13 身代わり
小さな体で一ヶ月もの間、ドイツ中を飛び回っていたわけだから、ひどく体力を消耗して倒れるのも道理だった。親衛隊全国指導者個人幕僚本部で高熱を出して昏倒したマリーはそのまま親衛隊衛生本部管理課の総合病院へと移された。
大袈裟なことこの上ないが、と思うのは親衛隊所属の医師のひとり。ヴェルナー・ハーゼ親衛隊少佐だ。
たまたま出向していたところに見かけたことのある少女が運ばれてきてひどく驚いた。外見的な印象と言えば、骨と皮ばかりのやせすぎで、どういう成長の仕方をすればそんなにも貧弱な体系になるのか不思議に感じるほどだ。
「……熱発しているだけで、炎症反応は正常、か」
典型的な過労の症状だ。
体温計を強く振って水銀をおろしてから、ノックの音と共に入室してきたのは血圧計と看護記録の挟まったファイルを抱えている看護婦で、ハーゼは彼女に視線をやってから聴診器をポケットに戻す。
「あら、ハーゼ先生。いたんですか?」
少しばかり驚いた彼女の声に、ヴェルナー・ハーゼは肩をすくめると、オーバーテーブルの上に開いた診療記録にペンを走らせる。
「バイタルは?」
「少し脈拍が早いですけど、状態は落ち着いていますね」
どうぞ、と続けながら看護婦が差しだした看護記録に、医師は素早く視線をやった。
「血圧は九二の六一か。このくらいの歳の女の子なら、まぁこんなもんだろうな」
採血結果は、彼女が少々貧血気味であることを示しているが、二ヶ月前に入院していた時の他院の診療記録と照らし合わせるとそれほど変動は見られない。医師として気にかからないわけではないが、彼女くらいの年齢の少女であれば珍しいほどでもない。
「先生、この子の主治医でしたっけ?」
物怖じしない看護婦にハーゼは記録を終えてからカルテを閉じると、親衛隊の制服の胸ポケットにペンを差した。
「ちょうどオペが入ったらしくてな。たまたま手が空いていたから代打だよ」
「そうなんですか、お疲れ様です」
少女の病室を出ると、親衛隊の制服の上に来ていた白衣を脱いでカルテと共に背後に立っている看護婦に手渡してから口を開く。
「カルテを見ればわかると思うが、もしも不明なことがあればいつでも電話をくれと伝えておいてくれないか」
「わかりました」
そうして踵を返しかけて、ハーゼは「それと」と言いながら足を止める。
「カルテに書いてあるが、新しい指示を出してあるから受けておいてくれ」
「はい」
カルテをめくりながら看護婦は小首を傾げると、親衛隊医師を呼び止めた。
「でも、先生。いいんですか?」
「うん?」
「主治医の指示を勝手に切ったりして」
「炎症反応を見ればわかるだろう、無駄な薬なんぞ打たないでいい」
「はい、わかりました」
検査値を見直した彼女は独り言のように「そうね」とつぶやいてから看護ステーションに向かって歩きだす。
マリーの診察を終えて、自分の勤務する病院に戻ったヴェルナー・ハーゼはひととおりのその日の業務を済ませると医局の電話の受話器を手に取った。
普段は国防軍とも親衛隊とも関わりのない民間病院に勤務するハーゼは、総統アドルフ・ヒトラーの特別なはからいで強制収容所の診察や、あるいは「選別」といった行為には関わらないでいることができた。
「どうも、親衛隊医のヴェルナー・ハーゼです。中将閣下」
電話口で名乗ったハーゼは二言三言、他愛のない雑談を交わしてからかすかに眉間を寄せると受話器を持っていない方の手で首の後ろを撫でる。
「ハイドリヒ親衛隊少佐の容態のことでお話しが」
そう切り出したハーゼに、国家保安本部長官代理のブルーノ・シュトレッケンバッハ親衛隊中将は「そんなに重病なのか」と問いかけた。そんなシュトレッケンバッハに「いえ」と応じてハーゼは息を吐く。
「病的な所見はありません。あの年代の少女らしく至って健康そのものですが、なにぶんあの体格ですから、活動量が肉体的なキャパシティを越えたのでしょう。もう少し仕事量を減らしていただいた方がよろしいかとは思いますが、いかがでしょう」
国家保安本部に勤務する役職者は一様に多忙極まりない。彼女の仕事量を減らすというのはどだい無理な要求なのかもしれない。
ハーゼはそう思った。
「えぇ、簡単に申し上げますと、そうですね……。幼児期によく見られる知恵熱みたいなものです」
ハーゼの単純な説明に電話の向こうでシュトレッケンバッハが盛大にあきれかえった。
「仕方がありません。男女の性別の差はともかく十六歳と言ったらまだまだ成長段階です。体力の盛りはもう少し先ですよ」
苦笑しながらハーゼは一通りシュトレッケンバッハに説明すると受話器を置いた。
早い女性ならば十代半ばほどで結婚することもあるが、医師のひとりとしてヴェルナー・ハーゼは結婚年齢が早すぎることについては余り賛成できない。
特に女性が成長期を終えるのは二十歳前後だと彼は考える。若年齢で妊娠や性交渉を経験するということはそれだけで女性たち――少女たちの肉体に負担をかけるだろう。
いずれにしろ、成長段階にある少女の体力と、成人男性の体力では雲泥の差だ。
彼女の仕事量をシュトレッケンバッハから聞いて、マリーが倒れた原因に合点がいった。毎日のようにベルリンを飛び回っていれば体力も限界のはずだ。
その少女。
マリア・ハイドリヒの言葉をハーゼは不意に思い出す。
総統のすぐ近くに裏切り者がいる。彼女は「彼」に告げた言葉の真意はどこにあるのだろう。
医師である自分に言ったということは何らかの意味があるに違いない。
ヴェルナー・ハーゼは先刻まで国家保安本部とつながっていた電話を見つめて思考に沈んだ。
*
夢を見る。
少女は夢の意識の淵で、揺らぐようにまどろみながら重く感じる腕を上げる。
自分の精神と、自分の肉体のバランスがまだうまく保てない。
まだ自分をうまくコントロールできない。それが今のマリーにはひどく負担になった。
人の気配を感じて薄く目を開いた少女は、そこに誰もいないことにかすかに笑う。その気配はふたり。
見えはしないけれど、そこに立っているのがわかった。
金色の長い髪の、自分と同じ姿の少女と、長身の金髪の男。彼らは「マリア」と同じ青い瞳で彼女を見つめている。
「……わたしの存在が、世界に波紋を描き出すために必要なら、わたしは生きてみせるわ。ライニ」
自分の魂が。
自分の存在が。
高みへ昇るために彼が用意したものであるならば、それ相応に生きてみせる。
肉体とは所詮魂が納められる器に過ぎない。
――容れ物。
そして魂とは、本来であれば分化し、散逸していくもの。「自分」という「魂」はやがてばらばらになって消失していく程度のものに過ぎない。「個」とはたったそれだけの存在だ。けれども「彼」は強い意志によって「個」の散逸を頑なに拒み続けた。
時を経て。
時代を超えて。
高みへと上り詰めた純粋な魂を。自らの意志で喚び戻すために全ての運命を手中にする。純粋な”生き物”は彼の死後に、そうして完成した。
それはまるでクリスタルで作られた彫像のように狂ったこの世界へ存在する。
今度こそ、方法を間違えたりはしない。全てを支配するのは彼の回す運命の車輪の指し示すままに進められる。
誰の手によってでもなく、「彼」自身が運命を紡ぐ。
――わたしの運命も、他人の運命も。
そして世界の命運も。
全てを彼が望むままに決定づけられる。
「わたしはここよ……」
わたしはここにいるわ。
彼の欲望のための手段として自分が生まれた。
彼は以前、方法を誤ったから負けたのだ。
ならば成功させるためには、方法を変えなければならない。全ての自分を捨て去って一から組み直す。
核になる「彼」が存在しているならば、ほかのものの全てが変化しても構わない。それが「自分」の欲望の達成につながるのであれば、自分の存在など些事でしかないのである。
残酷なほど、冷徹にラインハルト・ハイドリヒはその「変化」を選択した。
「……それが、マリア」
全てを破壊して、その上に新たに創造された存在。
「どうせ、これは夢だ……」
男の声が頭の中で響いてマリアの意識は墜落していく。
夢など目を醒ませば忘れてしまう程度のもので、記憶にはほとんど残らない。
「ライニ……」
その言葉は声になったのか、なっていないのかマリー自身にも把握できていないまま暗がりへと失墜していく。
誰かのためではない。
ドイツのためでもない。
ただひたすらに、自分の飽くなき欲のために、ラインハルト・ハイドリヒが作り出した「作り物」が、自分だと「マリア」は自覚していた。
そして、そのために「彼」は全てを叩き壊した。
いっそ潔いとすら思えるほど、まっすぐに。
そうしてどれほどたってからかマリーは目を醒ました。窓が開かれているのだろうか、穏やかな風が心地よくて少女はそよぐ風に吹かれるままにまどろみの中にたゆたっている。ややしてから自分の手のひらをつつんだ大きな手に気がついて少女が瞼をあげると、そこには少しばかり垂れ目の穏やかな表情をたたえた男がベッドサイドに座っている。
「……ネーベ局長」
「おとといは、君の家を訪ねようと思っていたら、親衛隊長官の個人幕僚本部で倒れたと聞いたから随分心配したのだよ」
「ごめんなさい」
「シュトレッケンバッハ長官代理から聞いたところによると過労だそうだが、余り根を詰めてはいけないとベスト中将に言われなかったかね?」
ネーベの言葉は問い詰めるつもりはないのだろうが、ついきつくなってしまうのは心配しすぎたせいだ。
「もう少し寝ていなさい」
聞き分けのない子供を寝かしつけるように、金色の頭を撫でたネーベはマリーが目を醒ましたことに安堵したようだ。眉尻を下げて柔らかくほほえんでいる。
見る者がいれば、まるで娘に対してほほえみかけているようにも見える。そんな優しさに満ちた笑みだった。
「お水……」
掠れた声で水を飲みたいと訴えるマリーに、ネーベは優しく口元を緩めてからサイドテーブルの上に置かれた水差しを手に取った。ガラスのコップに水を注いでやると、レモン果汁をわずかに足した水からさわやかな香りが病室内へと広がっていく。
上半身を起こした少女を支えてやりながら、水を飲むのを見守っているアルトゥール・ネーベは、コップが空になったのを確認してからベッドに横たえてやった。
「夢を、見たんです」
「どんな夢かな?」
「……覚えていません。でも、その夢に出てきた人は、とても強くて、自分が望むもののためなら何もかもを犠牲にできる強い人で、わたしは……」
強い心と、強い肉体を持った男。
彼に憧れる。
「強くなりたい……」
マリーは呟くようにそう言うと、そうして眠りの水底へと連れ去られていった。




