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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
VII ローレライ
66/410

3 Gestapo

 プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセ。

 悪名高いゲシュタポの本拠地であり、その国家秘密警察(ゲシュタポ)を擁する国家保安本部そのものである。

 国家保安本部の地下には数多くの独房がありここに政治犯や、思想犯、もしくは反体制活動家などを収用した。さらに訊問や拷問を行うための訊問室があり、その日も鈍い音と共に男のもがくような苦悶の声が地下のフロアに響いていた。

「……あれは?」

 国家保安本部の地下で「自白」をさせるために、尋問官が「容疑者」に対して拷問が施されることは、そこではそれほど珍しいことではない。

 その「拷問部屋」の前を通りかかった国外諜報局のヴァルター・シェレンベルクは余り表情を変えずにゲシュタポの捜査官に尋ねると、質問を受けた捜査官からはアメリカ戦略情報局の諜報部員であり秘密工作員であるアルバート・デニーである、という答えが返ってきた。

 アルバート・デニーはだいぶ以前から国家秘密警察(ゲシュタポ)が目をつけていたドイツ系アメリカ人で、ごく最近ではシェレンベルクもマリーの口からその名前を聞かされていた。

 男の拷問はすでに四日ほどの間続けられ、その間にゲシュタポは多くの情報を手に入れた。その中にはアメリカ国内の政治動向なども含まれており、総合的に見てアルバート・デニーの訊問には大きな意味があったと言えるだろう。

「国外諜報局特別保安諜報部の要請を受け、ゲシュタポが動員されたとなっておりますが、ご存じないのですか?」

 そう聞かれてヴァルター・シェレンベルクは軽く肩をすくめた。

 特別保安諜報部は、その所属こそ国家保安本部国外諜報局の指揮下にあるが、実際の所シェレンベルクの指揮下どころではなく、親衛隊全国指導者個人幕僚本部でもない。

 親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの、ごく最近の新しい命令によって、完全にヒムラーの直接指揮下に移された。もっとも名目上はシェレンベルクの指揮下にあり、マリー自身も彼を尊重しているようであったから、その上下関係は破綻していない。

 マリーの行動は不思議なもので、権限を越えて出しゃばるわけでもなければ若すぎる部長級の人間として居丈高になるわけでもない。

 ただ、本人はひたすら自由に振る舞っているだけだ。

 とはいえ、彼女の行動は決して不愉快ではない。時には遊んでいるだけとも捕らえられそうだが、どうやらマリーにはマリーなりの思惑があるようだ。

「……で、そのハイドリヒ少佐は?」

 アルバート・デニーの”訊問”を指示したというマリーがいない。

 問いかけたシェレンベルクの背後から声が飛んだ。

「マリーなら、中央記録所に行くと言っていたぞ」

 言いながら部下の捜査官に軽く片手を振って追い払ったミュラーに、シェレンベルクの相手をしていた男は「ハイル・ヒトラー」と型どおりの敬礼をして、ふたりの局長の前から辞した。

「これは、ミュラー局長」

 ゲシュタポ・ミュラー。そう呼ばれる厳つい男はゆっくりと階段を下りながらシェレンベルクにそう言った。

「なんだ、シェレンベルク大佐は直属の上官だと言うのに報告を受けていないのか」

 真意のわかりにくい彼の物言いにヴァルター・シェレンベルクは曖昧に微笑すると小さく首を傾げてから口を開く。

「きっと忙しかったのでしょう」

 ひどく勘が鋭いものの、上官相手に気を遣うと言うことが苦手なマリーはおそらくきれいさっぱり報告を忘れているだけだ。

 普段であれば、マリーが気がつかなくてもふたりの補佐官のいずれかが、気を利かせてシェレンベルクに報告をするか、シェレンベルクが特別保安諜報部に送り込んだSDであるユストゥス・レンナルツから報告が入るはずだった。それもない、ということは現在特別保安諜報部が何らかの理由で出払っていると考えるのが妥当だろう。

「それで、アルバート・デニーはこの後どうするんです?」

「そうだな、自白させたら強制収容所(KL)にでもたたきこんでおくことにしようか」

 生かしておけば、まだアメリカ戦略情報局との取り引きに使えるかも知れない。

 敵国の情報網は最大限に利用するべきだった。

 ドン、と鈍い音が鳴る。

 ヴァルター・シェレンベルクはその音に反応を見せることもせずに踵を返すと、そのままミュラーに軽く片手を上げて挨拶をすると、誰も自分に対して気を配っていないと認識してから片目をすがめた。

「一応、中央記録所に顔を出してみます」

「そうするといい」

 声色は普段と変わらない。

 しかしその表情は情報将校のひとりとして鋭い光を浮かべていた。

 つぶやくようにシェレンベルクに応じて、ハインリヒ・ミュラーは訊問室の扉に取り付けられている覗き穴を覗いてから、不穏な光をその瞳にちらつかせる。

 訊問官が大きな手でアルバート・デニーの頭を掴み、腕ごと思い切りテーブルにその頭を何度となくたたきつけていた。男はすでに鼻を折られ、唇から血を垂れ流していて、額は割られて、腫れ上がった顔はデニーがどれほど長い時間過酷な拷問を受けていたのかを物語っている。

 すでに前歯は何本か折れているのだろう。

 感慨もなく瞼を閉ざしたミュラーはそうして扉の前を後にする。

 彼にとって容疑者が拷問を受けることなどどうでもいいことだった。

 マリーが親衛隊員を殺害したと聞かされたときは、少なからず動揺もしたが、結局彼女は自衛のために相手を手に掛けただけだった。その「結論」がどれほど身勝手なものであったとしても、彼にとってはそれで構わないことなのである。

 国家秘密警察(ゲシュタポ)とは”そういう”組織だ。

 社会の全てに平等な組織ではない。

 なによりも、マリーに殺された「あの男」は最初から「黒」だった。

 国家保安本部中央記録所に保管されたファイルには、男が不正に資金を横領していた事実があった。

 おそらくまだその背後には別の誰かがいるのだろうと推測される。

 しかしまだ逮捕する時期ではない。

 無表情のままフンと鼻を鳴らしたミュラーは片手で軽くネクタイを直しながら独白した。

「価値が違う」

 彼女――マリア・ハイドリヒと、アルバート・デニーでは価値が違う。

 何の価値なのかと問いかけられれば、ミュラーにとっての価値だ。

 少女の価値をミュラーはいつしか認めていた。

 それほどまでにハインリヒ・ミュラーの心の内で、マリーの存在が大きなウェイトを占めるようになりつつあったことに、彼は気がつき始めていた。

 ほんの一ヶ月ほど前に、ミュラーはシェレンベルクに言った。

 ――ほっとするのかもしれない、と。

 けれどもそれだけではないのだと、ようやく彼は認識した。

 残酷な程まっすぐに真実を映す鏡にも似たその瞳。ミュラーの警察官僚としての責務がマリーの透明な意識に共鳴している。

 人間に生きる価値の差異があるとするならば、人種や宗教の違いからではないのだろう。

 こつりとブーツの踵を鳴らしたミュラーはそうして地下から地上へと続く階段を上がっていった。

 沈殿し、停滞した国家保安本部という官僚機構の中で巻き起こる権力闘争を少女の存在がやがて収めつつある。権力を握ることなど大して意味を持っていないのだと、彼女の存在が男たちに認識させる。

 権力に対する渇望のない少女は、どろりと腐った空気をたゆたわせるプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセに小春日和のような新風を吹き込んだ。

 おそらく、国家保安本部の高官で一番最初に彼女に影響を受けていたのは自分に違いない。そう思ってミュラーは苦笑する。

 自分に娘がいれば、このくらいの年齢だったかもしれないと思わせる華奢な少女は、厳つくおもしろみに欠ける、ゲシュタポ長官に対して全く警戒心も抱かなかったどころか、恐怖の眼差しを向けることもしなかった。

 そんなマリーの瞳が、ミュラーの心をどれほど救っただろう。彼を恐れることをしない足の悪い少女。

 ハインリヒ・ミュラーがゲシュタポを束ねていると知った者は、私的な場合は距離を置こうとするか、公的な場合は媚びを売って彼の権力にすり寄ろうとした。

 全ての者を捕らえ、罰しようとしているわけではないというのに、ミュラーと私的に関わった者のほとんどが彼を恐怖して距離を取った。

 国家保安本部の中心。

 ゲシュタポという蜘蛛の網の中心でミュラーはただ孤独のままに心をやせ衰えさせて、やがて、任務と仕事の中で潰えるのだろうと思ってすらいたこと。そんなミュラーの目の前に現れた金色の髪の少女は、じっと彼を見つめて問いかけた。

「……おいしいですか?」

 なにがうまいのか、と思わず思ったがすぐに自分が食べているやや塩辛いベーコンスープのことだと合点がいった。

 少なくとも、彼が以前食べたときよりはずっと美味だった。

「うまいぞ」

 前の時はひどかったが。

 ぼそりと付け足したぶっきらぼうなハインリヒ・ミュラーの言葉に、しょんぼりと肩を落として落ち込んでしまった少女を思い出して、彼は思わずほほえんだ。

 ややしてから、ミュラーは思わず自分の口元を片手で覆う。

 こうして穏やかにほほえむことなどすっかり忘れていたというのに。

 長い間、残酷とも言える任務を推し進めてきたはずの彼の疲弊した心は少女の存在に穏やかなものを感じている。

 笑い方など忘れていた……――。

 スフィンクスと影で囁かれていることも知っていたが、それをあえて訂正することもせずに生きてきたミュラーは、自分が穏やかに笑ったことに驚いた。

「料理がへたなのも、かわいいもんだ……」

 再び笑ってから、ミュラーは自分の前から歩いてくるいまひとりの刑事局長に気がついて片手を上げた。

「ハイル・ヒトラー、ネーベ局長」

「ハイル・ヒトラー」

 それだけの簡単な挨拶を交わして、ミュラーとネーベは通り過ぎる。

 優秀なふたりの刑事局長に率いられたドイツ警察。その警察機構を中心に構成されている国家保安本部がたったひとりの少女の存在によって、かつての長官ラインハルト・ハイドリヒが統括していた頃よりも、その歯車がなめらかに動き出しはじめたことをまだ誰も知りはしない。


 その頃、国家保安本部に属する中央記録所では一般職員たちが途方に暮れていた。

 ――帰宅していい。

 そうは命じられたものの本当に帰宅してもいいのかわからない。そもそも就業時間中であって口頭の命令では従いようがなかった。

 中央記録所のメインオフィスにあるカードの山の中でマリーは椅子に腰掛けたままでじっと中空を見つめていた。睨み付ける、と言うほど殺伐とした空気もない。

 オフィスに通じる扉には警備員とゲシュタポの特殊工作員が監視をしていて、内部には一歩たりとも入れなかった。

 中にいるのは武装親衛隊出身のSDと、ふたりの補佐官。そしてマリア・ハイドリヒ親衛隊少佐だ。

 いったいなにを調査しているのか不安が募るばかりだ。

 ミュラーとネーベが挨拶を交わしてから一時間ほどたった頃、ヴァルター・シェレンベルクが到着し、現場の責任者である男から嘆願のように「中にこもりっきりになっているハイドリヒ少佐殿をなんとかしてください」と泣きつかれる羽目になった。

「……マリー」

 扉を開きオフィス内に歩を進めながらシェレンベルクが少女の名前を呼ぶと、数冊のファイルに目を通していたマリーはびっくりしたように目を上げた。

「シェレンベルク……」

「余り職員を困らせるんもんじゃない」

「帰っていいって言ったのに……」

 帰っていいと言った、という彼女の言葉にシェレンベルクは吐息をついた。

「規則でまだ帰れないし、やりかけた業務をそのままにして帰るわけにはいかんだろう。それこそ減俸ものだ」

 なにを調べている?

 そう告げたシェレンベルクにマリーは手の中のファイルを背後にいたハインツ・ヨストに手渡すと、上官にあたる青年を見上げるようにして椅子に座ったまま小首を傾げた。

「いろいろです」

「そういえばアルバート・デニーの逮捕に踏み切ったそうだが、役に立つんじゃなかったのか?」

 シェレンベルクが疑問に感じていたものを問うと、マリーはいつものように屈託のない表情で明るい笑みを浮かべると金色の長い髪を揺らして立ち上がる。

「もう、いらないの」

 ――もう、いらないの。

 必要ない。

 だから切り捨てた。

 その言葉に、シェレンベルクがかすかに眉をひそめると、そんな彼の表情の変化を知ってか知らずか大きく伸びをしてから、やはり調べ物をしているヴェルナー・ベストを振り返る。

「ベスト博士、終わります?」

「あぁ、あと少しだ」

 手早くざっとペンを走らせたベストが手帳を閉じたのを見届けて、マリーはオフィスの扉の内側を守っていたSDに頷いた。

「ごめんなさい、もう開けていいです」

「承知しました」

 マリーの許可を得て解放されたオフィスに人が戻ってくる。

「マリー」

「はい?」

「報告を忘れるな」

 シェレンベルクの言葉に少女は「はぁい」と言ってから笑って、それほど長身ではない青年に背伸びをしてから告げた。

「事実関係を調べたら報告します」

 まるでいたずらをこれからしようとでもしている子供のような無邪気な声に、シェレンベルクは腕を組むと、彼女の監視のためにつけたユストゥス・レンナルツを見やった。彼が頷いたことを確認してから視線を戻す。

「独断で動くと敵を作りやすいから気をつけろ」

「わかっているわ、心配性ね」

 小言のような言葉を少女に向けて、シェレンベルクら一行はそうして中央記録所を後にした。

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