5 罠にかける
国家保安本部国外諜報局特別保安諜報部部長の次席補佐官を務めるハインツ・ヨスト親衛隊少将は、ほんの半年ほど前まで自分の補佐官を務め、現在の上官でもあるヴァルター・シェレンベルク親衛隊大佐の執務室を訪れていた。
この有能な青年は、以前はゲシュタポの防諜部門の部長を務めた諜報部員で、一説には十一カ国語を操るとも噂されている。
外国語が得意ではないヨストにしてみれば、なんとも感心する話しである。
そんなヨストは東部戦線での過酷な任務によって、一時は精神的に再起不能を危ぶまれたが、現在は新設された国外諜報局の一部門、特別保安諜報部の部長次席補佐官として、ベルリンのプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセにある国家保安本部に喚び戻された。
それまでの彼の地位であった国外諜報局長からは解任され、その一部門の部長次席補佐官という地位は、実質的な降格であったのだが、その特別保安諜報部がほんの数日前に親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの直接指揮下に映されて以来、ハインツ・ヨストは自分に対する人事異動に対して「結局どういう風の吹き回しだ?」と首を傾げるに至る。
降格どころか、度重なる失態に閑職も確定だと覚悟をしていたというのに、よくよく考えればヒムラーの直接指揮下の警察部隊隊長の次席補佐官ともなれば、それなりに重要ポストであると位置づけてもいいだろう。
「ヒトラー万歳、ヨスト少将」
「ハイル・ヒトラー」
「どうされたんですか? 珍しいですね」
普段はマリーと共に行動するか、その業務の補佐についているヨストは、ヴェルナー・ベスト親衛隊中将同様に多忙なことこの上ない。なにぶん滅多にかつての同僚たちとも顔を合わせる機会もなくオフィスに閉じ込められていることが多いのだ。
シェレンベルクのほうも、かつて自分の上官であった高級指導者の来訪に臆することもなく出迎えてソファを薦める。
「貴官も忙しいだろう、すまないな」
「いえ、前国外諜報局長の訪問でしたらいつでも歓迎いたしますので、遠慮なくいらっしゃってください」
にこりと笑った青年に、ヨストは何事かが気にかかるのかわずかに眉間を寄せると息をつく。
「単刀直入に言うが……」
そう前置きして、しかしヨストは寸順したようだ。そしてほんの数秒の時間を開けてから、睫毛を上げた。
「ルーシィーのことだ」
「……ヨスト少将?」
「調査局にコミュニスト共のスパイ網がある。それについてはシェレンベルク大佐も勘付いているだろう。昨日の中央記録所ではその情報の洗い出しをしていたんだが、彼女のあれは勘が良いではすまない話しだぞ?」
「知っています。しかし、マリーがF局にコミュニストのスパイ網が広がっていることを知っていましたか……」
何らかの情報提供があったのか。
それとも、最初から知っていたのか、どちらだろう……?
しかし、それにしてもルーシィーという名前は初めて聞いた。国防軍情報部を介した情報なのか……。
「それで、少将。ルーシィーとは?」
「赤いオーケストラの”楽団員”だ」
赤いオーケストラの楽団員。
それが誰であるのか、まだハインツ・ヨストにはわからない。ヴェルナー・ベスト辺りもわかってはいないだろう。そうなると、ルーシィーとやらの正体に当たりをつけているのはマリーだけと言うことになるが、国家保安本部に名前を連ねるようになったばかりの新米情報将校がどうしてそんなことを知っているのか。
「ありていに言えば、内通者を得た。そこから芋づる式に組織を一網打尽にするつもりらしいが、問題がある」
「……そこで六局の出番、ということですか」
「そう」
ヨストの言葉にシェレンベルクは首を傾げた。
補佐官が権限を越えて”上官”の先回りをするということは果たしてどうか。
「ところで、少将が本官におっしゃってくださっていることは、マリーの意志なのですか?」
マリー。
シェレンベルクは彼女のことをそう呼ぶ。
「……もちろん。ただ、彼女は言葉がうまくないからな。それでわたしが今回の話しを貴官にすることとなった」
「なるほど」
確かに物事を順序立てて話しをすることはマリーがひどく苦手としている。
年頃の女の子らしく、とでも言えば良いのかマリーの話は聞いていると苛立ってくるほどあっちにいったりこっちにいったりする。時間に余裕があるときはそれでも良いのだが、事態が切迫しているときにそれをやられると、物事を順序よく簡潔に説明しろと小言を言いたくもなる。
ハインツ・ヨストの言葉に、「ふむ」と相づちをうったシェレンベルクは、穏和な眼差しの高級指導者に視線を向けてから問いかけた。
「それで、ルーシィーとやらはどこに潜伏しているんです?」
「スイスだ」
人差し指を顔の前に立てたヨストの言葉に、シェレンベルクはちらと目を上げる。
ハインツ・ヨストが「問題がある」と告げた時点で、その可能性は予想していた。
永世中立国に諜報部員が潜伏している場合、その対処はひどく面倒で厄介だ。
「……ベルンですか」
「あぁ」
言葉少なに応じるヨストに、顎に手を当てたままでシェレンベルクは小さくうなると、わずかに目を細めてから息を吐き出した。
確かに潜伏先がスイスというのは厄介な話しだ。他国である以上、国家保安本部がゲシュタポを送り込むわけにもいかない。
「少将の被保護者はなんと?」
「……貴官ならどう思う?」
問いかけに対して問いで返されてシェレンベルクは数秒黙り込んだ。
「そうですね、本官でしたら”情報をうまく扱う”ことですか」
永世中立国に対して、軍事的な強硬手段を訴えることは国際法に反することになる。
ならばどうするか。
情報将校ならば、情報将校らしく戦う手段があった。
「マリー”では”力不足ですね。わかりました、誰か別の人間を動かしましょう」
年若い少女では不適格だ。
現在対ソビエト連邦戦の真っ最中である以上、相手が赤いオーケストラとなれば事態は切迫している。
早いうちに手を打たなければならない。昨年と比較して、状況はソビエト連邦の軍事クーデターなどのドイツ側にとってありがたい要素も加わりつつあるが、それでも高みの見物を決め込めるほど状況は明るくない。ほんの些細なほころびが事態を急変させるだろう。そんな状況に、たった十六歳のマリーでは、敵に侮られることになる。だから、彼女ではいけない。
「なるほど、それが狙いというわけですか……」
しばらくの間考え込んでいたシェレンベルクはかすかに笑うと視線を泳がせた。
ひとつの行動から、複数の結果を導き出すという、はなはだ危険な方法を彼女は選択する。おそらく自分が動けないだろうことも計算のうち。
どんな状況においても自分の感情を切り捨てることができるということは、とても人間味に溢れているとは言い難いが、最良の結論に至る選択をとることができるというのは、組織の歯車として素晴らしい素質だ。
ひとつの選択肢が、三つの結果を導き出す。そしてその中のひとつはシェレンベルクが国家保安本部に籍を置くようになってから長く渇望したものだった。
薄く笑みをたたえた彼はハインツ・ヨストの鋭利な眼差しを受けて、軽く首を回した。
おそらく、ヨストもベストも半ばは察しがついているだろう。互いにそれを口にしないのは用心のためだ。
「いやはや恐ろしいものだな」
ヨストのあきれ気味の声に、シェレンベルクが苦笑する。
”彼女”が何者であるのか。それはとりあえず置いておく。今のところマリーの存在はドイツにとって益になる。
「全くです」
同意するように頷いたシェレンベルクはそっと目を細めた。
「ではシェレンベルク大佐、人選の方をよろしく頼む」
「承知いたしました」
マリーの狙い通りに事が運べば、いくつかの状況が好転するだろう。
それらひとつひとつでは戦況を左右する程度のものではない。それでも、それらがひとつずつ積み重なっていくことによって導き出されるだろう結果が重要だった。
物事とは複合的に作用するものなのだから。
だからこそ、シェレンベルクは”それ”に期待する。
――うまくすれば……。
ひっそりと冷たくヴァルター・シェレンベルクは微笑した。
危険な発言を口の中に封じ込めて、青年は目を伏せた。
*
強靱な精神は、強靱な肉体に依存する。
人の心とは、正常に作用していない場合というのはひどく肉体に負担をかける。
ヴェルナー・ベストはマリーの首席補佐官として、彼女を観察してきた。そうしてひとつの結論にたどり着いた。
彼女の心は、人として正常な機能を果たしていない。そしてそれ故に、彼女の精神、あるいは知的活動によってマリーは肉体に想像以上の負担を強いている。
自覚をしていないからこそ、それによって体力の消耗が激しく、追いついていない。ただでさえ年頃の少女たちと比較しても食が細いくせに、活動量が多いのだから倒れたところでなんらおかしくはない。
時折見るに見かねた高官たちが、高カロリーの菓子などを買い与えているようだが、相変わらずやせっぽっちのままだった。
要するに活動量と摂取量がちぐはぐなのだろう。
「子供が、活発なことは良いことだが、自分の体力が頭にないのは子供だからか……」
大人であれば、体力がなければないなりに自分でコントロールをして活動に支障を出さずにいられるものなのだが、その辺りのコントロールができないのはやはり子供ゆえなのだろう。
執務机について、どこか眠そうに目をこすっているマリーは片手にブロッターを手にしつつ、手首だけで弄んでいる。
眠くなって気が散っているのは明らかで、そんなマリーの様子にヴェルナー・ベストは溜め息をついた。
「……マリー」
呼び掛ける。
「はい」
「眠いなら帰ったらどうかね?」
落ちかかる瞼で何度もまばたきをする少女はそうして無意識にベストの制服に手を伸ばした。彼の制服を掴もうとした瞬間に、持っていたブロッターがひどい音をたてて床に落ちると、その音に本人が驚いたらしくマリーはパチパチと睫毛を上下させてから目を見開いた。
数秒の沈黙の後にはにかむように笑う。
「……ベスト中将はうまくいくと思います?」
「推察の通りならうまくいくかもしれないが、ベルンにはアメリカの大物がいる。そこが不安の種だな」
「そうですね」
アメリカ戦略情報局――アレン・ダレスの存在。
ベストはそれを気に掛けた。
ブロッターが落ちた音にすっかり目が醒めたようだ、と思いながら首席補佐官の高級指導者は木製のそれを拾い上げてからあきれ顔で自分の顔を手のひらで仰ぐ。
「しかし、狙いが”あの方”なら難題だぞ?」
「そうでしょうか?」
「そうだろう」
「そうかもしれませんね」
言葉遊びのようにクスクスと笑いながらベストに応じるマリーは、彼の手の中にあるブロッターを受け取って執務机の端に戻した。
マリーの狙い。
――国防軍空軍総司令官、国家元帥ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリング。
マリーは、自分よりもずっと年上のその男に罠を仕掛けようとしている。
ヴェルナー・ベストはその事実に心臓を掴まれたような感覚に陥ってぞっとすると眉をひそめた。
先日の総統官邸の一斉摘発も”そう”だった。
まかり間違えば、待っているのは自分の破滅だけ。
彼女はなにを考えているのだろう……。
――罠にかける。




