1 死へいざなう鳥
シェレンベルクは余り機嫌が良くなかった。
もちろん自分の感情のコントロールする術は心得ているから、ことさらに感情的に振る舞ったりすることはない。それが彼がナチス親衛隊という組織で生き残るために習得した技術のひとつだった。
そんなヴァルター・シェレンベルクが不機嫌の理由。その原因は六局に名前を連ねる諜報部員のひとりが彼のもとに持ち込んだ情報による。
極めて重要な兵器開発部門の研究成果が、敵国に流出している可能性がある。
考えてみれば単純な話しだ。
九年前の一九三三年――ナチス党が政権を握り、ユダヤ人に対する迫害が始まって国外へと亡命することになったユダヤ系知識人は数知れない。その中に、一部ドイツ国内の極秘情報を握る者がいたとしてもおかしくはない。
亡命ユダヤ人たちが連合諸国へ働きかけたと考えれば……――。
至極まっとうな話しだ。
根拠がないわけではない。
人種だの、宗教だの、思想だの、という「問題」など些事でしかないことを、かつての上官であるハイドリヒ同様に感じているシェレンベルクは、デスクに着いたまま腕を組んでから小さくうなり声をあげた。
諜報活動というものは、常に相手の視点に立ち、希望的観測や予測などを一切排除して分析を立てなければ、見誤る可能性が多々ある。だからこそ、ヴァルター・シェレンベルクも他の諜報部員達と同じように、敵の立場で物事を考えた。
自分であれば、どうするか。
おそらく、アメリカ合衆国、及びイギリスなどの連合国は「それ」に対するなんらかの対抗策を立ててくるだろう。それが間に合うか間に合わないかはともかく。シェレンベルクの予測するところでは、ぎりぎりのところで間に合わせてくるに違いない。
限りなく試験運用に近いものであったとしても、である。
亡命ユダヤ系知識人たちの問題。
ユダヤ人が、世界を支配しようと企てている。
そんなサブカルチャーめいた思想をシェレンベルクは全く本気にはしていないが、それを都合良しとしたナチス党は体よく利用した。そして時間がたって、その嵐のように熱狂的な思想は一部の人間たちに支持されて今に至った。しかし、残念なことにドイツ第三帝国の秩序を取り締まる国家保安本部の一部の情報将校や、警察官たちはまともにそんな思想を信じてはいない。
それは亡きラインハルト・ハイドリヒ然り、ヴァルター・シェレンベルク然り。
社会階層の上流にいた一部の人間は、ドイツ国内の極秘情報に接していた者もある。そんなユダヤ系知識人たちの国外亡命を許すべきではなかった、とシェレンベルクは考えた。
たとえどんな強硬な手段に至ってでも、国外脱出を阻止するべきだったのだ……!
人道とはまた違った観点から、ヴァルター・シェレンベルクはそう観察する。彼は国家保安本部の活動が道徳的に許されない行為が含まれていることも知っている。
けれども。
戦争に「道」などない。
それをわかっているからこそ、シェレンベルクは冷徹に見えるほど心を凍らせた。
戦争という非人道的な行為に対して、正当性を主張するというのは愚かな行為だと彼は思う。一兵士ならばともかくとして、管理者にあたる人間に、言い逃れをする権利などあるわけもない。
戦争という行為の結果として、勝敗がついてくるだけでやっていることはどちらにしたところで、ただの「原始的」な殺し合いに過ぎないのである。
やっていることが同じであるならば、人道主義を気取ったところでどれだけの意味があるのだろうか。
人道も、人命も、人権も。
人としての尊厳の全てが踏みにじられる。
それが戦争である。
かつて存在したポーランド第二共和国、そして、フランスや、ロシア。イギリスも、アメリカにも。白人社会には、愚かしいほどに有色人種に対する差別を含めて、反ユダヤ主義が深く根付いているのだから。
椅子を小さく揺らしたシェレンベルクは、じっと目を細めてから考え込んだ。
問題、は……――。
そのアメリカ合衆国だ。
おそらく連合国の要請を受けてドイツの兵器開発計画の阻止、あるいは妨害工作。またあるいは対抗手段を立ててくるだろうことは容易に考えられた。
現在、国家保安本部による主導で、ドイツ第三帝国国家元首に対するテロリズムに対する報復攻撃の秘密作戦が展開中だが、その案件と今回の件は話しが別だ。
十中八九、情報が漏れていると考えて間違いない。
ならばどうするべきか。
シェレンベルクの予想するところ、対抗手段を打つことができるのはアメリカしかいない。ソビエト連邦では軍事クーデターが発生している状況で、ドイツとの戦争中だ。それほど大規模な研究計画を立てることは不可能だろう。一方でイギリスはドイツ海軍の潜水艦隊による海上封鎖作戦が功を奏しつつあり、疲弊しているため資金的な余裕はないだろう。
人的資源、資金力。そしてそれらを支える経済力などから試算して、アメリカ合衆国のみがドイツに対抗する国力を保有していた。
そうした状況に、さすがのシェレンベルクも表情が険しくならざるをえない。情報将校としてできることは、正しいデータをそろえるだけで、その事実は時として彼ら自身をもひどく不快にさせることになった。
「……核分裂反応、か」
シェレンベルクも博士号を持っているが、彼の専門は法律で、物理学ではない。物理学に至ってはごく一般的な知識しかなく、それほど熱心な興味があったわけでもない。
しかし、それが世界を左右するような事態に関係するとなれば話は別だ。
確か、現在、物理学者たちを中心として国を上げた爆弾の開発に取り組んでいるという噂は聞いていた。シェレンベルクの聞きかじった話しでは、相当厄介な爆弾であるらしい。
しかし、それをアメリカも開発しているだろうと考えると、想像だに恐ろしかった。
なんとしてでも、アメリカの計画を阻止しなければならない。
渋面を浮かべたままでシェレンベルクは腕を組み直すと、核爆弾開発計画の研究に携わっている物理学者たちの顔を思い浮かべた。
情報収集のために念のため科学者たちの講演に同席したのだが、政府高官たちの反応はいまひとつといったものだったことを覚えている。中でも、科学者たちの言葉を熱心に聞き入っていたのは軍需大臣のアルベルト・シュペーアで、彼がその講演会をお膳立てしたのであると、後になってからシェレンベルクは耳にした。
自分のもとに届く大量の情報に埋没しながら、シェレンベルクはその中にある真実を探し出していく。もちろんそれは彼だけの仕事ではない。
物理学者との話などにマリーが興味を示すだろうか、などとちらりと考えてからシェレンベルクは軽く左右にかぶりを振ってから窓の外に視線をやった。
親衛隊全国指導者個人幕僚本部でマリーが倒れてから三日が経過した。
すでにマリーは退院して自宅に戻っているが、病み上がりのため、まだ二日ほど非番となっている。
一度は、ラインハルト・ハイドリヒの強力なリーダーシップを失ってばらばらになりかけたナチス親衛隊という組織をつなぎ合わせた接着剤のような作用をする少女は、連日ベルリンを飛び回っていたことによって体力をひどく消耗して高熱を出した。
彼女の父親ほども年齢の違うふたりの刑事局長――ハインリヒ・ミュラーとアルトゥール・ネーベはその報告にひどく驚いた様子だった。
そんなマリーは今は自宅で休養をとっているはずだが、どうしているだろう。
シェレンベルクはふと彼女のことを考えてから、意識を現実に引き戻した。当面の問題はマリーのことではない。
アメリカとイギリスに流出しているだろう、原子力関連の研究成果についてのことだ。
*
昼下がり。
ベルリン郊外にある花の家を訪れたひとりの若い将校がいた。相変わらず掘っ立て小屋のようなマリーの自宅の扉は、大の男が蹴り飛ばせば簡単に破れそうな頼りのない作りである。
ハインリヒ・ヒムラーの私設警察部隊――国家保安本部、国外諜報局特別保安諜報部。その活躍は、国防軍の反ヒトラー勢力をも震撼させた。
自分たちの敵となるのではないか。
ヒトラーの親衛隊であり、ヒムラーの私設警察部隊。
それが国防軍の反ヒトラー勢力を構成する男たちにとってどういう意味を持つのか、彼らは実に正しく理解している。
小さな花壇には花が植えられており、柵に取り付けられた木戸はやはり小さく頼りなくて成人男性なら跨いで通り過ぎてしまえそうな出来だ。要するに、侵入しようと思えば誰でも入れるような、そんな家。
クラウス・フォン・シュタウフェンベルクは首を伸ばして掘っ立て小屋のような家を伺った。
そんな彼の視界に入ってきたのは、窓の下の壁に足を伸ばしたまま座り込んで、寄りかかるようにして穏やかな日差しを受けて眠る金髪の少女だ。
片手にシャベルを持っていて、頬は土がこびりついていてわずかに汚れている。長い金髪はストレートで、それを束ねて作業の邪魔にならないようにしているが、今は眠っているのでそれもあまり大した意味はないようだった。
花壇の手入れをしていたのだろう。
「こんにちは、お嬢さん?」
この家の子供だろうか。
シュタウフェンベルクはそう思った。
「……こんにちは?」
男の声にぼんやりと目を開いた少女は、土くれのついた手の甲で目を擦ろうとしたものだから、思わず彼はその手首を引き留めた。
「いけない。そんな手で目をこすっては、目の病気になるだろう」
「……?」
聞き慣れない男の声にマリーは小首を傾げて目の前の男をじっと見つめた。
どちらさまかしら、と言いたげな彼女の瞳の青さにシュタウフェンベルクはかすかに笑ってから口元をゆるめる。
「国防軍のかた?」
「ここの家の子か?」
「……そうですけど」
ナチス親衛隊の制服ではないということが少女にもわかったらしい。青年の制服を確認してから彼女はもう一度首を傾げると、片手に握っていたシャベルを地面の上に置いてから立ち上がる。
「この家は親衛隊員の家だと聞いていたが、お父さんかお兄さんでもいるのかな? フロイライン」
「いいえ、わたしだけです」
どうぞ、と言いながら歩きだした少女は、まだ少しだけ寝ぼけてでもいるのか、よろめくとそのまま壁に寄りかかる。
「……大丈夫か?」
「大丈夫です、ちょっとふらふらしてしまいました」
にこりと笑った彼女は警戒心もなく男を家の中に招き入れると、髪を束ねていたスカーフをほどいた。
余り贅沢ではないスツールの上や、テーブルの上にはいくつかの写真立てが置かれていて、少女と共に年上の男性が写りこんでいた。
その男たち。
彼らにクラウス・フォン・シュタウフェンベルクは見覚えがあった。
国家保安本部の高官や、中には国防軍情報部の士官も写りこんでいるものがある。ひときわ目を引いたのが、大柄な男で、すぐにその正体に思い至る。
オーストリアの親衛隊及び警察高級指導者のエルンスト・カルテンブルンナー親衛隊中将。目下、国家保安本部の新しい長官として任命されるのではないかと憶測が飛び交う男だった。
シュタウフェンベルクがそれらの写真の前を通り過ぎながら注意深く観察すると、写真の中の少女が黒い腕章をつけていることに気がついた。
菱形の袖章はSD章であることがすぐにわかった。
問題はもうひとつ。
本来、制服の袖口につけられるカフタイトル。
白黒の写真ではわかりづらいが、四文字のアルファベットが描かれていて、その文字の形から彼にはそのカフタイトルがなにを示すものなのかすぐさま察する。
RFSS――親衛隊全国指導者個人幕僚本部。
つまり、そういうことだ。
「お茶をいれてきますね」
まるで小鳥を思わせる金髪碧眼の少女はひらりと体を翻すと、隣室の台所へと消えていく。
警戒心などどこ吹く風だ。
彼女が台所へ行っている間に写真立てを眺めるクラウス・フォン・シュタウフェンベルクは、歩幅の狭い足音に気がついて振り返る。
「国家保安本部の方がとってくださったんです」
「……ほう」
国家保安本部の職員が撮影した写真。
告げられた言葉に男は困惑した。写真を観察して、なにから聞けばいいのかわからなくなった。
おそらく聞くまでもなく「そういうこと」で、彼女が問題のヒムラーの私設警察部隊を指揮する人間なのだろう。そうでなければ、国家保安本部の高官たちと黒い腕章をつけた少女が共に写りこむ写真などあるわけがない。
堅物のヴェルナー・ベストや、ハインツ・ヨストなどの高級指導者と共に映る写真もあった。
「……君は、見知らぬ人間を自宅に招いて不安は感じないのか?」
「だって、国防軍の将校の方でしょう? どうして不安を感じなければならないんですか?」
ぽかんとしてシュタウフェンベルクを見上げた少女は、数秒してからにこりと笑うと、手にしていた盆をローテーブルに運んでから彼にソファを薦めた。
「どうぞ」
彼女のこの反応に、ぽかんとするのは今度はシュタウフェンベルクのほうだ。
――うちにはよくいろんな方が来るんですよ。
続けて彼女はそう告げた。
金色の髪の印象的な、青い瞳の痩せすぎの少女。
彼女は生成りのスカーフを鷲章のスカーフピンで留めており、そのときになってはじめてクラウス・フォン・シュタウフェンベルクは少女の指に髑髏リングがはめられていることに気がついた。
彼女は確かに、ナチス親衛隊の一員なのだ。
「ハイドリヒ親衛隊少佐というのは、まさか……」
「はい、わたしですが。なにか?」
どこか呆然としたシュタウフェンベルクの言葉にマリーが長い睫毛を瞬かせてから、男を男を見上げる。彼女のその瞳に。
唐突すぎる国家保安本部、国外諜報局特別保安諜報部長ハイドリヒ親衛隊少佐との邂逅は、大いにシュタウフェンベルクを困惑させることになるのだった。
まさか、こんなに儚げな少女だとは思わなかったのだから。




