーレンドルフと約束をしていた時刻が迫っている。軽やかに椅子から立ち上がるとシェレンベルクは内線電話の受話器を上げた。




 ――忠実な官僚。

 職務に忠誠を誓った巨大な機械の歯車のひとつ。

 アドルフ・アイヒマンが、そうした自己認識に至っていたかどうかはともかく、多くの国家保安本部(RSHA)の高官たちからはそのように認識されている。もっともその為人(ひととなり)については、余り好ましく感じられるものではなかった。

 個人として好ましい印象を持たれることの少ないアドルフ・アイヒマンの横に、なぜかマリーの姿をよく見かけるようになったのは、彼女が国家保安本部に所属するようになってからすぐのことだった。

 アイヒマンのほうは鬱陶しいものを感じてもいる様子で、大概仏頂面で唇をへの字に曲げている。しかし、横にいる少女のほうはオーレンドルフと大して年齢の変わらないアイヒマンにまとわりついては、彼の仕事の邪魔をしていた。

 もちろん本人にはアイヒマンの仕事を邪魔しているつもりはないのだが、マリーは階級が下であるとは言え部長であり、さらに親衛隊全国指導者個人幕僚本部に所属するヒムラー直属の親衛隊将校だ。一課長でしかないアイヒマンが邪険にできる相手でもなく、結局仏頂面のままで、まとわりついている少女の相手をしている形になっていた。

 ユダヤ人問題について特別な能力を持つ専門家。

 それがアイヒマンに対する評価だったのだが……。

「わたしは保育士じゃない」

 憮然としてつぶやいたアイヒマンは書類を決裁しながら横目に彼のデスクに寄りかかって本を読んでいるマリーを見やった。

 しかし本を読んでいると思ったら、広げた本に金髪をまき散らして眠っている有様だ。

「……マリー」

 ハイドリヒ少佐、などとかしこまった呼び方も馬鹿馬鹿しくなるような子供らしさに、思わずアイヒマンは彼女の名前を呼んだ。

 彼もまたシェレンベルク同様に妻以外の愛人が何人もいるが、この二十歳ほども年少の少女に色気を感じるような趣味はない。

 確かにかわいらしいものは感じるが、その年齢の割りに童顔で華奢なマリーはアイヒマンの横で寝息をたてていた。

「マリー、起きなさい」

 仕事中だというのに居眠りとは良い身分だ。

 そもそも特別保安諜報部は現在、特殊作戦の真っ最中ではないのか。肩を軽く揺すって彼女の眠りを覚まそうとした彼の腕は、少女の細い腕にしがみつかれてぎょっとした。愛人や妻から情愛のこもった腕で抱き返されたことはあっても、年端もいかない少女から無自覚にしがみつかれたことなどなかったからだ。

 アイヒマンの腕にしがみつくようにして眠っている彼女は、不意にびくりと硬直してから目を醒ます。青い瞳が瞠目して男を見上げていた。

「どうした……?」

 そんな彼女の様子に数秒沈黙してから問いかけるとマリーは何度か口を閉じたり開いたりして、視線を彷徨わせると指先を震わせてきつくアイヒマンの制服の腕にしがみつくと目をつむった。

「――……」

「マリー?」

 仕事の手を止めることになってしまったアドルフ・アイヒマンはあきれたように息を吐くと、しがみつかれた腕をそのままにして椅子から立ち上がりマリーの前に座り込むと少女の顔を覗き込んだ。

「夢でも見たか?」

 問いかけるアイヒマンに少女は左右にかぶりを振ると、弱々しくも見える腕で必死にしがみついてくる。そんなマリーを見たアイヒマンは首を傾げて溜め息をついた。無意識に少女の頭を撫でてから目尻を下げると微笑する。

 多くの高学歴の知識人たちと共に仕事をし続けてきた彼の心は疲れ切っていた。そんな彼の前に現れるようになった不躾な少女の存在は、彼の疲弊して硬直しきった心の緊張をゆっくりとほぐしていく。

 今もそうだ。

 他意もなくただ彼の腕にしがみついている華奢な少女は、アイヒマンの虚栄心を満たす役割など持っていない。

 まるで乱暴に扱えば砕けてしまう繊細なガラス細工かなにかのようだ。

 アイヒマンが受けたマリーの印象はそういったもの。

 そんな彼女を自分の腕にしがみつかせたままで、その背中を抱き寄せるとゲシュタポのユダヤ人課の課長は立ち上がってソファへと少女を導いた。

 壊れ物を扱うように、彼は少女に触れる。

 国家保安本部(RSHA)で働くと言うことはアイヒマンにとっては緊張の連続だ。

 多くの博士たちが、国家保安本部で働いていたこと。

 それがアイヒマンの自尊心を傷つけた。

 大学など卒業していなくてもこれほどできるのだ、と証明したかった。けれども、どんなに職務上の成果を出しても彼の中に積もるのは無力感にも似たやりきれなさばかり。そして彼を認めたはずの、誰よりも強いカリスマ性を持っていたラインハルト・ハイドリヒはチェコスロバキア亡命政府の手によって暗殺されたこと。

 こんなことがあっていいはずがない。

 アイヒマンは人生の残酷さをどれほど呪ったことだろう。

 誰も「死」というそれから逃れることはできないのだ。

 そうして、ハイドリヒが死んでからアイヒマンは以前にも増して仕事に打ち込むようになったが、それはアイヒマンの心をひたすらに疲弊させることになっていたことに、彼自身も気がついていなかった。

 水を失い乾いた大地がやがてひび割れていくように、アイヒマンの心は次第に余裕をなくしていく。

 ただひたすら自分の能力の限界に挑戦するかのように汽車を走らせてユダヤ人の移送を強行した。

 そのことが、人道的に正しいことであるとか、間違っているとか、そんなことはアイヒマンの関心事ではなかった。命令を遂行することが彼にとっては最も重要なことだった。

 ――アドルフ・アイヒマンは想像力が著しく欠如している。

 ヴァルター・シェレンベルクが彼のことをそう評価していたことを知っていたが、アイヒマンにもアイヒマンなりの言い分がある。

 彼にしてみれば国家の歯車でしかない一官僚が想像力など持っていても意味などない。彼らには上官の命令に対して踵を打ち合わせて「承知しました(ヤヴォール)」と告げることしか許されないのだから。

 そんな彼の視界に入り込んだ無邪気な子供は、机の影に隠れるようにしてアイヒマンにまとわりついて邪魔ばかりしているというのに、思いがけないほど早く彼は少女の存在を容認してしまっていた。

「そんなに強くしがみつかなくても、わたしは逃げたりしない」

 金色の髪を優しく撫でながら告げてやってもマリーの力の強さは変わらない。やれやれと表情の厳しさを緩めた彼はそうしてソファに体を預けて、少女の体を両腕で抱き直すと、たまには良いかとアイヒマンも睫毛を伏せてマリーの背中を優しく撫でた。   

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