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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
VI ドッペルゲンガー
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10 贖罪

 国家保安本部の三局と四局が中心となって率いるアインザッツグルッペン。その任務は形式的には「パルチザン」の掃討任務とされた。しかし、実際の任務の実行手段が目を覆いたくなるようなものが多く、それが国家の正規軍、及び武装親衛隊などの将兵から忌避される原因となる。

 何よりも、武装組織ではない警察組織たる一般親衛隊の国家保安本部が戦場を我が物顔で闊歩しているものだから、なおさら評判はよろしくない。

 全ての武装集団は国家保安本部のアインザッツグルッペンに対し、最大限の協力をすべきこと。そうした国家保安本部と武装親衛隊、国防軍などとの間で取り決められた協力関係に、苦々しいものを隠せないのは、本来戦場にあるべき武装組織のリーダーたちだ。

 民間人らが思うよりも、その確執は根が深い。

 そうは言ったところで、そうした汚れ仕事を好んで行っている行動部隊アインザッツグルッペンの隊員たちはごく少数で、ほとんどの隊員たちがやむをえず上からの命令であるからそんな「仕事」をしているに過ぎない。

 ――人間を数字で数えるようになったらおしまいだ。

 そんなものは所詮理想論でしかない。

「我々が」

 つぶやいアルトゥール・ネーベにオットー・オーレンドルフは鋭利な目を上げる。

「我々が、心を持たない卑劣漢か、悪魔かなにかだとでも”奴ら”は思っているらしい」

「……そうでしょうね」

 ネーベとオーレンドルフは共に、ほんの数ヶ月前まで東部でアインザッツグルッペンを展開し、残酷極まりない任務に従事した。彼らの行った行為は、決してどんな言葉でも取り繕うことなどできはしないし、正当化される余地のないものだ。

 彼らが殺したのは、武器を手にした抵抗者ではなく、兵士でもない。迫害に怯え、武器も持たない一般市民だった。そんなことは、国防軍の輩や、武装親衛隊などに言われなくても、なによりも自分たちが最もよくわかっている。

 自分がなにを判断し、何をしたのか。

 自分の決定が何万人もの人間を殺害したこと。

 もしも正当化できる言葉があるのなら、そう。たったひとつだけだ。

 命令だから殺した。

 ただそれだけ。

 しかし、その命令を下したハイドリヒは死んだ。政策が軌道修正されれば、国家保安本部の隊員たちはこのような過酷な任務に身をやつさなくてもすむのかもしれない

 だが、現実は違う。

 現実は最も残酷だ。

 いっそヒムラーやゲーリングが率先してこうした任務を行えば、どれだけ隊員たちの精神に負担をかけるものなのかがわかるだろうに……!

 あるいは、ラインハルト・ハイドリヒ辺りは、自分でやってみろと言われれば、躊躇のかけらも見せずにやってのけるかも知れない。

 ラインハルト・ハイドリヒとはそういう男だ。

 目的のためならば、手段は選ばない。

「しかし、今さら掃討の手を緩めるわけにはいきません」

 オーレンドルフの冷静な指摘にネーベは無言で頷いた。

 それは感情論ではなく、極めて論理的に考えて導き出した結論だ。彼の言葉は奇しくも、シェレンベルクの指揮下にあるマリーがユットナーに語ったものと同じになるが、冷静に考えれば当然の答えとも言える。

 引くに引けないところまで来てしまったこと。それをオーレンドルフもネーベも自覚している。

「東部は、ポーランド以上にユダヤ人が多いからな」

「しかし、ソ連を屈服させることができれば万事解決するかも知れません」

 事務的な言葉を綴るネーベに、オーレンドルフは頷くとまるでひとつの提案をするかのように顔の前に人差し指を立ててそう言った。

「六局の、マリーが言っていたことですが、ロシア人共のポグロムをあおり立てる事ができれば我々は手を汚さずに済むのかもしれません」

「先日の会議での話しか?」

「いえ、彼女のバルコニーのお茶会でちらりと」

「……まるで不思議の国のお茶会のようだな」

 オーレンドルフの言葉になぜか感心したような相づちを打ってから、ネーベは首を傾げると人好きのする笑顔をたたえて口を開いた。

「そのお茶会とやらにわたしもぜひ参加させてもらいたかったものだ」

「では、次の機会がありましたら、ネーベ中将のところへ人をやりましょう」

 ちなみにお茶会というのはただの昼休みのことで、オーレンドルフもネーベもわかっていて柔らかな言葉で例えをする。

「楽しみにしていよう」

 明るい笑い声を上げた刑事警察局長に、国内諜報局長は「ところで」と言葉をつなぐ。

「そのマリーと言えば、最近はお茶会をする暇もないようですね」

「そうらしい。ヴォルフ大将やユットナー大将のところを跳んだり跳ねたりしているとは聞いている」

 どちらも親衛隊本部の長官だ。

 親衛隊の中でも重鎮中の重鎮。

「堅物のベスト中将が頭を抱えているらしいですね」

 けれども、そんなナチス親衛隊の高級指導者たちと顔を合わせた直後ですら、マリーに外見的な表情の変化は見られない。まるで朝食の話しをしているときと何ら変わらない、とでも言えばいいのか。

 そうして彼女は笑うのだ。

 この世の地獄。

 それらを間近に見据えて尚、少女は天真爛漫に笑っていて、それが異常であると察していても惹きつけられずにはいられない。

 地獄の窯の口が開いていてすら、その中で咲くのは一輪の花。

「人とは弱いものだからな。強がっていても、救いを求めずにはいられないものだ」

「えぇ……」

 数多くの形で、人は救いを求める。

「……消えないんだ」

 ぽつりとネーベが独白するように呟いた。

 消えていかない。

 助けてほしい、と。

 どうか見逃してほしいと、彼らに縋ったユダヤ人達の悲痛な嘆きの声が、ネーベの耳にこびりついて離れない。警察官ではなかったのかと、自分を咎めるのは「良心」の声だ。

「おまえはなにをやっているんだ、と……」

 彼の良心が、精神の深い奥底から掠れた悲鳴を上げている。

「わかっています」

 オーレンドルフはネーベに言った。

 それでも、もう後ろを振り返ることも、戻ることもままならない。戻る道のない永久の暗がりを”彼ら”は進まなければならない。そして、人とはそれ程に弱いものだから、自分の近くにある、自分よりも遙かに超えた異質な存在を見つけて”安堵”する。

 スケープゴートにする。

 その現実が、さらにネーベを傷つけた。

 同じではないか。

 ユダヤ人たちに対してそうしたように、マリーにも残酷な、そして一方的な自分の安心感を得るために、彼女を生け贄の山羊としているにすぎない。

 彼女に対して甘くなるのはきっとそんな罪悪感からなのだろう。

「わたしは、大人として子供に対してひどいことをしているのだろうな」

 自分の心の負担を軽くするために子供の存在を言い訳にしている。彼女が正常であるのか、それとも異常であるのか、そんなことはネーベにはわからない。それでも、なんと自分本位なことか。

 自分の生命(いのち)をもってして、神に懺悔をしたくなることがある。自分が奪った無辜(むこ)の命のために祈りを捧げる。

 ――どうか、許してほしい、と。

「……ネーベ中将」

 オーレンドルフが言いかけたそのときだ。

「ネーベ局長!」

 マリーが背後から勢いよくネーベに抱きついた。傍から見ていると本当に仲の良い親子のようだった。しかし、ネーベはその声に思わずぎくりと肩を揺らす。

「……マリーか、どうしたんだね?」

 自分たちが交わしていた不穏な会話を、少女に聞かれたのではないかと思ったネーベは、わずかに動揺するがそんな彼の様子を意に介さずに笑っているマリーは、当たり前のようにふたりが囲むテーブルについた。

「何のお話しだったんですか?」

 屈託のない。

 純粋な明るさに救われる。

「東部に展開する、行動部隊の隊員たちについて少し話しをしていたのだよ」

「……そうなんですか」

 嘘ではない。

 東部戦線に展開するアインザッツグルッペンの隊員たちの精神的な負担は大きな問題でもある。ネーベやオーレンドルフだけがその罪悪感を背負っているわけではない。誰よりも、「囚人」たちと直接接している隊員たちが心を傷つける。

 胸の奥に貯まっている重苦しい思いを、ネーベは意識ひとつで切り替えて普段と代わり映えのない笑顔をたたえると、指を鳴らして給仕を呼んだ。

 マリーのためにケーキとミルクを頼むと、刑事警察局長は口を開きかけた。

 少女の前で重苦しい話しはあまりしたくない。アインザッツグルッペンの話しとなればなおさらだ。国家保安本部の要職につく高級指導者、及び中級指導者たちは一様にしてアインザッツグルッペンの指揮官という任務に頭を抱えている。

「心配しなくても大丈夫ですよ、局長」

 にっこりと少女らしい笑みを浮かべたマリーは、座っている椅子に手をついてから軽く上半身を乗り出すとふたりの局長たちを見つめた。

「いずれ東部戦線の状況が動けば、ユダヤ人なんて北に追いやることができます。そのときに、彼らは拒絶なんてできません。隊員たちの罪悪感など、”彼ら”にいくらでもかぶせることができますから」

 ニコニコと笑っている少女はそう告げると、運ばれてきたケーキに瞳を輝かせた。

「ネーベ局長も、オーレンドルフ局長も罪の意識を随分と感じているようですけど、ヨーロッパの病気は、決してナチス党(NSDAP)だけが育んだものではありません」

 歌うようにマリーが続ける。

 フランスも、イギリスも、ソ連も、アメリカも。

 みんな同じ。

「彼らはユダヤ人を恐れ、忌み嫌っている」

 ケーキをつつきながら、瞳を上げた少女の底知れない青い瞳にネーベとオーレンドルフはハッとした。

 彼女が残酷な言葉を吐いたからではない。

 反ユダヤ主義。それはドイツ周辺のみならず、ヨーロッパ全土で深く根付いたものだ。それがたまたま、こうした形で爆発しただけのこと。近年ではロシアの行った「破壊(ポグロム)」も似たような事件だ。

「ですから局長方が、そんなことで罪悪感を背負う必要なんてないんです」

 必要とあれば、イギリスやフランス、ソ連やアメリカなどの外国の反ユダヤ主義に火をつけてやればよい。元々、根底に流れているのだから。

 そうなれば、ドイツ人だけが罪の意識を背負う必要などなくなるだろう。

 マリーの冷酷な言葉は、しかし真実だ。

「言葉だけの人道主義が、どれくらい愚かなものなのか。それは、局長方が知っているはずです」

 ニコニコと笑いながらケーキをつついている少女は、そうして「ね?」と言ってからネーベとオーレンドルフを見上げてみせた。

 ロシアも同じような行為をしているというのに、どうしてドイツだけが非難されなければならないのか。そして、イギリスやアメリカは人道主義を気取っていながら、自国へのユダヤ人の受け入れを拒否して居るではないか。

 つまるところ、そういうことだ。

 理由付けなどいくらでもあるだろう。

 しかし結論だけを見れば、彼らも同じ穴の狢でしかない。

 マリーの子供らしい指摘にオーレンドルフは息を飲み込んでから、片手を瞼の上に宛てると思わず声を上げて笑い出す。

 子供だから、彼女には政治的な確執が一切通用しない。

 子供だから彼女はそれはおかしいではないかと鋭く指摘する。

「面白いことを言うな」

「でもどうせ、オーレンドルフ局長は負ければ弁論する権利はないって言いたいんでしょ」

「それもある。しかし、面白いことを言う。……そうだな、それもそうか」

 ひとりで納得したようにしばらくしてから笑いを納めたオーレンドルフは、顎に手を当てたままで考え込んだ。

 世界は矛盾に満ちている。

 敗者に正義はなく、勝者が正義なのだ。

 どんなに悪辣であっても、勝てば全ての権利を手に入れる。

 かつての欧州大戦でのドイツのように。

「……マリー」

 ネーベが少女を呼んだ。

「はい?」

「勝てば、我々のこの罪悪感は拭えるのだろうか……?」

「個人の感情についてはなんとも言えませんが、少なくとも他者から咎められる心配はなくなります」

 マリーの言葉にネーベは思わず瞳を潤ませた。しかし、それを奥歯をかみしめてぐっとこらえた彼は引きつった笑顔をたたえたままでマリーの頭を一度だけ軽くなでた。

 子供はまっすぐで純粋だ。

 世界の歪みを知らないからこそ、ただ自分の価値観だけで世界を見つめている。

 しがらみを知らないということが羨ましくて、ネーベはかすかに頬をゆるませた。

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