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国内には数多くの情報機関が乱立している。まるでそれは、とヴァルター・シェレンベルクは思った。
それはまるで、ドイツ国内の情勢そのもののようではないか。
その数多くの情報機関同士が互いの足を引っ張り合っているわけだから、情報の先にある戦争がうまくいくはずもない。政府高官たちは、もしくは戦争に勝つ気がないのではなかろうかとすら、シェレンベルクには思えてくる。
勝つ気のない戦争など初めからしなければいいのだ。そんな戦争につきあわなければならない「兵隊」は良い迷惑である。
亡きラインハルト・ハイドリヒは、対ソ戦が始まり、冬を迎えた一九四一年。ベルリンのプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセで「寒さによって死んだ兵士百人ごとに、経理部員を上から順番に銃殺するべきだ……!」と大変憤慨していたことを思い出した。特に部下思いだというわけでもないが、兵士が戦闘ではなく酷寒によって死んでいくことが腹立たしかったのだろう。
ちなみに先日国家保安本部によって外交官の汚職という現実を突きつけられた外務大臣のヨアヒム・フォン・リッベントロップと、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの仲はさらに険悪なものになっていた。
組織のトップがそんな状況にあったから、国家保安本部と外務省情報部INFⅢの関係が良好であるわけもない。
もっとも国内と国外のSDを束ねるふたりの局長――オットー・オーレンドルフ親衛隊少将と、ヴァルター・シェレンベルク親衛隊大佐については、このINFⅢに対してそれほど信頼を向けてはいない。
どちらにしたところで、素人が諜報部員のまねごとをすればいらぬところでぼろを出すだけだ。
諜報部員として訓練を受けた人間にとってすら、そこはたったひとりで戦わなければならない厳しい世界なのだから。
――調査局にどうやら疑いの目を向けている様子です。
SDのユストゥス・レンナルツに告げられた言葉にシェレンベルクは考え込んだ。
航空省調査局。
シェレンベルクにしてみれば忌々しいことこの上ない部署のひとつでもある。数年前、SD独自の無線監視部を作り上げようとしたものの、結果は余り思わしくない。そんな国家保安本部を尻目に数多くの成果を上げつつあるのが、ナチス党が政権を握った頃から存在していると言われるヘルマン・ゲーリング率いる航空省調査局だった。
そこは国家保安本部に勝るとも劣らない魔窟。
さすがのシェレンベルクも全体像までは把握していないが、ヘルマン・ゲーリングはそのF局の存在によって、国内外における多くの情報を知り得ている。
しかし、問題もある。
シェレンベルクの観察するところ、彼らはカードの切り方を知らない。
それこそが、いずれドイツ第三帝国を危険に陥れるだろう。
事実、昨年の対ソビエト連邦戦において、国内のいずれかの情報機関から極秘情報が流出した形跡が認められた。幸いなことに、情報の流出はあったようだが、それを効率的に生かすことはできなかったのだろう。ドイツ側にそれほど大きな損害はなかったが、それでも尚、東部ではこのざまだ……!
今後とも、うまく状況が運ぶとは限らない。
どころか、おそらく悪い方向へと進んでいくだろうと言うことが考えられる。
そして、そんなヴァルター・シェレンベルクが観察するところでは、コミュニスト共への情報の流れを考えるに、ゲーリングの調査局が最も高い可能性があった。
多くの秘密情報を握るヘルマン・ゲーリングの調査局。そこは巨大な帝国だ。しかし、それがゲーリングの手の内にあるということは、なんとも危険極まりない話しで、シェレンベルクはその事実に危機感を抱く。
巨大な組織であればあるほど、そこには裏切り者が潜むには好都合で、だからこそシェレンベルクはベテランの諜報部員のひとりとして、警戒心を募らせた。
情報機関の巨大な帝国。
親衛隊情報部、国防軍情報部、陸軍参謀本部西方及び東方外国軍課、INFⅢ、調査局、海軍無線監視局。
それだけの情報機関が互いに、自らが優位にあろうとして相手の裏を掻こうとしていた。そして、そんな国内情勢にあるからこそ、シェレンベルクも他者に手の内を見せるわけにはいかなかった。
それほどまでに緊張しきった情報機関の荒波の中をマリーは自由に飛び回る。
いっそ大人たちの事情になど興味がないとでも言いたげに。普通の子供と異なるところは、マリーが「大人の顔色」を覗うことをしない、という点だろう。
国家保安本部のの高官たち。
長官代理のブルーノ・シュトレッケンバッハや、ふたりの刑事局長、親衛隊本部の長官たちに相対してすら、マリーはあくまでも自分のペースを崩さない。
異常なほどに。
親衛隊全国指導者であるハインリヒ・ヒムラーに至っては、最近では逆にマリーの顔色を窺っている有様だ。
そんな彼女が総統官邸巣くう不穏分子の一斉摘発に踏み切った例の事件。それについて、ゲーリングはゲーリングなりに調査を進めようとしてくるだろう。
実際のところ、彼女に対して一部の国防軍関係者が接触をしている様子をシェレンベルクは知っている。今のところ、彼女の存在が公になっていないのは、親衛隊全国指導者が、他の高官たちに対して曖昧な態度をとり続けているためだった。
さしずめ日和見主義者で、押しに弱いヒムラーはたった十六歳の少女を国家保安本部の一部署の部長として採用したことを、他の高官たちに咎められることでも恐れているのだろう。
そんな状況だったから、遅かれ早かれヘルマン・ゲーリングがマリーに対して不審を感じてもおかしくはないのだが、彼女の自宅である花の家には電話がなく、プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセにいても滅多に電話をかけることもない彼女を、ゲーリングが探りを入れられるわけもない。
もっとも、諜報関係ではずぶの素人だ。放っておいてもぼろを出す。
ヴァルター・シェレンベルクはそう分析した。
マリーの思惑は、シェレンベルクにすら理解できないが、ゲーリングの指揮する調査局に対して何らかの疑念を抱いているのであれば、彼女の観察眼は確かに本物なのだろう。
「……退役大尉殿、か」
皮肉めいた言葉を口の中で転がして、シェレンベルクは唇の端で薄く笑った。
ごく自然体で振る舞う無邪気な子供にしか見えないマリーと、権力欲と自己顕示欲の塊のようなヘルマン・ゲーリング。
どちらがどちらを凌駕するか。
見物ではないか。
つい先日、シェレンベルクがカナリスに対して告げた荒唐無稽な話しなど、彼自身はもちろん信じてもいない。
もちろん、カナリスが本気にしているとも思えない。
けれども、と彼は思う。
はたして「人間」とはなんなのだろう。
「……ただの動物ではないか」
死ねば動かなくなるただの肉の塊。
やがて腐敗し、骨だけとなる。たったそれだけの存在だ。だけれども、ただの動物などよりもいっそタチが悪い。
野生の動物の殺し合いにはこんなにも大規模なものはないだろう。
けれども、もしも人間が「悪」であるならば、はたして人間を想像した神が悪なのだろうか?
「……はっ、馬鹿馬鹿しい」
主はアダムに対して善悪の知識の実だけは食べてはならない、と言った。しかし、エヴァが創造された後、ルシファーの化身ともされる蛇にそそのかされて、善悪の知識の実を食べた。
その結果、アダムとエヴァは楽園から追放される……。
聖書などくだらない言い伝えだ。
鋭い光をその瞳にたたえて、シェレンベルクは目の前の空間を睨み付けた。
愚かな言い伝え。
彼が信じるのは神でもなければ、神話でもなく、聖書でもない。もちろん都合の良い人道主義など到底信じる気になれるわけもなかった。
シェレンベルクは目の前にある現実だけを見据えている。
情報将校として。
彼は正しく、あるべき姿を貫いた。
F局と言えば、赤いオーケストラのコミュニスト共が接触しているという噂も聞いたが、ゲシュタポはまだ奴らの尻尾をつかめていないのだろうか?
調査局、という言葉に、シェレンベルクは思い出したように首を傾げると、そっと片目をすがめる。
国内の反体制分子を「黒いオーケストラ」と呼び、ソビエト連邦に情報を流しているだろうと推測されるコミュニストのスパイ網を「赤いオーケストラ」とゲシュタポは呼んでいる。
ヘルマン・ゲーリングの暴走も気にかかるところではあるが、目下、シェレンベルクの関心はふたつの反体勢分子にあった。
厄介なことは、国内外に協力者が多数存在しているだろうことだ。
ゲーリングにそれを示唆したところで、あの尊大な男がハインリヒ・ヒムラー指揮下の親衛隊情報部の忠告を素直に聞くとは思えないし、外務省情報部と同じで、協力関係が築けるとはとても思えない。
シェレンベルクが思うところでは、ゲーリングの調査局が国家保安本部と組めば鬼に金棒だ。しかし、万が一にも手を組んだら組んだで、どちらが主導権を握るかでもめるだろうということは目に見えている。
「害虫だな……」
害虫は駆除しなければならない。だが、問題の害虫が当のシェレンベルクなどよりもずっと権力がある。それが問題だ。
そんな害虫たちを制御し、多くの人間から恐れられた男――ラインハルト・ハイドリヒは当に死んでいる。
第三帝国の首切り役人。
そう呼ばれるほどに、彼は多くの人間の急所を握っていた。
「さて、マリー……。どうする?」
彼女はなにをするつもりなのだろう。
ヘルマン・ゲーリングを失脚させるつもりなのか。なにを狙っているのかはわからないが、彼女はなにかをやろうとしているのだろう。
「ミュラー局長がお見えです」
国家秘密警察局長、ハインリヒ・ミュラーが来室したという秘書の声にシェレンベルクは、目前の問題から意識を切り替えた。
「通してください」
「承知しました」
扉の向こうに引っ込んだ秘書の女が消えて、しばらくしてからハインリヒ・ミュラーがシェレンベルクの前に現れた。
国外諜報局と国内諜報局が抱えるSDはそれほど多くない。その多くない人数で広大なヨーロッパの占領地域の情報収集にあたっているのだから、彼らにとってゲシュタポやクリポの協力は非常に重要なことであった。
「どうかされたんですか? ミュラー局長」
立ち上がってナチス式の敬礼をして出迎えたヴァルター・シェレンベルクを見やってから、大股にソファに近づくとどっかりと腰をおろした。
寡黙な警察官僚は、腕を組んでから溜め息をつく。
「アルバート・デニーが舌を噛みちぎって死んだ」
「……そうですか」
特別なことではない。
過酷な拷問から逃れようとして自ら死を選ぶことなどそれほど珍しくはない。
「そんなことで、いらっしゃったのですか?」
そんなこと、と言ってしまえる程度には容疑者とされた者や、諜報部員の自殺など日常茶飯事で、シェレンベルクにとってもミュラーにとってもそれほど気に留める事象ではない。
「マイジンガーのことだ」
「……あぁ、そのことですか」
ヨーゼフ・マイジンガーは元々、国家秘密警察の捜査官だ。
ポーランド戦の時にはアインザッツグルッペンの指揮官代理も務めたが、野蛮で残忍というのが、周囲のマイジンガーに対する評価である。
「ミュラー局長も友人は選ばれたほうがいいと思いますが……」
「あいつが勝手に友人だとおもっているだけで、俺にとっては知り合い程度だ」
ばっさりと言い切ったミュラーにシェレンベルクはかすかに笑う。
「それでマイジンガー大佐がどうかされたんですか?」
「……正気か?」
「なにがです?」
「あの男を、マリーの指揮下にいれるなど正気とは思えん」
ヨーゼフ・マイジンガー。
彼は、今までマリーの指揮下に組み込まれた親衛隊将校たちとは違う。今まで彼女の下に組み込まれたベストにしろヨストにしろ、理性的で冷静で、自分の分を弁えている男だった。
しかし、マイジンガーは違う。
時に率先して自分の権限を大きく飛び越えた。
「彼を指名したのはわたしでもありませんし、ヒムラー長官でもありません。彼女が、マイジンガー親衛隊大佐を指名したんです」
自分の部下にと。
――ワルシャワの殺人鬼。
「……御せると思うか?」
「心配なんですか?」
年齢的にも、現在の特別保安諜報部歳年長であり、最も階級の高いヴェルナー・ベストよりも四歳ほど年長になるマイジンガーは、権力欲に取り憑かれた男だ。
「ベスト中将も、ヨスト少将もいますから、きっと大丈夫でしょう」
ヴェルナー・ベストとハインツ・ヨストは今でこそ精彩を欠いてはいるが、それこそ国家保安本部を代表した知識人たちだ。
「なにより、ミュラー局長もご存じかと思いますが、ベスト中将はマイジンガー大佐がプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセにいたときの人事局長を務めています。彼の扱いには慣れているはずですから」
もっとも、そのベストもマイジンガーに対する評価は「残忍な方法を好む原始人」と言ったものではあったのだが。
「マリーは他人を疑わないからな」
それが心配だ。
そう言いたげなハインリヒ・ミュラーに、シェレンベルクのほうは内心で首を傾げてから少女の顔を思い浮かべた。
「根拠はありませんが、たぶん大丈夫だと思いますよ」
連続殺人犯ヨーゼフ・アーベントロートの件を思い出した。
ゲシュタポの捜査官であるラルス・シュタインマイヤーの言葉が正しければ、彼女はアーベントロートなどよりもずっと危険人物であると言っていいだろう。
そんな彼女がマイジンガーなどの俗物に気後れするとはとても思えないのだ。
「貴官が根拠がない、などと言ったところで信じられるか」
ぎろりと睨み付けられるように、ミュラーの視線を受けて国外諜報局長を務める青年は目元を和らげる。
どうやらこの腕利きの警察官僚にはお見通しらしい。
「大丈夫ですよ、彼女は」




