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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
VI ドッペルゲンガー
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12 月の子

 ヒムラーは「彼女」を恐れていた。

 本来、国家保安本部の高官たちのような徹底した現実主義者たちであれば、一笑に付すような取るに足らない妄言として処理することができる問題でも、ヒムラーにはそうした現実感だけでは始末をすることができなかった。

 一機関の最高指導者としてハインリヒ・ヒムラーには、残念なことにそうした現実感が少々欠如している。だからこそ、彼の周囲を固める高官たちは常にヒムラーの思考がそうした傾向に偏りすぎているときは、うまく微調整をしてやり軌道修正しなければならない。

 そんな部下たちの苦労を当のヒムラーが気がついていないのは全くはた迷惑なこととも言えるだろう。彼のオカルト信仰についてはヒムラーの直属にあたる高官たちにとっては頭痛の種だった。周囲からのヒムラーに対する評価はともかくとして、彼がその強大な一大組織を作り上げたことは紛れもない現実だ。

 そんなハインリヒ・ヒムラーは確かにマリーを恐れている。理論でも理屈でもなく、本能で彼は彼女が恐ろしかった。

 まるで、とヒムラーは思う。

 ラインハルト・ハイドリヒのようだ。

 もしくはハイドリヒの精神が、少女に乗り移ったのではないかとすら思わせる。

 十六歳のマリーと、二ヶ月前に死んだラインハルト・ハイドリヒに記録上は遠縁の親戚という以外の接点はないというのに。

 マリーの底知れない青い瞳が亡くした知己を思わせて、ヒムラーを恐怖にたたき落とす。

 ――俺は、ここにいる、と。

「……わたしは」

 やっと自由になれたと思ったのに。

 けれども、ヒムラーにはハイドリヒを恐れていながら、冷徹な右腕とも呼べる男の存在が必要だった。

 自分にはとても選択できない決定を選択し、実行に移す男がヒムラーにとって必要不可欠だったこと。強い決断力で、ヒムラーの背中を押す年下の友人。

 そして、ヒムラーが最も恐れ、同時に最も頼った戦友。

 ラインハルト・ハイドリヒが死んだ時、目の前が真っ暗になって何も考えられなくなった。彼ほど強靱な精神を持つ男をヒムラーは知らない。

 だというのに、心ない人間たちはいるもので、ハイドリヒの存在が邪魔だったヒムラーが、自らの侍医を使って彼を暗殺したのではないのかと陰口をたたく。

 そんなことを誰がするものか……!

 ハインリヒ・ヒムラーが最も頼った力強い友人を手に掛けるなど、考えるだけでもぞっとする。

「わたしは、君を信じていいのかね?」

 誰に告でもなくつぶやいたヒムラーはそうしてデスクに肘をついたまま、両手で顔を覆った。

 彼と比べれば、自分など小さな存在だ。小心者で意志決定力に欠ける。そんなことは他人に言われなくてもわかっていることだ。けれど、どんなにハイドリヒに憧れを抱いても自分はハインリヒ・ヒムラーであって、彼のように変わることなどできはしない。

 ハイドリヒに対する複雑な思いを抱えたまま、今度こそ自分の支配下に国家保安本部を置こうとしていたヒムラーの前に現れたひとりの少女。

 静寂をたたえた湖面は鏡のように嵐を知らない。マリーの瞳に感じたのはハインリヒ・ヒムラーが望み求めたしなやかな強さだ。

 何にも揺らぐことのない、ラインハルト・ハイドリヒの持っていたものと同様の絶対的な強靱。

「わたしはなにもいらないの。自分のこれ以上の権力も、強い体も。わたしはただ、この世界を自由に動く権利がほしいだけ。ヒムラー長官なら、わたしに絶対の権利を与えられる」

 権力とは言わずに、権利と彼女は告げた。

 つまるところ、彼女はナチス親衛隊の中で高級指導者に上り詰めたいとか、国家保安本部の頂点に君臨したいとか、そんなことを思っているわけではないということ。

「君はわたしを脅迫でもするつもりなのか?」

「……必要であれば」

 言葉を一旦切ってさらに続ける。

「切り札を切ってもよろしいんですよ?」

 取り引きのためのカードを切っても良いと、少女は真顔で言った。

「……取り引き?」

「政治家に腐敗はつきもの。ひとつの綻びが、長官の一生を台無しにするのかもしれませんね」

 クスクスと少女は笑う。

 彼女の言葉にヒムラーはぞっとした。

「君は、わたしがボルマンに……」

「しー……っ」

 マリーは目を細めるとにこりと笑う。

「安易に口を滑らせるのは、長官の悪い癖です。”他の誰か”に聞かれたら、政治家生命に関わりますよ?」

 確かに彼女は知っているのだと宣告する。

 ぎくりと肩を揺らしたヒムラーにマリーは天真爛漫な笑顔で唇の前に人差し指をたてた。

 政治家として危機感に欠ける。

 マリーの言外の台詞に、ヒムラーはそれこそ言葉を失った。

「わたしは、君を信じても良いのかね?」

 問いかけた彼に少女が笑う。

 花が開くように。

「もちろん」

 思い出すだけでもぞっとした。

 ――ヒムラーの(ヒムラー・)頭脳(ヒルン・)すなわち(ハイスト・)ハイドリッヒ(ハイドリッヒ)

 その言葉は、正しくない。

 ハイドリヒという男は、ヒムラーの頭脳であったが、手足そのものでもある。

 ヒムラーの提案を最も効率良く実行するためにラインハルト・ハイドリヒは行動した。

 ――長官は、生まれ変わりというものを信じますか?

 不意に、ハインリヒ・ヒムラーの脳裏に現在の国家保安本部で一番に頭の切れる青年の声が蘇った。外聞を気にしてそのときは、シェレンベルクに対して「どうしてそのようなことを聞くのか」と問い返した。

 冷静に判断すれば実に荒唐無稽で稚拙な考えだが、ヒムラーだからこそこう判断を下す。

「……君か、ラインハルト」

 姿も形も変えて、彼が再びドイツに戻ってきたのだ、と。ハインリヒ・ヒムラーはそう結論づけた。

 マリーの双眸に既視感を感じたのはハイドリヒが持っていた瞳だったからだ。性別も年齢も、全てが違うというのに、その瞳だけがまるで移植でもしたように同じものだった。

「君はわたしの右腕として戻ってきたのか……」

 そう考えれば全てに納得がいく。

 彼女が国家保安本部に関わる秘密も、政府高官たちの秘密も知っていたことが。

 マリーが、ラインハルト・ハイドリヒなのだから。

 二ヶ月の時間を経て、ヒムラーが勝手に出した結論は妄言に限りなく近しいが、実のところ誰よりも真実に近い結論だった。それは、ヒムラー自身も、そしてヒムラーの言葉を聞かされることはない部下たちも、知りはしない。

 当たり前だ。

 そんな話しをしたところで誰も信じないばかりか、侮蔑の対象になるだけだということをさすがのヒムラーもわかっている。

「……わたしは信じよう。誰も、信じないだろうが」

 ヒムラーはそうして一度だけ目を閉じてから、瞼を上げた。

 右腕とも呼べる男が帰ってきたのなら、迷う理由はどこにあるというのだろう。理由はともかく、「彼女」が自由を求め、望むなら自分はそれを最大限に後押ししてやるだけのことだ。

 マリーがラインハルト・ハイドリヒならば、彼女の行動は行く行くは、ナチス親衛隊(SS)の利益に繋がっていくだろう。

 そんなことを執務室でただひたすらひとりで考えていたヒムラーは、デスクの上の内線電話がジャーンと上がった音に驚きの余り両肩を揺らす。

「わたしだ」

 ヒムラーが内心を取り繕うように告げると、電話の相手は親衛隊全国指導者個人幕僚本部長官のカール・ヴォルフだった。

「……そうか、わかった」

 短い言葉でヴォルフの報告を処理すると、彼は長い溜め息をついてから椅子に座り直す。

 彼女と面会してから、背中を向けて歩きだしたヒムラーとヴォルフの背後でマリーが倒れたのだ。

 ひどい高熱で、すぐさま軍医のもとに運ばれた。

 風邪か感染症か、それとももっと重大な病気なのかとヒムラーが気遣ったが、医師の診察によると過労のために高熱をだしたようだ。

 確かに、彼女は自分の部署である特別保安諜報部を持って以来、ほとんど休みなくベルリン中ばかりではなくドイツ国内を飛んで歩いている。彼女が接触した高官たちから話しを聞く限り、話しをしているのはもっぱら彼女の補佐官であるヴェルナー・ベスト親衛隊中将であったり、ハインツ・ヨスト親衛隊少将であったりする。

 時折、世間話でもするように少女も会話に参加することはあるが、それほど多弁なわけではない。

 マリーがよく言葉を交わす相手は、国家保安本部内ですら限られているのだから。

 シェレンベルクやオーレンドルフ。ネーベやミュラー、そしてシュトレッケンバッハなどの局長級の人間たちが主なマリーの雑談相手だ。しかし、彼女は高官たちと話しをしているというのに、実に屈託がなく無邪気で他意がない。

 まるで花の家ハウス・デア・ブルーメンで、彼らを出迎えたときと同じように、彼女は彼らの権力に対して興味をまるで示さない。そして、そんな彼女の権力への無欲さが国家保安本部の高官たちには心地よくて、つい彼女の話に耳を傾けてしまうのだ。

「過労ならば、つれて帰ります」

 ナウヨックスは自分の目の前の軍医にそう言って眉をひそめる。

「本官の上官でありますし、ベスト中将閣下やヨスト少将閣下の判断を仰がなければなりませんので」

「しかし賛成できませんな」

「過労で熱を出しているだけなら、動かしても問題はないかと思われます」

 ナウヨックスの言葉に、軍医中尉は鼻から息を抜くと肩をすくめる。

「一度、君の上官に連絡をとってみてはどうかね? ただの過労だろうがあの状態で動かすのは余り賛成できんな」

 ちらと電話を見やった軍医に、ナウヨックスは逡巡する。

 軍医がこう言う以上はやはり動かさないほうがいいのだろうか。

 だが、彼女をよくわからない親衛隊全国指導者個人幕僚本部などに置いて帰るのは、ベストやヨストから不興を買いそうでもある。

 どうするべきかと悩む彼の前に、カール・ヴォルフが姿を現した。

「ナウヨックス少尉、貴官の心配もわからんでもないが、国家保安本部長官代理にはわたしから連絡をいれた。念のため、数日、入院させて体力が戻り次第プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセに戻す、ということで話はついた。後はこちらで全て手配するから心配せずに帰りたまえ」

 親衛隊大将カール・ヴォルフにこう言われてしまったら、ただの親衛隊少尉でしかないナウヨックスは引き下がる他はない。

 「承知いたしました(ヤヴォール)」と踵を打ち合わせたアルフレート・ナウヨックスは医務室を出ながら溜め息をついた。

 国家保安本部長官代理――人事局長ブルーノ・シュトレッケンバッハ親衛隊中将に、カール・ヴォルフが連絡を取ったとなれば、子細はシュトレッケンバッハから国外諜報局長ヴァルター・シェレンベルクへ、そうして問題の特別保安諜報部補佐官を務めるふたりの高級指導者のもとに届くだろう。

 体調がおもわしくなかったらしい彼女に気がつくべきだったのかと悩むが、もっぱら国家保安本部において腕力を提供する側であるナウヨックスが気がつくわけもない。観察力に優れたインテリたちと違うのだ。

 怒られるかな、と考えてから彼はブーツの踵を鳴らすと制服のポケットに放り込んだベンツのキーを探って目を細めた。

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