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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
VI ドッペルゲンガー
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11 秘密の花園

 今さら誰に許しを請うことができるのだろう。許されるわけもない。彼らは、そうして自らの下した命令によって数万人に及ぶ人間たちの生命(いのち)を刈り取った。

 人間の命は。

 動物の命は、いとも簡単に「止められ」る。

 アルトゥール・ネーベは自分の執務机に着いたまま、夕暮れに染まっていく空を、眺めるともなく眺めていた。

 警察官僚として、戦わなければならない相手を。

 守らなければならない相手を。

 自分はどこかで取り違えてしまった。

 国家保安本部(RSHA)長官、ラインハルト・ハイドリヒの命令だから言葉を飲み込んで従ったのか?

 答えは「(ナイン)」だ。

 苦々しく思いながらも、出世欲と名誉欲、そして保身に目が眩んだ。

 拒絶する権利も、意見する権力も持ちながら、自らが残酷な任務を選択したこと。国家保安本部長官の命令であるからと、自分に言い訳をして、自分に課せられた責任から目をそらし続けた。

 軽く椅子を揺らしたネーベは目を閉じる。

 誰もがそうだ。自分の責任ではなく、命令だからと言い逃れをしている。

 そして、それはアルトゥール・ネーベ自身も同じ。

 誰も彼も、自分の責任から目をそらしている。それは国家保安本部などという小さな組織だけではない。ドイツという国だけでもない。世界中のどれだけの人間が、真剣にユダヤ人を救おうとしているというのか。

 誰が本気で手を差し伸べようとしているというのか。

 白人社会に深く根を下ろした、たとえるならば疫病のような反ユダヤ思想はたまたまドイツ第三帝国のナチス政権によって、人為的に爆発させられたにすぎない。

 千年以上の長い時間を掛けて、ヨーロッパ全土にはびこった思想を払拭することなど不可能だ。

 ――人の生命(いのち)とは、貴賤(きせん)の別も、人種も、幼児も老人も。等しく同じはず。それを”我々”は見誤った。

 自分が白人であるということに対してアイデンティティを持つことと、その生命の重さに差異があることを認識することとはまた違う。

 閉ざしていた瞼をわずかに上げて、ネーベは小首を傾げた。

 ラインハルト・ハイドリヒには、それが「わかって」いた?

 口の中でつぶやいて、警察官僚らしくネーベは鋭い光を瞳にたたえる。

 残酷なほど、アンフェアになることができるあの男は、自分などよりも地位の高い人間をも平然と陥れることができた。

 彼の標的になったが最後、逃げることなどできはしない。

 宗教も人種も、大して意味など持っていないことを、おそらくハイドリヒは知っていたのだろう。重要なことは被差別民がいるということなのだ。極論を言えば「誰が」差別を受け、迫害されなければならないのか、ということは二次的な問題でしかない。

 戦時下において、迫害の対象を用意して国民のフラストレーションの捌け口にすることはよくある手口だ。歴史を後から眺める者はなにかにつけて、善だの悪だのという感情論で物事を割り切ろうとするが、事態はそれほど単純に割り切れるものではない。

 戦争に善も悪も必要ないのだ。

 それが現在のドイツにおいては、たまたまロマニーやスラブ人、あるいはユダヤ人たちなどが選択されただけのこと。

 単純に理由付けが面倒臭くなく、好都合だっただけのことだ。

 たったそれだけ。

 そこまで考えてから、ネーベはマリーの笑顔を思い浮かべた。不思議なもので彼女には敵意がない。そして、憎悪も、嫌悪もその感情の中には一切見られないこと。さらに不気味なのはマリーが不穏な言葉を吐いたりしないことだ。

 彼女の年齢にありがちな、死ぬとか、戦うとか、そういった言葉を口にしない。人の命を決定する言葉を口にしないのはどうしてだろう。

 けれども時に告げられる間接的な比喩は、その意味をおそらくわかっているだろうと言うことが推察された。

 (いびつ)な形にゆがんでいても尚、人を惹きつけるカリスマ性に誰もが捕らわれる。そこに蜘蛛の網が張り巡らされていることをわかっていて踏み込まずにはいられない。

 そんな気にさせられる。

「……完敗だ」

 苦笑したネーベは独白すると目を開く。

 彼女(マリー)に完敗した。

 誇り高きドイツ民族の騎士として、罠が仕掛けられているならばあえて踏み込もうではないか。

 マリーのまっすぐな青い瞳で見つめられるのは不快ではない。

 社会経験を積み、その過程ですり切れたネーベが知らずに捕らわれた青い瞳。

 敵意も、醜い権力への執着もない無欲な蝶は、ひらひらと自由に宙を舞う。

 喉の奥で低く笑った男はそれから立ち上がると意識を切り替えた。

 強い光を取り戻したネーベの瞳はかつて、アインザッツグルッペンを率いる前のもの。ひとりの警察官僚として腹をくくったならば、後は迷いなど必要ない。ただ、前を見つめて進むだけだ。

 ドイツを守る警察官として。

 アドルフ・ヒトラーを守るのではない。

 ドイツの警察として、ドイツを守る。アインザッツグルッペンの指揮官として痛めた彼の心に泣くことを許したのは果たして天使か悪魔か。

 けれども、そんなことはどうでもいい。

 ドイツのためであれば悪魔にも魂を売ってみせる。

「シェレンベルク大佐も、不思議な娘をひろったものだな」

 国家保安本部で一、二を争う切れ者であるシェレンベルクがなにを考えているのか、ネーベにはさっぱり理解できないが、彼は彼で展望があるのだろう。

 身寄りのない少女を拾ったかと思えば、いつの間にかそんな彼女が国家保安本部に所属していた。

 マリーの花の家に出入りしていたときは、彼女が国家保安本部に所属することになろうとは思わなかったが、実際に少女の仕事ぶりを見ていると、実に情報将校向けの人間だ。

 体力がないことと、運動能力が壊滅的なのは問題ではあるが。

 くつくつと笑ったネーベは、その日の業務を終了させてデスクの中央に放り出された万年筆を取ると制服の内ポケットにしまい込む。

 たまには、手土産でも持って彼女の自宅に向かうのも悪くはない。

 柔らかく微笑したネーベは、プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセを後にした。



  *

 マリーのお茶会。

 そう揶揄するのは親衛隊全国指導者個人幕僚本部長官のカール・ヴォルフ親衛隊大将だ。

 問題の「マリーのお茶会」は週に一度、ハインリヒ・ヒムラーとマリア・ハイドリヒの間で執り行われる。ふたり以外の同席者はいないため、彼らの間でどんな会話が交わされているのかもわからない。ひとつだけ確かに言えることは、親衛隊長官であるハインリヒ・ヒムラーが少女のことをひどく恐れていると言うことだ。

 もっとも、今のところマリア・ハイドリヒが県展を越えて軍部や国家保安本部上層部の決定に働きかけをするということもないから、カール・ヴォルフはそれらを気に掛けつつも無言で静観している。万が一悪い影響が親衛隊に現れるようなら、問答無用で彼女を強制収容所に送りつける覚悟はできていた。

 ちなみにマリーを恐れているらしいヒムラーの決定は、今のところ比較的正常に感じる範囲内で下されており、親衛隊の運営を行っていたから否やと進言する言われもない。

 周囲の空気に流されやすいヒムラーは、かつてのラインハルト・ハイドリヒのような男にはせいぜい御しやすかっただろう。しかし、ハイドリヒの死後、ヒムラーに対して主導権を握ろうとする高級指導者たちによる権力争いが表面化するようになってから、ほんの一ヶ月ほどの間、ヒムラーの主軸が定まらないままでいた。

 そんな日和見主義的な男を、少女の存在が絶妙なさじ加減で制御していることが、ヴォルフには驚きを禁じ得ない。

 一見しただけでは、大人の世界の礼儀に疎く、少々空気の読めない少女といった評価になるのだが、けれどもそんな子供の存在が、ヒムラーに大きな影響を与えている。

 いや、もしくは子供故の影響力なのだろうか。

「……だがな、長官のことだ」

 ヴォルフは部屋の外に待機していた元武装親衛隊のアルフレート・ナウヨックスを思い出して眉をひそめた。

 ヒムラーのことだ。

 (くだん)の少女が占い師かなにかであったらどうしたものか。

 正直なところ、ヒムラーの性格を知るヴォルフには不安の種が尽きないというのが本音だった。良い年齢(とし)なのだから、オカルトめいたものに振り回されるのもどうかと思うのだが。

 しかも困ったことにヒムラーは真剣にそれを信じて居るものだからタチが悪い。

 「マリーのお茶会」とやらで占星術などやっていたらどうしようか、という(らち)もない不安を感じてヴォルフは何度目かの溜め息をついた。

 いっそのこと緊急の報告があるとでも言って、一度は踏み込んでみるのも一興だろうか。

 そんなことをカール・ヴォルフが考え出した頃、ヒムラーとマリーが「お茶会」を終えて出てきた。

 相変わらずだが、ヒムラーの顔色は余り良くない。

 彼女と話しの内容はよほどヒムラーの心臓によろしくないと見える。

 ヴォルフと話しをしているときは半分以上、どうでもいい話しなのだが。

「別にわたしは、権力なんていりません」

 マリーは歩きながらそう言った。彼女の前を歩くヒムラーはと言うと「そうか」と頷きながら額をハンカチで拭っている。

 いつもの光景だ。

「しかし、権力がほしくないなら、どうして君はこんなにも沢山のことを知っているんだね? ハイドリヒ少佐」

「……秘密です」

「もしかしたら、君の叔父上から聞いていたのかね?」

 そう言ったヒムラーが、数秒後に顔色を白から真っ青に変えて硬直した。マリーの表情はヴォルフの場所からは後ろ姿になっていて、うかがい知ることはできない。

「……――いや、なんでもない」

 やがてヒムラーはがっくりと肩を落としてうつむいてしまった。まるでハインリヒ・ヒムラーの様子は蛇に睨まれた蛙のようだ。

「そうですか?」

 なんでもないと言ったヒムラーに告げたマリーの言葉の調子は相も変わらず変わらないから何があったのかヴォルフには理解の範疇の外にある。

「長官、総統官邸での作戦会議の報告がございます」

 親衛隊全国指導者個人幕僚本部長官の言葉に、ヒムラーが我に返るとあからさまに引きつった表情で、まるで「助かった」とでも言いたげに苦しげな笑顔をたたえるとマリーに手を振った。

「いつも報告をご苦労。わたしはこれから別件の仕事があるので失礼する」

 ブーツの踵をわざとらしく鳴らしたヒムラーに、マリーはにこりと天使のような笑顔を浮かべるとぺこりと頭を下げる。

「ヒムラー長官、どうかなさったんですか?」

「君には関係ない、ヴォルフ大将」

 固い声で言葉を返したヒムラーは、気が立っているのか苛立たしげに踵を鳴らして歩いているが、それはおそらく恐怖の裏返しだ。

 彼は少女を恐れているのだから。

「……ふーん」

 華奢な少女が唇に人差し指を当てながら、無遠慮にヒムラーの背中を見つめている。子供らしいつぶやきはどこか不気味でカール・ヴォルフはぞくりと背筋を震わせた。

 底知れない青い瞳は深い沼のようだ。

 そしてその底なし沼からは幾本もの、白い腕が伸びていて、覗き込もうとする者たちをことごとく抱き込んで、沼の底にさらっていく。

 けれども、彼女に危機感を抱く者たちはまだ知らない。

 マリー自身、人に圧倒的な存在感を感じさせるのと同時に、自分自身を消耗させていることに。彼女にはまだ、その強い精神力を支える体力などありはしないのだから。

「……少佐殿シュトゥルムバンヒューラー!」

 カール・ヴォルフとハインリヒ・ヒムラーの背後で、ナウヨックスの叫び声と、どさりとなにかが崩れ落ちる音が重なったのはそのときだった。

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